2015.2.15 きんたメール第439号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。
「身に沁みるように・・・」
敬愛する皆様、板橋からです。寒さもましています。どうぞ、ご自愛くださいますように。皆様の上に主の平安が豊かに注がれますように。
さて先日の土曜日は、息子の所属するサッカー部の練習試合を応援に行きました。天候にも恵まれ1ゲーム20分ですが10試合ありました。
みんな熱く応援していますから、いろいろな声援が耳に入ってきます。「ナイスシュート」「ナイスカット」「もっと声出せ」「ナイスプレー」「フォローフォロー」「逆だよ逆」「左にパス」「そこじゃないよ」「どんまいどんまい」「おしい」「おー」「あー」などなどの声は、熱くなればなるほど大きくなってきます。
面白いのは、応援側からはよく見えるということです。もちろん、全体を見ている人もいれば、自分の子だけを見ている人もいますし、見てるポイントは様々ですが、応援側からはよく見えるのです。だから、その声の通りにできれば、すごいな〜と思います。
しかし、実際にプレーしてる選手は、応援側から見てる視点とは違います。現場の狭い視点の中で、周りの選手が声を掛け合うことで視点を広げたり、判断を促したりしてプレーをしていますから感動的な素晴らしいプレーもでてきますし、それでもミスをしてしまうこともあり、相手の動きに、思い通りに体が動かないこともあります。精神的にプレッシャーを感じたり、周りが見えなくなるような、本人にとって身に沁みるような苦い体験と、納得できるような練習を繰り返しながら成長していくのです。
人生に置き換えても、成長するためには、身に沁みるような苦い体験も必要ということがわかります。でも、あまり味わいたいと思うものではありません。それでも味わうのが人生なので、そんな時はイエスさまの十字架をほんの少し味わうことができたと思うだけでもラッキーだと思います。とにかく逆境を順境の糧へと変換できる主に心を向けるならば、見方や、受け取り方が変わり、見てる世界観はガラリと変えられていくことを体験しながら、そして、こんな自分のために主が十字架に掛かってくださったことを益々感謝していくことができますように期待します。
2015.2.8 きんたメール第438号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。
「継承したいもの・・・」
敬愛する皆様、福岡からです。寒さもましています。どうぞ、ご自愛くださいますように。皆様の上に主の平安が豊かに注がれますように。
さて、今回は「継承したいもの」について考えてみたいと思います。先週はいろいろなことが重なって慌ただしい時を過ごしました。皆さんはそれぞれどんな週をお過ごしだったでしょうか。自分の人生を振り返れば、ある出会いからすごく大きな影響を受けることがあります。皆さんも、今までの生き方がガラリと変わるような出会いを大なり小なり経験されているのではないでしょうか。
私は自分がどう生きていいのかわからない暗闇を彷徨っている時がありました。自分でも自分をコントロールできないうつ状態の時は、人と会うのもつらい、夜は眠れなくなり、ひきこもりがちになり、そして、そんな自分が嫌いで赦せないという悪循環に入り、まるで出口のない暗闇の中で不安と恐れに支配されて、絶望と自暴自棄がいつも一緒にいるような状態でした。
このような状態の時を、今振り返れば、声にならない心の奥の声は、ものすごく強く救いを求めます。暗闇の中に差し込む光を求めます。気力はないのにも関わらず、ものすごく強く求めているのです。その声にならない声を主は聴いてくださっているのです。
それで私の場合は、そのような時に、もとヤクザの親分だった牧師のところへと導かれました。ヤクザの生き方は、力の支配を目指す生き方ですから、ボス猿の力が弱まったりすると、すぐにその座を求めて新勢力が現れるような世界です。ですから死を目前とした病を担うことは、力関係に大きな変化が生まれるわけです。その牧師は、いつ死んでもおかしくない病を担ったことで、死人に口なしのごとく、すべての罪を被せられた経験の持ち主でした。もう煮るなり焼くなり好きにしてくれと思ったそんな時に、イエス様と出会い、「力の支配」ではなく、「愛の支配」を知るのです。
そして、よい時も悪いときも、変わらずに一緒にいて正しく導いてくださる御方こそ、本当の親分であること悟ったのです。しかも今まで散々悪いことをしてきたこんな自分のためにも、身代わりとなって十字架に架かり、罪を赦してくださるのですから、どう考えてもありえないほどの驚きであり、それゆえに本物の救いであり、計り知れない大きな愛を知ることになるのです。その御方がいつも一緒にいてくださること、しかも、すべてご存知で、過ちを犯した時は気付かせてくださり、正しく導いてくださる御方に出会えば、生き方が変わるのは当然と言えます。
しかし、それで完璧な人になるわけではありません。完璧な人だからクリスチャンや牧師になっているのではなく、むしろ自分は罪人の親分であることを認識してる人がクリスチャンであり、牧師として用いられていると言えます。教会に来てるから完璧な人になるのではありません。赦しは与えられましたが、罪人であることには変わりないのです。赦されたことを知った罪人です。
だから、神さまから目をそらしてしまうと、すぐにもとの自分が顔を出すような弱いものであることも、その牧師からも自分自身からも、また関わりを与えてくださったいろいろな人からも学びました。救いはイエス様以外にないことを確信しました。イエス様なしの人生は考えられません。ものすごい恵みであり希望であり本物の宝なのです。すべての人に気付いてほしいものです。
私にとっては恩師となる、もとヤクザの親分であった牧師から継承したものは、このアブラハムの時代からずっと継承されてきている「インマヌエル」信仰です。インマヌエルとは、神様が一緒にいることを知った生き方です。そして私も、家族にはもちろんですが関わる人に継承していきたいものです。継承下手な私だからこそ、用いられる方法で継承していくことができますように。このことを教会も私も忘れることがないように助けてください。
それぞれの気づきが豊かにありますように。ぜひ教会に足をお運びください。皆様の上に主の祝福(インマヌエル)が豊かに豊かに豊かにありますように。
【板橋教会】・・・本日は、2015年5回目の礼拝です。礼拝前に子ども会、聖書教育の時があります。新保牧師はリハビリ継続中ですが、2月から宣教されています。感謝します。またわたなべ兄は先月末から放射線治療のため入院しています。共に主の御手がふれてくださり完全に癒されますように覚えてお祈りください。またふじむら姉の歩みの上に、いつも主が共にいてくださいますように。祝福が豊かにありますように。故松田兄のご家族の上に主の祝福が豊かにありますように。つのえ兄、なかじま兄、なかや兄、なかがわ姉、よこやま姉、みやもと姉の健康が護られますように。あらた兄の上に主の平安が共にありますように。それぞれのすべてをご存じの主が必要を与えてくださいますことを感謝します。祈りの課題がありましたら、お知らせください。一緒にお祈りします。
ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。特に被災地の方々の上に主の癒しと慰めが、救援にあたっている方々の働きの上に主の支えが豊かにありますように祈ります。栄光在主
2015.2.1 きんたメール第437号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。
「朝顔のように・・・」
敬愛する皆様、福岡からです。寒さもましています。外出したら手洗い、うがいの励行を心掛けましょう。どうぞ、ご自愛くださいますように。皆様の上に主の平安が豊かに豊かに豊かに注がれますように。
さて、今回は「頼るべきもの」について考えてみたいと思います。昨日(土曜日)はお休みで一歩も外に出ないで家にいました。何をしていたかと言えば、午前中は朝7時すぎくらいから妹とメールをしていました。家内の妹です。妹は神さまが大好きですから、神さまやイエスさまの話をすると長くなってしまいます。お互いに受け取り方や感じ方は違うので、そういったことでも対話から気づきがあるし、耳の痛い話も平気で言い合えるので、家族の有難味を感じています。妹はどう思っているのかわからないけど、何となく信頼関係が育っているように感じています。そして、いつも家族のことや、一人でも多くの人が救われてほしいと考えて行動しているので尊敬しています。だから、家族についての話でも、長いやりとりになってしまいます。
さて、妹と話して気づかされたことは、人は何かに頼らなければ生きていけないということでした。この寒い時期に夏の花の話ですが、夏に咲く花に朝顔があります。朝顔はつるが伸びて成長していきます。しかし自分で自分を支えることができません。それで何でもいいから近辺の物に巻きついて、それを頼りにして伸びていきますし、陽が昇れば花が開きます。その朝顔の特徴を見ると、人も同じだな〜と言うことです。なぜなら人も何かに頼らなければ生きていけません。人は弱い存在です。
人生には不安や恐れや心配、いろいろと納得のいかない不合理なこと、不公平なこと、不公正なことがあります。それで何かあるとすぐに転んだり落ち込んだりします。それで、自分の頼りとするものがないとどうにもならなくなります。朝顔と同じように人は一人で立つことができないのが現実です。
だから、とにかく手当たり次第、何でもつかんで、これに頼んで、これでよしと安心したいと思うのです。これは当然であろうと思います。神様がそのようにお造りになられたからです。ただ頼るべきものを不確かなものに求めてしまいやすいのが問題です。お金だったり、人が造った石や木の像であったり、占いだったり、地位や名誉だったり、快楽だったり、お酒だったり、その場しのぎやごまかすための一過性のものです。
では、何に頼るべきなのか。それは本当に花(ありのままの自分)を咲かせてくださる御方にこそです。すべてをご存知の御方がおられます。私たちが本当により頼むべき御方はただおひとりです。その御方だけにより頼む。私たちのために十字架に架かられたイエス様です。この御方への信頼こそが教会の鍵です。この鍵こそが神の国の入り口です。主に出会う前の私は、自分を責め続けて生きてきました。主に出会い、私はそうせずにはいられなかった自分を受け入れることができるようになったのです。すべてを主はご存じで最善を成してくださることを知ったからです。その主が一緒にいてくださるからです。確かなものを知った新しい自分がはじまります。朝顔のように自分の思いを超えて、主により頼む心をこそ、主に信頼する心をこそ成長させてくださいますように祈り求めていきたいと思います。
それぞれの気づきが豊かにありますように。ぜひ教会に足をお運びください。皆様の上に主の祝福が豊かに豊かに豊かにありますように。
【板橋教会】・・・本日は、2015年5回目の礼拝です。新保牧師はリハビリ継続中ですが、今月から宣教されます。感謝します。またわたなべ兄は今月末から放射線治療のため1月29日入院しました。共に主の御手がふれてくださり完全に癒されますように覚えてお祈りください。また板橋教会に13年仕えてくださったふじむら姉に心から感謝します。これからの姉の歩みの上に、いつも主が共にいてくださいますように。祝福が豊かにありますように。故松田兄のご家族の上に主の祝福が豊かにありますように。つのえ兄、なかじま兄、なかや兄、なかがわ姉、よこやま姉、みやもと姉の健康が護られますように。あらた兄の上に主の平安が共にありますように。それぞれのすべてをご存じの主が必要を与えてくださいますことを感謝します。祈りの課題がありましたら、お知らせください。一緒にお祈りします。
ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。特に被災地の方々の上に主の癒しと慰めが、救援にあたっている方々の働きの上に主の支えが豊かにありますように祈ります。栄光在主
2015.1.25 きんたメール第436号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。
「感謝を忘れないように・・・」
敬愛する皆様、板橋からです。寒さもましています。外出したら手洗い、うがいの励行を心掛けましょう。どうぞ、ご自愛くださいますように。皆様の上に主の癒しと慰めと平安が豊かに豊かに豊かに注がれますように。
さて、今回は「家族」について考えてみたいと思います。「家族とは」を調べてみると、人格的結合と感情的融合のもとに生活している小集団。と大まかに定義されています。つまり、同じ家に住む繋がりをもった群れということになります。その家族にある土台は「きずな」ですから、私たちにとって「家族」は人生の中でもっとも重要なテーマでもあるのです。皆さんは、どんな家族になりたいでしょうか。
では、家族を考える前に皆さんにお聞きします。皆さんは普段、「空気」に感謝していますでしょうか。私はほとんどと言っていいほど普段意識していません。空気は目に見えないからなのか、あるのが当たり前すぎて、感謝の思いが湧きにくいのかもしれません。しかし、よく考えてみれば私たちには空気は欠かせないし、空気があるから、生きていくことができます。空気は生きていくために欠かせない命の源です。そういう視点から見ると、私たちが生きていくために必要なことはたくさん与えられているのです。ですから、ちょっと意識してみると目に見えないけど、私たちの周りには恵みが満ちていることに気付かされます。でも当たり前すぎて、あるのが普通になってしまって感謝の思いも見えなくなってしまうのです。
それで、家族に戻して考えると、「家族」の存在も全く同じことが言えます。一緒にいる時間が長くなると、いつのまにか当たり前になりすぎて感謝することを忘れてしまいがちです。家族となっていることは、すごい奇跡なのに、感謝しなくてはならないことなのに、当たり前すぎて、あまりにも身近すぎて、燈台下暗しのごとく、私はこの根っこにあるものがすぐに見えなくなってしまうのです。
ところが実際、家族を失うと、本当に強いショックを受けるのです。当たり前が当たり前でなくなってしまうショックが大きすぎて、生きていけないと思うほどの衝撃を受けて、はじめて本当に大事なことを理解するのです。後悔先に立たずです。どんな人にとっても、家族は欠かせない存在です。だから、家族がいることを感謝して、感謝の意を伝えることを当たり前にしたいものです。
そして、もう一歩踏み込んで、私たちが日常でそのような姿勢でいるとしたら、神さまに対しても同じことをしていると言えます。当たり前になりすぎると忘れやすい私たちですから、忘れないように1週間に一度礼拝が備えられています。そして、本来あるべき姿を取り戻すべく、毎日、毎時、いつも神さまに心を向けてより頼み、一緒にいてくださることに感謝できるように成長していきたいものです。そのためにも、このような罪深い私のためにイエス様が十字架にかかってくださったことを、いつも思い起こしていくことが大切です。そのところから目に見えないは働きに、そして家族に感謝する心が豊かに養われていきますように祈ります。
それぞれの気づきが豊かにありますように。ぜひ教会に足をお運びください。皆様の上に主の祝福が豊かに豊かに豊かにありますように。
【板橋教会】・・・本日は、2015年4回目の礼拝です。新保牧師はリハビリ継続中です。またわたなべ兄は今月末から放射線治療のため入院します。共に主の御手がふれてくださり完全に癒されますように覚えてお祈りください。また板橋教会に13年仕えてくださったふじむら姉に心から感謝します。これからの姉の歩みの上に、いつも主が共にいてくださいますように。祝福が豊かにありますように。故松田兄のご家族の上に主の祝福が豊かにありますように。つのえ兄、なかじま兄、なかや兄、なかがわ姉、よこやま姉、みやもと姉の健康が護られますように。あらた兄の上に主の平安が共にありますように。それぞれのすべてをご存じの主が必要を与えてくださいますことを感謝します。祈りの課題がありましたら、お知らせください。一緒にお祈りします。
ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。特に被災地の方々の上に主の癒しと慰めが、救援にあたっている方々の働きの上に主の支えが豊かにありますように祈ります。栄光在主
2015.1.18 きんたメール第435号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。
「あなたの土台はどこに据えますか・・・」
敬愛する皆様、福岡からです。117淡路大震災から20年が経ちました。心痛めておられますお一人ひとりの上に主の癒しと慰めと平安が豊かに豊かに豊かに注がれますように。
さて、今回は「土台」について考えてみたいと思います。先日、ある方が本当の自分を出すのが怖い、という話をしていました。ここで言う「本当の自分」とは、こんな自分を出したら受け容れてもらえないだろうな。と思い込んでしまっている自分の姿です。今までそのことで傷ついてきたのでしょう。だから、本人にとってみれば大変な重荷になっているのです。
そこで、その人にとって、一体何がそのように思わせてしまっているのか、もう少し深いところにふれてみました。すると、「いい子」でないといけない。という思いが根っこにありました。つまり、「良く思われたい」「大事にされたい」「愛されたい」「馬鹿にされたくない」「蔑まれたくない」などなど。この根っこにあるものが本人にどんな働きを促すかと言うと、「相手にどう思われるのか」と言うことを非常に気にさせるのです。
だから、相手によく思われれば「幸せ」で、悪く思われれば「不幸」になるわけです。相手の受け止め方で「幸せ」が左右されてしまうのです。そんなところに土台を据えていたら、それは大変です。でも、共感できる人も多いのではないでしょうか。私もそうでしたので、ものすごく共感できます。
では、どうすればよいのでしょうか。上記の状態は「相手にどう思われるか」と「自分はどう思うか」のバランスがとても悪いのです。「相手にどう思われるのか」を大事にするのはとても良いことですが、それだけだとバランスが悪くなってしまうのです。そこで「自分はどう思うのか」も大事にすることが必要なのです。具体的には、「相手にどう思われるのか」以上に、「相手に幸せになってほしい」というように「自分はどう思うのか」を大事にすると、自分がどう思われても相手の幸せを願うので、世界観は大きく変わってくるものです。土台を据えるところによって大きく違うのです。
「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」 ルカ6:48〜49
と聖書に書かれていますように、本物の土台を据えたいものです。この本物の土台があります。私たちのために十字架にかかられた御方こそ、真の救いであり本物の土台です。あなたの土台はどこに据えますか。イエスさまに出会った人は幸いです。人生の荒波が押し寄せようとも、いつも一緒にいて支えてくださる主に感謝します。
「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」コリント一3:11
ぜひ、教会にお越しになって確かめてください。本当の自分を出すのが怖いと思うお一人ひとりの上に主の愛が豊かに注がれますように。皆様の上に主の祝福が豊かに豊かに豊かにありますように。
【板橋教会】・・・本日は、2015年3回目の礼拝です。渡辺兄は今月末から放射線治療のため入院されます。主の御手がふれてくださり完全に癒されますように覚えてお祈りください。また今回の宣教奉仕は信徒代表及び子ども会担当の田中兄がされます。大胆に用いられますように覚えてお祈りください。板橋キリスト教会の上にリバイバルが起こりますように。故松田兄のご家族の上に主の祝福が豊かにありますように。つのえ兄、なかじま兄、なかや兄、なかがわ姉、よこやま姉、みやもと姉の健康が護られますように。あらた兄の上に主の平安が共にありますように。それぞれのすべてをご存じの主が必要を与えてくださいますことを感謝します。祈りの課題がありましたら、お知らせください。一緒にお祈りします。
ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。特に被災地の方々の上に主の癒しと慰めが、救援にあたっている方々の働きの上に主の支えが豊かにありますように祈ります。栄光在主