本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章22節
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
宣教題 「ペンテコステの愛」 牧師 新保雅雄
ペンテコステ。過ぎ越しの祭りから数えて50日目、主イエスの十字架の死から復活して50日目、天から聖霊が降る。その時弟子たちに不思議なことが起こる。外国の国々の言葉を語りだす。
それまで主イエスなどは知らない、ユダヤ当局から恐れ隠れていた弟子たちが、主イエスの証人となって復活の証言を始めたのである。これがペンテコステに起こった出来事です。(使徒2章)
聖霊の働きの一つには、イエス・キリストの証人として復活の証言者になる事が出来るということがある。証人になる為には、神とは何かを知らなければなれない。彼らが自身の力で神を知ったのではなく、「聖霊によって神を知る」のです。
そしてここに集まって聞いていた人達は、自分の国の言葉で福音を聞いたのです。つまり神とは何かを、その人自身に理解できる言葉で語らせるということが、聖霊のもう一つの働きです。
何かわけの分からない不思議なことを起こすことが聖霊の働きではなく、相手に分かる言葉で語る。これこそが聖霊の働きです。
そして聖霊によって神を語る目的は、「霊の結ぶ実は愛である」。と言われています。神を語ることは、愛の種まきである。神の目的なのです。神がいつも私たちと共にいますようにとは、聖霊がいつも私たちを後押ししてくださり、愛の種まきを共に働かれているということである。
聖霊が働きかけてくださるそのままに私たちも神を信じ、神が語らせるそのままに神を語り、そして何よりも「神が私たちを愛されたように、私たちも愛するように」なりたいと願う。
本日の聖書 ルカによる福音書14章24節
「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」
宣教題 「あなたは招かれている」 牧師 新保雅雄
ある主人が宴会を開こうとしました。そして宴会の日になりました。主人は、招いておいた人々の所へ僕を遣わして「用意が出来ましたので、おいでください」と知らせに行かせました。
主人は、招待した人々の到着を楽しみに待っていました。しかし、招待した人達は、全員断ってきたのです。主人は怒って僕に命じました。「急いで町の広場や路地に出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさい。」
さらに、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家を一杯にしてくれ」と命じたのでした。誰でも良いから無理にでも連れて来いと主人は命じたのです。
この喩えは、神の国に入れる人は誰かということです。神の国に入れる人は、神の招きを断らない人たち、用事や都合があったとしても、神の招きに応じる人たちなのです。
更に神は、神の国へ誰でも招いておられることが解ります。もし、神の国に入ることが出来ない人がいるならば、その人は、神から招かれなかったからではなく。せっかく神に招かれているのに、様々な理由を付けて、招きに応じようとしなかった人なのです。
では私たちは、どうでしょうか。神の招きに素直に応じているでしょうか。神は、私たちを神の国へと招くために、主イエスを、神の招待状を携えて、知らせに来てくださったのです。
主イエスを通して語られる神の招きの言葉を、私たちは、どう受け止めているでしょうか。今日、この礼拝の席に座っていることは、神の招きに応じていることの証なのです。
本日の聖書 ルカによる福音書14章5節
「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」
宣教題 「愛と宗教」 牧師 新保雅雄
主イエスは、安息日にファリサイ派の議員に、食事の招待を受けた。大勢の議員達に混じって水腫を患っている人がいました。
この病人が、ここに招かれたのは、安息日に主イエスが、この人に対して癒しを行うかどうか、その様子をうかがう為だった。
主イエスは、その邪悪な心を見ぬいて彼らに言いました。
「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙って一言も答えない。主イエスは、水腫を患っている人を癒され、その議員の家から送り出したのです。
そうしてあらためて主イエスは聞きました。 5節「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」彼らは何も答えることが出来ない。なぜなら認めざるを得なかったからである
誰でも愛する我が子を助けようとします。それが律法違反だとして裁かれたとしても、助けようとするでしょう。彼達は、他人には、律法厳守、信仰第一と教えているが、自分の愛する子供だったらどうするでしょうか。
私達も信仰の弱い人に「クリスチャンのくせに」そう思うことはないだろうか。このことが、どんなに弱い人を縛っているか。相手が抱え込んでいる痛みも知らずに、ただ頭ごなしに信仰を押し付けることは、傷口に塩をすり込むようなものだ。
自分では、どうしょうも出来ないから教会にすがる。その人を主イエスの愛から引き離す結果になっていないだろうか。 主イエスが招かれたのは、律法を守れる人、罪のない人、立派なクリスチャンではない。神の憐みにすがるしかない人たちです。
本日の聖書 ルカによる福音書4章18,19節
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
宣教題 「主よ、憐れんで下さい」 牧師 新保雅雄
主イエスは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた。その後荒野での40日間に渡る悪魔の誘惑を終えられ、ガリラヤ地方で神の御国について宣教された。そして故郷のナザレにおいても会堂で神の御国について教えられた。そこでの出来事である。
主イエスは、旧約聖書のイザヤ書を朗読され、このイザヤ書の預言が実現する。と言われた。その預言とは、「旧約聖書で約束されている救い主は私である。世からの解放、神への回復、欲望からの自由をもたらすために今日私はここに来たのだ。この預言の言葉は、私によって成就(実現)するのだ。」というものでした。
主イエスが使わされた人々は「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人、」などであり。
「社会的な成功者、地位を持った人、何も不自由を感じない恵まれた人」。世の「成功者」「満ち足りた人」たちに、主イエスの救いは、なかなか信じにくく、必要性を感じにくいものでした。
彼らには主イエスの教えは、不自由を感じるものであった。
皆さんは、「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」の問いかけに、うなずけるでしょうか?
「こんなどうしょうもない私です。主よ私を憐れんでください。」と言えた時、主イエスの救いは、あなたのすぐ近くにあります。
本日の聖書 ルカによる福音書13章33節
「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」
宣教題 「ゴーイング マイウエイ」 牧師 新保雅雄
主イエスと弟子達のもとに、ファリサイ派の人々が近寄って来た。ファリサイ派とは、主イエスを心よく思っていないユダヤ教の一派で、主イエスを十字架刑へ送ったのはこの一派です。
しかし、一転して主イエスに危険が迫っていることを教えに来たのです。当時、ガリラヤを治めていたヘロデ王が、主イエスを殺そうと狙っている。早くここから逃げるように教えに来たのです
自分を殺そうとする人が、来るということを聞いたら、あわてふためいて、どこに逃げようかと、するのではないでしょうか。しかし主イエスは、逃げるどころか全く動じません。そして、ヘロデ王を狐とよんで、ご自分の進む道を、はっきりと示されました。
そしてファリサイ派の人々に向かって「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」と言われるのです。
悪霊に取り付かれた人から悪霊を追い出し、また病気に苦しむ人を癒し解放しました。そして全ての人の罪を赦す為、十字架の待つエルサレムへ向かう。これが主イエスの進む我が道なのです。
世のどんな権力者の脅しにも屈せず、今日も明日も、次の日もいつも通りに、人を救う道を歩き続ける主イエス。
どんなに強い権力を持つ、自分を付け狙う者にたいしても、全く動じない、今やるべき事を優先されました。それが主の道です。
自分の命よりも今最も愛を必要としている人、救いを待って苦しんでいる人、そこが主の道なのです。どうか私たちも世の目を恐れずに、主の歩かれた道に従いたい。勇気を下さいと祈りたい。