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投稿者 : church 投稿日時: 2017-12-10 06:25:10 (5 ヒット)

本日の聖書   ルカによる福音書1章38節

「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで天使は去って行った。

宣教題「お言葉どおり、成りますように」 牧師 新保雅雄

マリアがガリラヤのナザレにいる時に、天使ガブリエルから、神の子を自分が産むことになると告げられました。突然のことなのでマリアは驚き戸惑いました。人間の思いからすると、ありえないことです。

そのマリアの心を見抜いたように天使は、「神にできないことは何一つない」(37節)と告げました。天使のお言葉を聞いたマリアは「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。

マリアが、自分のことを指して言っている「はしため」とは、「女性奴隷、僕」という意味です。神を自分の主人として信じ、従う決意をした者が、神との関係の中で自分を指して「僕」と言うのです。主人が言われることには、全てを受け入れるということなのです。それは絶対的な信頼なしではありえないことです。

マリアは、自分がどのようにして、神の子を産むことになるのか。そして何故、自分なのか。具体的なことは、何も分からなかったのです。それでも「神にできないことは何一つない」という言葉によってマリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

マリアは神に選ばれるような、特別な功績、飛びぬけた信仰心があったのでしょうか。彼女が自身を「はしため」と語るように、そこにはないのです。あの三度も主イエスを裏切るペテロも同じく選ばれた者です。

このことを見るとき、私のようなものでも、神の愛を持ち運ぶ器になれるかもしれない。欠けの多い私でも選ばれるのです。この世の身分は、この世では通用しても、神の前では一切通用しないことが分かります。

私達に出来ることは、選ばれた者として、信じて全てを神にゆだねることです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-12-03 07:19:40 (11 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書1章14節

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

宣教題「神が人となられた」  牧師 新保雅雄

私の中学の同級生が、同じ中学の後輩の会社で働いています。他の同級生は言いました。「後輩の会社で働くなんて、俺はプライドが赦さないよ。貧乏でもいいから俺はよそで働くよ。恥ずかしくないのか。情けないね。」そう言う彼は、年商数億の会社の社長になっています。中学生当時は貧しい家庭でした。高校へも進学できませんでした。その貧しさをばねにして下から上に成り上がりました。今は毎晩高いクラブで豪遊しています。頑張ってつかんだ成功は、いつしか下の人や貧しい者を見下げるようになりました。

二百年続いた江戸幕府の創始者である徳川家康は、死んで人間から神になり日光東照宮に祭られています。この社会では下から上になることは、偉大な事であり喜ぶべき事であり神とまで崇められる。しかし上から下へ行く事は、恥ずべき事、情けないこととされる。

神が人となる。神は霊であり目に見えないお方です。ところが私たちと同じ肉体になられ、この世界に来られました。ご自分の立場や地位を放棄され、悩みや悲しみ痛みを背負った人間と同じ姿になって下さった。それがクリスマス。主イエスの誕生の時です。

クリスマスの喜びは、神が人間になられる、というとんでもない出来事によって訪れました。神が人となる。まさに驚くべきことでした。当時のユダヤ人にも考えられない、思いもよらないことでした。ですからユダヤ人は神を冒涜することだと考え、死刑にしました。

神が人となられたことによって、私たちの生きることの意味も、私たちの信仰も、私たちの愛も、そして救いもこの奇跡の中の奇跡の上になりたっています。聖書には数多くの奇跡が記されています。しかし、聖書のどの奇跡物語よりも神が人となられたということ以上の奇跡はありません。神が人となられた。ここに私たちが神によって造られた本来の人間の姿を取り戻す救いの原点があります。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-11-26 07:50:11 (14 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書3章11節

「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がしする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」

宣教題「愛は人を生かす」  牧師 新保雅雄

洗礼者ヨハネは、人々に神の怒りと裁きを告げ、悔い改めを迫っていました。人々は、続々とヨルダン川で水の洗礼を受けたのです。

洗礼者ヨハネは、神の怒りと裁きによって人を従わせました。「今すぐ、悔い改めて、ふさわしい実を結べ、しなければ木の根元に既に置かれた斧によって切り倒されてしまうぞ」と決断を迫っていました。

これに対して主イエスは、神に切り倒されてしまわないように、人を罪から救う為に、この世に来られたのです。主イエスは、恐怖心で人々を従わせようとはしませんでした。神の裁きを主イエス自身が、身代わりの犠牲として十字架で死なれ、人々を救おうとさたのです。

命をかけて、罪から救おうとされるほど、私たちを愛しておられる。このことを知る時、私たちの心は、揺れ動かされるのです。(信仰です)

洗礼者ヨハネと主イエスとの関係は、律法と福音との関係として理解出来ます。律法無しには、何が罪であるかを知ることは出来ない。また福音無しには、心から悔い改めて、救いを得ることは出来ない。

「お前は罪人だ、切り倒すぞ」と言い続けられるだけでは、決して心から素直に、自分の罪を悔い改めることは出来ない。たとえ、自身の中に悪があると知っていても、人は悔い改めることが難しいのです。

麻薬中毒で刑務所に何回入れられても、心から悔い改めて麻薬を絶つことは出来ない。何回過ちを行っても、涙を流して愛してくれる人がいるとき、人は心を動かされ、悪から抜け出す力が湧いてくるのです。

人は愛がなければ生きる気力を失います。愛は人を生かす力があります。命をかけてあなたを愛された、主イエスを思い出してください。どんなにあなたがダメ人間でも、決してあなたを見捨てることはない。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-11-19 06:27:45 (14 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書7章21〜24節

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。」

宣教題「行う人になりなさい」  牧師 新保雅雄

  建設会社の現場事務所には、現場の長である監督がいる。その監督も頭があがらないのが現場を設計した設計士である。建て主の依頼によって設計士ができる限りの知恵を絞り建物の案を作り予算を算出して設計図面を作る。現場監督と言えども設計士の意見に従わなくてはならない。すべての工程は、この設計士の思い通りに進んでいく。

  しかし、それよりももっと気を使わなくてはいけないのが、現場で汗をかいて働く職人である。彼らは、体で現場を感じるのです。青写真から立体的に建物を思い浮かべていきます。図面をひと目見ただけで建物の良し悪しを判断するんです。よい建物か手抜きか見破るのです。彼らは頭で考えるのではなく、体で感じとって建主の要望を満たす建物を造るんです。

  信仰も同じです。頭の中でいくら知恵を持っていても、いくら聖書に精通していても、口では立派に語れたとしても、生活の中に神の御心が生きていなければ、何になるでしょうか。信仰的に立派で、尊敬される者が、父なる神の御心を行っているとは限らない。

  主は更に続けて、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている」と言われました。

  ここでいう賢さは、頭の良し悪しではありません。平和な時には、賢い人も愚かな人も区別がつかない。逆境の時に、主の言葉を自分のものとしている人は強い。

  主の御言葉は、実行されて初めて力になるのです。言うだけ、聞くだけは、誰にもできることです。主の御言葉を行う人こそ、それを自分のものにしているということである。主を信じる者には、主がそれを行う力も備えて与えてくださるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-11-12 06:51:30 (17 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書14章34〜36節

こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

宣教題「主の衣に触れる」  牧師 新保雅雄

弟子たちだけで舟に乗ってガリラヤ湖を渡ろうとしました。しかし途中で大きな嵐に合い、弟子達は不安になりました。その時、主イエスが湖の上を歩いて弟子たちの船に向かってこられたのです。そうすると嵐が静まり、舟は無事に向こう岸へと着いたのです。

着いたところは、「ゲネサレト」というところでした。すると土地の人々は、皆に主イエスが来たことを知らせました。知らせを聞いた人々は、病気の人を主イエスのところへ連れてきたのです。

彼らは、主イエスの「服のすそ」でもいいから触らせて欲しいと「願った」。これは必死に頼むということを意味します。そして「触れたものは皆いやされた」のです。

彼らは「皆いやされた」主イエスの衣に触れた人は、皆病気が治った。しかし、私の病気が治らないのは、どうしてなのだろうか? 私は主イエスを信じているのに治らない。これはどうしてなのか。

きょうの聖書箇所は、私たちがこの地上の歩みを終えて、天に召されたとき、肉体の束縛から解放され、主イエスによる新しい体を頂くという、天の御国でやがて起こる出来事をいわれています。

今は聖霊の時代です。聖霊の働きの目的は、人を神のもとへと導くことにあるのです。主イエスを人々が信じるように働かれているのです。つまり「衣に触れる」とは「主と共にある」ということです。

私達は、主イエスの衣に直接触れることの出来る、天の御国を目指して歩んでいます。その時にはすべてが明らかとなるでしょう。

 


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