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新住所
板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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総計 : 275440275440275440275440275440275440
投稿者 : church 投稿日時: 2018-06-17 04:52:55 (7 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書21章4、12節

「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子達は、それがイエスだとは分からなかった。イエスは、「さあ来て、朝の食事をしなさい。」と言われた。弟子達はだれも、「あなたはどなたですか。」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」

宣教題「あなたと共にいる」 牧師 新保雅雄

主イエスの十字架の死からしばらくしての事です。ペテロとほかの6人の弟子たちは、ガリラヤ湖に漁に出ました。この時のペテロの心は、とても傷ついていました。漁をしながらペテロは思い出していました。主イエスが捕らえられた時「イエスなど知らない」と3回も否定してしまったからです。

漁もうまくいきません。一晩中何度網を下ろしても、魚は一匹も取れないのです。これはペテロ達の、心の様子を現しています。

今、かれらは主を無くし、不安の中で生きています。神を知るクリスチャンであっても、ときとして生きることに不安や恐れを持つ事があります。生きる望みを無くし、孤独の中に陥る事があります。

しかし主イエスは、どんなときもあなたのすぐそばにおられ、あなたを守っていてくださるのです。あなたは、独りではありません。

そんなとき岸から声をかけてきた人がいました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」彼らは、言われるまま網を打ってみると、驚くほどたくさんの魚が取れました。彼らに笑顔が戻りました。その時、声の主が主イエスだと気づきました。

主イエスは、疲れた彼らに焼いた魚とパンを準備されて待っておられたのです。主イエスは、弟子たちとガリラヤ湖の岸辺で一緒に朝食を食べました。彼らは「主が共にいてくださる」という喜びを心の中に感じていました。自分の思いで生きている時、主イエスだと分かりませんでした。しかし主イエスの御声に聞き従う時、平安と祝福を取り戻したのです。主イエスはいつもあなたと共にいます。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-06-10 07:23:28 (10 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書6章19〜21節

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

宣教題「宝のあるところに心もある」 牧師 新保雅雄

富とは、誰もが追い求めるものです。富をどれだけ多く溜め込めるか、これが人生の生きがい、この為に小さなときから努力して、生きていると言ってもいいかもしれません。

皆さんにとっての富とは、なんでしょうか? お金であったり、家屋敷、不動産、宝石といった財物、あるいは地位や名誉、権力でしょうか。まだまだ沢山あります。数え上げたらキリがありません。 

もし皆さんが聖書を知らないで人生を送るとすれば、当たり前に地上に富を積んでいたでしょう。そして手に入れた富は、決して離さないで自分の倉にしまいこむ。地上に富を積むとは、自分の倉にしまいこんで自分の為にだけ使うことなんです。ですから富とは地上の宝物であり。離さないでしまいこむ、離したくないものなんです。

主イエスは、「地上に富を積んではならない。」と言われました。なぜなら、「そこでは、虫が食ったり、さびついたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」からです。

富は自分のものとしてあるのであって、他人へ分け与える事ができない。そのことを虫が食ったりさびつくと言われています。またその富を狙って人は、騙し、恨み、奪いあい、末には殺人まで起こします。地上に富を積むことに心を向けすぎると平安はありません。

主イエスは言われます、「自分を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい。」そして「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言われました。天に富を積むとは、愛を積むということなのです。愛を宝物にするということなんです。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-06-03 05:54:21 (15 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書4章18,19節

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

宣教題「主よ、憐れんで下さい」 牧師 新保雅雄

主イエスは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた。その後荒野での40日間に渡る悪魔の誘惑を終えられ、ガリラヤ地方で神の御国について宣教されていました。そして故郷のナザレにおいても会堂で神の御国について教えられました。

その第一声は、旧約聖書のイザヤ書を朗読され、このイザヤ書の預言が実現する。と言われた。その内容とは、「旧約聖書で約束されている救い主は私である。世からの解放、神への回復、欲望からの自由をもたらすために今日私はここに来たのだ。この預言の言葉は、私によって成就(実現)するのだ。」というものでした。

主イエスが使わされた人々は「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人、」などであり、社会的な成功者や地位を持った人、不自由を感じない恵まれた人ではありませんでした。世の中の見方で「成功」「満足」している人たちに、主イエスの救いは、なかなか信じにくく、また必要性を感じにくいものでした。かえって自分達の生活に主イエスの教えは、不自由を感じるものであり腹立たしくさえ思うのです。

皆さんは、自分自身を「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」の問いかけにうなずけるでしょうか?

「こんなどうしょうもない私です。主よ私を憐れんでください。」と言えた時、主イエスの救いは、あなたのすぐ近くにあります。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-27 20:40:23 (13 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書15章5節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

宣教題「生きた木につながる」 牧師 新保雅雄

本来人間とは、私たちが想像する以上に、すばらしい能力と可能性に満ちた、栄光の冠をかぶるすばらしい存在であると伝えています。(詩篇8:6〜9)

しかしまた神から離れた人間は、弱く醜く、知恵を誇り偶像を追い求める存在であるとも伝えています。(ローマ1:21〜23)

つまり人間は神の作り上げた最高の尊い作品であるにもかかわらず、愛に満ちた神の秩序を破壊し堕落したものである、というのが事実なんです。

主イエスは、人間の中にある二面性をブドウの木と枝の喩えで教えられました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)。

もし1本の枝が木につながっていれば、その枝はただの木の棒と違って生きている証しとしての芽をつけ実を結びます。さらにその実は、さらなる命を宿し次の命につなげていきます。本来枝は大変大きな能力を持っている

しかし木につながっていない枝(棒)だけでは、せっかく大きな能力を持っていても、いづれ腐って土になるだけなんです。命の実りを付けることは、不可能なことなんです。結局、生きていけない。

この枝と同様に私たちにも、本来大きな能力が与えられています。それを発揮できるのは、命の源である神と信仰で結ばれることで初めて可能になるんです。枝は自分の力だけでは、必ずや決定的な死という限界にぶつかるんです。神につながっていない人間は、結局腐り堕落して滅びという土くれに向かって行かざるを得ません。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-20 06:59:15 (21 ヒット)

 


本日の聖書  ヨハネによる福音書7章37〜39節

「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」

宣教題「渇いている者私のもとに来なさい」 牧師 新保雅雄

ヨハネによる福音書は、聖霊について、それを象徴的に「水」にたとえている。水は生き物にとって必要不可欠なものです。水はすべての細胞の中にあり、生命の機能を維持するために必要です。

どんな生き物であろうと水が断たれたとき、渇きを覚え、水分の補給を必要とします。このような体の渇きは私たちも経験したことのあるものですが、同時に、この渇きは、人間の心、人格、魂においてもしばしば起こると聖書は語られます。

私たちの霊的な渇きは、何を注ぐことで癒されるのか。それはイエス・キリストにしか満たすことのできないものです。しかし、これを満たそうと人間は、様々なものに、その解決を求めます。  

このような霊的な渇きを癒すために、私たちは偶像を拝み、また自分の欲求のままに振舞います。そして失敗し、前以上に深い渇きに陥ります。そしてまた罪を重ねていくことがあります。

それは悲しいことでありますが世の人々は、その渇きを癒すためにありとあらゆる他の代用物を求めることで、渇きを癒そうと必死なんです。知らないということは悲しいことです。

今朝、キリストにある生涯こそが唯一つの満ち足りた生涯であることを知り、主こそ私たちの真の食べ物、飲み物であり、日々私たちに命を与え、力を与えて下さることに感謝したい。


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