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投稿者 : church 投稿日時: 2019-04-21 07:25:38 (3 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書24章11〜12節

「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」

宣教題「主にもう一度会いたい」 牧師 新保雅雄

安息日(土曜日)が終わり、週の初めの日(日曜日)になると、女性たちは、朝早く、主イエスの遺体を清めるために、香料を携え主イエスの墓に行きました。ところが、墓に着いてみると、墓の穴を覆っていた石が、わきに転がされていて、主イエスの遺体が墓の中に見当たらなかったのです。主イエスは、日曜日の朝早く復活されたのです。(この日を記念してキリスト教会の礼拝日が日曜日に)

女性達は、そのことを弟子達に伝えました。ところが弟子たちには、女性達の話が信じられませんでした。しかしペトロは、女性達の話を確かめる為、主イエスの墓に向かって一目散に走り出したのです

大祭司の屋敷で主イエスを三度も知らないと言ったペトロは、人一倍、主イエスのことが気になっていました。主イエスが復活されたのなら、「そんな人は知らない」と裏切ってしまった自分を、もう一度、やり直せるかも知れない。主イエスの復活に望みを抱きながら一生懸命に墓へと走って行ったのです。

主イエスは言われる「あなたの罪は赦された。悔い改めて、神に立ち帰りなさい。」今や、主イエスの十字架によって、私たちは罪を赦されました。そして私たちは「主よ、私は罪深い者です。」と告白する。そこに十字架と復活に示された神の愛がある。

自分の罪と向き合う勇気がないと、主イエスの十字架によって、罪が赦されている、恵みと喜びを、心から味わうことは出来ません。

主イエスの十字架を見上げ、自分の罪を正直に認める時に、主イエスご自身が、私たちに近付いて来てくださり、復活して、今も生きておられることを知らせてくださいます。そして「あなたの罪は赦された」と声をかけてくださるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-04-14 06:59:02 (10 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書22章42節

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」

宣教題「御心のままに」 牧師 新保雅雄

主イエスは、十字架に付かれる前夜、弟子たちと過越しの食事「最後の晩餐」を終えられるとオリーブ山のゲッセマネへ行かれた。

主イエスは、ゲッセマネに着くと一人で祈り始められました。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」

「杯」というのは、「十字架の死」を意味しています。

神の子イエスが、このように祈られたことを、皆さんは意外に思われるかも知れません。「神の子なのに、まるで弱い私たち人間のように祈るのか?」と思うからです。

しかし私たちは、この主イエスの祈りによって救われるのです。主イエスの人間としての弱さ、優しさに触れるとき安心するのです。私たちの苦難を主イエス自身も、ご存知であると思うからです。

主イエスが、そうであった様に、私たちも自分の苦しみを素直に、神に祈れること、そう神は私たちの父であるからです。律法学者の様に模範的な、キリスト者だから、信仰者だから、そんな祈りを作り出さなくともいいのです。

恥ずかしい弱い自分を素直に、現してもいいんです。痛ければ痛い、苦しければ苦しい、ありのままの祈りを聞き届けて下さるのが、父なる神なのです。

しかし、祈りは独りよがりではいけません。信じて祈ることを忘れてはいけません。神の愛を信じることです。今苦しいかもしれない、しかし苦しみだけで、決して終わることはないのです。最後は、神にすべてをゆだねることです。御心のままに、なりますように。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-04-07 07:04:09 (19 ヒット)

 本日の聖書  詩編1編2,3節

「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結ぶ、葉もしおれることがない。

その人がすることはすべて、繁栄をもたらす。」

宣教題「ほとりに植えられた木」 牧師 新保雅雄

いまあなたは、辛いかもしれない、苦しいかもしれない、泣きたいときがあるかもしれない。しかし、「ときが巡り来れば実を結ぶ、葉もしおれることがない。」

人は誰でも幸福な人生を送りたい。そう思いながら生きてきました。しかし今の自分は、自分の思いとは程遠い人生を送っている。どこでどう間違ってしまったのだろうか?

では、人はどのような生き方をすれば、幸福な人生を歩めるのだろうか? 主は、詩人を通して、その答えを語られます。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。そして「流れのほとりに植えられた木」になることです。

私たちは、今日ここに、主なる神によって招かれています。沢山の愛に満たされる為です。主なる神によって愛され生かされている。それを知るなら(主の教えを愛し)、今度は、あなたがいただいた愛を隣人に分けてあげる番です(昼も夜の口ずさむ人)。主と共にある人生(流れのほとり)、そこが幸福な人生です。

命に満ちている生きかたは、自分はもちろんのこと周囲の人にも大きな影響を与えます。生きる気力を分け与えます。あなたの魅力的な生き方は、周囲の人に大きな影響を与えます。主イエスがそうであったように、自分をそして周りを変える力があります。

ああ主よ感謝します! どうか、わたし達を罪の中に留めないで下さい。あなたを口ずさむ人とさせて下さい。あなたのほとりにいつもありますように。そして信仰の実が豊かに実りますように。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-03-31 05:58:18 (10 ヒット)

 本日の聖書 使徒言行録2章37〜38節 

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

宣教題「神の賜物、悔い改め」 牧師 新保雅雄

聖霊に満たされて使徒ペトロは語ります。主イエスこそ、約束されたダビデの子であり、死の苦しみから解放されて復活された、メシア、キリストである。と沢山の人々に力強く証しました。

するとそれを聞いていた人々は、「大いに心を打たれ、兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけます。(37節)。それに対してペトロは、悔い改めを迫ります。

ペトロの宣教は、集まった一人一人が犯した「自分の罪」として、自分自身の「悔い改め」を迫るものとなりました。この悔い改めから、最初のリヴァイヴァル(信仰復興)が生まれていくのです。

百二十人ほどの小さな群れが(1章15節)、悔い改めによって三千人もの信仰者が加えられ、大きな群れとして、エルサレム教会、すなわち初代のキリスト教会の姿が出来上がっていきます。

このようにキリスト教会は、聖霊の働きによる悔い改めから起こされていくのです。逆に言えば、真実な悔い改めのないところでは、どれほど多くの人が集っていても、奉仕がなされていたとしても、それは神の教会からは、程遠いものになってしまいます。

なぜなら「悔い改め」は、神から来るのであり、神が私達の内に起こしてくださるものなのです。ですから私達は、この神の働きが自身の中から興されていくように、祈り求めなければならないのです。「悔い改め」は、自分の努力と意志だけで成り立つものではなく神からの賜物なのです。神の御働き無しに悔い改めは興きません。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-03-24 07:26:35 (14 ヒット)

 本日の聖書 使徒言行録1章13〜15節 

彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。

宣教題「二階の祈りの部屋」 牧師 新保雅雄

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4、5節)という、主イエスの約束を思い出した弟子達は、彼らがとどまっていた二階の部屋で、熱心に約束の聖霊を待ち望み、心を「一つ」にした「祈る群れ」となりました。

そのとき彼らは、わずか百二十人ほどの小さな群れにすぎず、依然として主イエスに対して無理解でした。しかも裏切り者の集団であり、不信仰と無理解の群れです。ユダヤ人からの迫害を恐れて、家の中にひっそりと隠れていた、小心で無力な人々でした。

主イエスの十字架の後の最初の教会は、弱い群れにすぎませんでした。しかし彼らは「一つ」となって「祈る群れ」でした。そして祈る彼らのただ中にキリストは臨在し、祈りに応えて下さる。

「もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。二人、三人、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18章19、20節)

私達の教会に、そして私達一人一人にも、この「二階の祈りの部屋」が必要なのです。自分の働きを始める前に、まず祈ることです。祈って、神が自分の中で働きを支えてくださることを求めるのです。

それがどんなに小さく無力な、欠けた者たちの集まりであっても、それは力強いキリストの教会となっていくのです。


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