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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2022-06-26 06:04:54 (7 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書19章2022


「金持ちの青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」


宣教題 「天に富を積む」 牧師 新保雅雄


彼は律法を熱心に守り、善い行いを心がけた。世においても一生懸命働いて沢山の財を残した。自分で出来ることは全て行った。成功者である。信仰者としての自信もあったのだろう。彼は胸を張って主イエスに尋ねる。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」彼は、確信がほしかったのです。


主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われた。


その言葉を聞いた青年は、悲しみながら立ち去った。なぜなら彼は「たくさんの財産を持っていたからである」そのとき彼は、初めて自分が不完全で欠けている人間であることを知ったのです。


完全になるということは、何と難しいことだろうか。まさに「ラクダが針の穴をとおる方がまだやさしい」と思われてくる。つまり自分の善い行い修行では、永遠の命の国、天国へは入れないのです。


彼は、律法を守り貧しい人々への施しもしてきたでしょう。しかしその施しはあくまでも、自分が救われるためであり、財産を売り払ってまで、貧しい人々に施しをするということではない、沢山の財産の中から余ったものであった。弱い者への愛する心からではない。


「わたしは、こんなに善いことをしてきました。だから天国に入れてください」何と傲慢な者なのだろうか。私たちが出来ることは、「主よ、罪人の私を憐れんで下さい」と心から祈ることだけである。


投稿者 : church 投稿日時: 2022-06-19 05:49:27 (22 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書19章1315


そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。


宣教題 「子供のように」   牧師 新保雅雄


主イエスに子供を祝福していただくために、親たちが子供を連れて来ました。これを見て弟子たちは親たちを叱り帰そうとしました。


しかし主イエスは、逆に弟子たちを叱りました。そして「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。


主イエスのところに連れてこられた子供たちは、何かしたわけでもないのに、主イエスは「天の国はこのような者たちのものである」と言われる。いったいこれはどういうことなのでしょうか?


ヒントは、子供たちはどうやって主イエスのところにやってきたのでしょうか?です。「人々が子供たちを連れてきた」と書いてある。つまり親に連れられて来たのです。それだけです。努力したどころではない。連れられてきただけです。それが天の国なのです。


「私は自分で主イエスのもとにやってきました」と言うことのできる人がいるでしょうか。わたしは自分が選んで教会に行った、という思いが、いかにごう慢であったか。今朝の礼拝の初めに牧師、司会者が「教会へ来ようとしている兄姉があれば無事に」と祈ります。


自分の力で主イエスのもとに来ることができる人などいません。


全ては聖霊の導きです。天の国は、主イエスが一方的にお与えになるものです。子供は自分で教会へ来たのではない。親たちに手を引かれてきたのです。これが聖霊の働きです。どうか心を一つにしてまだ見ぬ兄姉、お休みされている兄姉のために祈りましょう


投稿者 : church 投稿日時: 2022-06-12 06:14:43 (26 ヒット)

 本日の聖書   マタイによる福音書19章89


イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」


宣教題 「人間のずるさ」   牧師 新保雅雄


今朝の聖書を読んで、皆さんはどのように感じられたでしょうか。離婚をすることが、「良いのか悪いのか」、「どういう場合なら離婚はできるのか」また「どのような離婚なら律法に違反しないのか」 離婚する時はどうすればいいのか?このように思ってしまいます。


「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言うファリサイ派の人の言葉に対して、主イエスは「どんな理由があろうと、絶対に離婚をしてはいけないのだ」という離婚禁止の律法として聞こえてしまうのではないでしょうか。


そうであるなら離婚をした人はダメな人、神の御心に背いた人。離婚をしなかった人が偉い人、立派な人である、ということになる。


当時は男性社会です。そのため妻と離縁して新しい女性と再婚したいと願う思いから、妻に「なにか恥ずべき事」はないかとさがし、口実をつくり、離縁を正当化していました。つまり離縁は自分の責任ではない。悪いのは妻のほうだ、自分は被害者だ信仰者だ。


神は創造の時、アダムを御心にとめられ「人が独りでいるのは良くない」と言われ、助け手エバが造られました。男と女との関係は、人間社会の基礎であり、対立のために男と女があるのではない、助け合う関係として造られたのです。しかし人は、自分の欲望のために自分に都合よく、神の律法までもゆがめ正当化していく。


自分は完全な人間ではなく、欠けた人間であることを知りなさい。主イエスは、律法を教えておられるのではないのです。人間の弱さずるさを知りなさい。と言われているのです


投稿者 : church 投稿日時: 2022-06-05 06:42:40 (29 ヒット)

本日の聖書   使徒言行録24


「一同は聖霊に満たされ、猯が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」


宣教題 「キリスト教会の誕生」   牧師 新保雅雄


キリスト教の三大祭の一つである聖霊降臨日ペンテコステ(五旬祭/キリストの復活より50日目)。(ユダヤ教、過越祭から7週目・7週祭/小麦の収穫の初穂、初めての実りを神に献げる感謝の日)


本日の出来事は、イエスキリストの復活から50日目(五旬祭)の朝のことです(15節)。弟子たちが一つに集まり、いつものように祈っていました。すると突然、激しい風が吹いて来て、大きな音が天から聞こえ、家が揺れ響きました。


そして炎のような舌が現れ、弟子たち一人一人の上にとどまりました。すると、その家にいた弟子たちは、皆、聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出しました。


まるでその姿は「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(13節)と言われたように、周りの人から見ると酒に酔っているように見えたほどでした。


これが、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事です。それは、主イエスが十字架の死から復活して50日目、主イエスが天に昇られてから10日目のことです。この時に初めて福音宣教が起こりました。これがこの世における最初のキリスト教会の誕生の産声です。


教会は人間の計画、意思、決心、思いで、始まったわけではなく。聖霊に満たされた弟子たちによって生み出されたのです。何故、聖霊は、弟子たちに世界中の言葉で、神の業を語らせたのでしょうか


一人一人の心に響くように、分かりやすい言葉で、神の偉大な業が語られることを、神が望んでおられるからです。本日のペンテコステ、聖霊降臨の日、弟子たちにより教会に語る力が与えられました。


兄弟姉妹の上に聖霊が降りますように、お祈りいたします。


投稿者 : church 投稿日時: 2022-05-29 06:28:23 (35 ヒット)

 本日の聖書 使徒言行録14447


「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」


宣教題 「主の元に一つになる」   牧師 新保雅雄


主イエスが、私たちの罪のために十字架によって死なれ、黄泉に降り、三日目に蘇られました。神の子キリスト・イエスによる罪の赦し、死から永遠の命への救いによって、多くのキリスト者が誕生しました。しかしまだまだキリスト者には、大きな迫害がありました。


ペテロ達使徒は、ユダヤ当局に何度も捕らえられては、投獄され鞭打たれました。しかし、困難に合えば合うほど、彼らの信仰は固くなっていきます。


「世があなた方を憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしが世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネ15:1819) 


使徒たちは、この困難によって、主イエスが共におられる、という確信が増々強くなっていくのです。選ばれ集められた主の群れが、キリストの体なる教会を、強固に形作っていくのです。


「財産や持ち物を分け合う」それぞれに与えられた財や才能、知恵、力が、自分一人の為ではなく、群れのために使われていく。


「毎日ひたすら心を一つにして祈る」主なる神は御一人である。真理は一つである。そして祈りも一つになり群れも一つになる。


「一緒に食事をし神を讃美していた」教会の中だけではなく、人生の営み、生きるすべてを共有していく。共に泣き共に喜ぶ。


そして集められた「信者たちは皆一つになって」いくのである。


艱難辛苦にあるときこそ、一つになれる時、恵みの時である。


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