2024年になりました。本年も宜しくお願いします。
板橋キリスト教会は新保牧師の体調不調のため、教会員の赤谷兄が伝道担当として、集会を守ってまいります。
今後ホームページも見直して変更していきます。詳細が決まりましたら改めてご案内いたします。覚えてお祈りをお願いいたします。
現在、板橋キリスト教会は新保牧師の体調不調のため、礼拝をお休みしています。
新保牧師の体調が癒されますように。また教会員お一人ひとりの信仰と健康が守られますように。覚えてお祈りをお願いいたします。これをご覧になりましたあなたの上に主の祝福が豊かにありますように。
本日の聖書 ルカによる福音書17章20〜21節
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
宣教題 「神の国はあなたの中に」 牧師 新保雅雄
ファリサイ派の人々が、主イエスに「神の国はいつ来るのか」と尋ねた。主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられた。
心の目を開いて、よく見るならば神の国は、もう既に、あなたのそばに来ているのだ、と言われている。主イエスの福音を聞いて、主イエスの奇跡の業を見る時に、神の国は、ここにあると確信できる。つまり、あなたの思いの中に神の国を確信できるのです。
問われているのは、主イエスを通して現わされる神の国を、どのように、あなた自身が受け止め、感じ取るか、ということが大切なのです。主イエスの福音を二人の人が聞いても、一人は、「神の国が来ている」と受け止め、もう一人は残念ながら「神の国など信じられない」と思う。
この世を生きる限り、誰にも艱難辛苦が訪れます。この艱難が、苦しいだけで何の意味も無いとしたら、艱難に耐えることの意味とは何でしょうか。それよりずるがしこく生きる方が得に思えてしまう。熱く過酷な砂漠の先に、冷たい水をたたえた泉湧く緑のオアシスがあると確信できるなら、艱難辛苦の中を歩くことにも意味があり耐えられるかもしれません。
主イエスと共に歩むならば、今の苦しみも意味の無いものではありません。信じて歩むなら苦しみの先に神の国の喜びがあります。今のあなたの苦しみは、大きな喜びが待っている産みの苦しみなのです。その時、艱難は苦しみではなく試練に変わるでしょう。そう確信できるなら神の御国は、すぐそばにあるでしょう。
本日の聖書 マルコによる福音書4章40節
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」
宣教題 「主に命を委ねます」 牧師 新保雅雄
弟子たちは、舟でガリラヤ湖を対岸に漕ぎ出す。その途中で大きな嵐に遭遇する。たとえ、主イエスが共に乗っておられる舟であっても、激しい突風に吹き付けられ、高波が押し寄せてくることがある。
洗礼を受けたから嵐は来ないのでしょうか。残念ながら信仰人生でも順風満帆に過ぎて行くとは限りません。人生の航海において、その半ばまで晴れ渡って、風も無く穏やかに進んでいた。しかし突然、空が曇り嵐になる。自分では、どうにも出来ない力に翻弄され、何も整えることが出来ず、ただ漂っているしか無い状態に置かれることもある
そんな時「私はクリスチャンだ。洗礼も受けている。なぜこんなにも苦難が襲うのか、神よ」と叫びたくなる。確かに同じ舟に乗っていてくださるイエスが、何もしてくださらないことに苛立つことがある。
正に弟子達の様に、主イエスに向かって「わたしがどうなっても良いのですか」と問い詰めたくなることもあるのです
ガリラヤ湖では、確かに、弟子たちは、起き上がった主イエスの一言によって、風が止み、すっかり凪になりました。しかし、時に私たちは、切実なる祈りにも拘わらず、さらに嵐の中に迷い込む経験をする
その時、主イエスは、弟子たちに向かって「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われた。弟子たちは、主イエスに従っているように見えて、実際には、心から信頼しきっていなかったのです。
舟に乗り漕ぎ出すとは、自分の命を神という船頭に任せることです。信頼とは、自分の命を、自身の手から離し切ることです。主イエスを口先だけで語っても、御言葉をお札のように貼っていても、何の効果もありません。自分の命を主イエスに預けること、これが信仰です。
本日の聖書 マルコによる福音書4章26〜27節
イエスは言われた「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」
宣教題 「御言葉の種を蒔き続ける」 牧師 新保雅雄
主イエスは、神の国について喩えで語られた。
最初の喩えは、人が畑に種を蒔いた時のことです。蒔いた人が、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する。どうして種が成長するのか、種を蒔いた人には分からない。ある時、種は成長し葉をつけ、そして実を結ぶようになる。まるで種が、ひとりでに実を結ばせたように思える。
この種をまくとは、御言葉の種を蒔くことを言われています。私たちが御言葉の種を蒔く、ある時まかれた人の中で、葉をつけ実をつける。なぜそうなるのか、私たちにはわからない。
御言葉の種が実を結んだ時に、共に喜びを収穫する。人が出来る事は、雑草を取り、水を灌ぐことぐらいだ。しかしまかれた種は、何倍何十倍にもなる。種に力があるからである。
しかし種を蒔かなければ、実は成らないのです。でも、成長させ実を結ばせてくださるのは、神です。人は、蒔くという手伝いをするだけです。育てることよりも、蒔くことが、私たちにとって大切な事なのです。
そのことをからし種のたとえで語られています。からし種は、直径が1ミリ程度、種の中では最も小さな種です。しかし成長すると2メートル以上にもなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどに大きな枝を付けます。
私たちのまく御言葉の種も、最初は、小さな種として人の心の中に蒔かれます。たとえ最初は、気が付かないほどに小さな種であっても、いつしか成長して大きな枝をつけるように成長していくのです。
今日伝道の成果が与えられなくとも、コツコツと、御言葉の種を蒔いて行くことが大切です。後は神が大きな群れに成長させて下さる。