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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2018-07-15 06:59:16 (8 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書7章21,24節

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。」

宣教題「行う人になりなさい」   牧師 新保雅雄

建設会社の現場事務所には、長である監督がいる。その監督も頭があがらないのが現場を設計した設計士である。建て主の依頼によって設計士ができる限りの知恵を絞り建物の案を作り予算を算出して設計図面を作る。現場監督と言えども設計士の意見に従わなくてはならない。すべての工程は、この設計士の思い通りに進んでいく。

その設計士が気を使わなくてはいけないのが、現場で汗をかいて働く職人である。彼らは、体で現場を感じるのです。青写真から立体的に建物を思い浮かべていきます。図面をひと目見ただけで建物の良し悪しを判断する。よい建物か手抜きか見破る。彼らは頭で考えるのではなく体で行って建て主の要望を満たす建物を造るんです。

信仰も同じです。頭の中でいくら知恵を持っていても、いくら聖書に精通していても、口では立派に語れたとしても、生活の中に神の御心が生きていなければ、何になるでしょうか。信仰的に立派で、尊敬される者が、父なる神の御心を行っているとは限らない。

主は、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている」と言われました。

ここでいう賢さは、頭の良し悪しではありません。平和な時には、賢い人も愚かな人も区別がつかない。逆境の時に、主の言葉を自分のものとしている人は強い。主の御言葉は、実行されて初めて力になるのです。言うだけ、聞くだけは、誰にもできることです。

主の御言葉を行う人こそ、それを自分のものにしているということである。主を信じる者には、主がそれを行う力も備えて与えてくださるのです。信仰は神の恵み。行いは主の力の支えによるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-07-08 06:46:24 (16 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書28章20節

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

宣教題「あなたと共にいる」   牧師 新保雅雄

神の御子イエス・キリストは、「弟子達に話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(マルコ16:19) 復活された後、天にあがられ聖霊となられて、信じる者お一人お一人に降られました。

そして弟子達は、主イエスの約束を祈り待っていました。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使1:4、8)その約束通り主イエスは、エルサレムで祈り待つ弟子達に降りました。「一同は聖霊に満たされ霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。」(使2:4)それが証です。

主イエスによる新しい時代。すなわち「御霊の時代」が今始まる。聖霊が降るとは、信じる者の心の中に、主イエスが住まわれるということです。住まわれる事は、救いの保証です。

天地の創造、そして最初の人間アダムが罪を犯し神から離れました。神は大変悲しまれアブラハムを信仰によって立てられ、イスラエルを起こし神の民とされた。しかし神の民であるイスラエルは、度重なる不信仰によって、神の御子を十字架につけ殺しました。

しかし今、キリストの聖霊によって新しいイスラエルが起こされました。新しい民が聖霊を通して「神の養子」とされるのです。

主イエスは言われます「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18〜) 神、共にありインマネール。 


投稿者 : church 投稿日時: 2018-07-01 06:29:50 (14 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書4章4節

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る。一つ一つのことばで生きる。」と書いてある。

宣教題「神の言葉によって勝利する」 牧師 新保雅雄

神の子イエスが、天から降ってこられ人間を罪の世界から救う。

しかしこれを喜べないのがサタン、つまり悪魔。神様を追い落として代わりに自分が、神として崇めてほしいサタンとしては、せっかく人間の祖先のアダムとエバを誘惑して神様から引き離し、罪の世界を造ったのに、ここにきてとり返されては元も子もない。

そこで、主イエスがバプテスマを受けると、あわててやってきました。人々に神のみ国について教え始める前に、キリストを悪の側に誘惑しようとやってきたのです。

主イエスは、祈るために荒野にいました。祈りとは神様との対話です。これから人々を救うにあたって神様といろいろ相談していたのでしょう。神様との祈りは、食事もとらずに四十日間も続いた。主イエスは神であるとはいえ人間の肉体を持つ、さすがに空腹です。

そこを見計らってサタンはあらわれ、「はらが減っているんだろう。神の子なら、そこらに転がっている石をパンに変えて食べたらどうだ。おいしいぞ。」と、誘惑してきます。しかし主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る。一つ一つのことばで生きる」と言い放ちました。

主イエスも、神だから当然のことのようにサタンに圧勝したかというとそうではありません。ぎりぎりのところで、神様の言葉によってサタンを撃退することに成功したのです。「キリストは、自分自身も弱さを身にまとっているので、迷っている人を思いやる事が出来るのです。」ヘブル5:2

主イエスは、自分も人間となり、悪の誘惑に打ち勝つのが、どんなに難しいかを経験されたのです。だから、人間の弱さも苦しみ悩みもわかるのです。神の言葉の力によって悪に打ち勝つのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-06-17 04:52:55 (22 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書21章4、12節

「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子達は、それがイエスだとは分からなかった。イエスは、「さあ来て、朝の食事をしなさい。」と言われた。弟子達はだれも、「あなたはどなたですか。」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」

宣教題「あなたと共にいる」 牧師 新保雅雄

主イエスの十字架の死からしばらくしての事です。ペテロとほかの6人の弟子たちは、ガリラヤ湖に漁に出ました。この時のペテロの心は、とても傷ついていました。漁をしながらペテロは思い出していました。主イエスが捕らえられた時「イエスなど知らない」と3回も否定してしまったからです。

漁もうまくいきません。一晩中何度網を下ろしても、魚は一匹も取れないのです。これはペテロ達の、心の様子を現しています。

今、かれらは主を無くし、不安の中で生きています。神を知るクリスチャンであっても、ときとして生きることに不安や恐れを持つ事があります。生きる望みを無くし、孤独の中に陥る事があります。

しかし主イエスは、どんなときもあなたのすぐそばにおられ、あなたを守っていてくださるのです。あなたは、独りではありません。

そんなとき岸から声をかけてきた人がいました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」彼らは、言われるまま網を打ってみると、驚くほどたくさんの魚が取れました。彼らに笑顔が戻りました。その時、声の主が主イエスだと気づきました。

主イエスは、疲れた彼らに焼いた魚とパンを準備されて待っておられたのです。主イエスは、弟子たちとガリラヤ湖の岸辺で一緒に朝食を食べました。彼らは「主が共にいてくださる」という喜びを心の中に感じていました。自分の思いで生きている時、主イエスだと分かりませんでした。しかし主イエスの御声に聞き従う時、平安と祝福を取り戻したのです。主イエスはいつもあなたと共にいます。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-06-10 07:23:28 (24 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書6章19〜21節

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

宣教題「宝のあるところに心もある」 牧師 新保雅雄

富とは、誰もが追い求めるものです。富をどれだけ多く溜め込めるか、これが人生の生きがい、この為に小さなときから努力して、生きていると言ってもいいかもしれません。

皆さんにとっての富とは、なんでしょうか? お金であったり、家屋敷、不動産、宝石といった財物、あるいは地位や名誉、権力でしょうか。まだまだ沢山あります。数え上げたらキリがありません。 

もし皆さんが聖書を知らないで人生を送るとすれば、当たり前に地上に富を積んでいたでしょう。そして手に入れた富は、決して離さないで自分の倉にしまいこむ。地上に富を積むとは、自分の倉にしまいこんで自分の為にだけ使うことなんです。ですから富とは地上の宝物であり。離さないでしまいこむ、離したくないものなんです。

主イエスは、「地上に富を積んではならない。」と言われました。なぜなら、「そこでは、虫が食ったり、さびついたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」からです。

富は自分のものとしてあるのであって、他人へ分け与える事ができない。そのことを虫が食ったりさびつくと言われています。またその富を狙って人は、騙し、恨み、奪いあい、末には殺人まで起こします。地上に富を積むことに心を向けすぎると平安はありません。

主イエスは言われます、「自分を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい。」そして「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言われました。天に富を積むとは、愛を積むということなのです。愛を宝物にするということなんです。


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