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投稿者 : church 投稿日時: 2021-04-11 06:36:24 (463 ヒット)

 2021.4.11きんたメール第757号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。


 混乱の中にあっても』〜そこから主に心を向けたい〜


 敬愛する皆さま、いつも、ありがとうございます。先週はイースターでしたね。しかし復活することに対しての理解はよくわからない人も多いのではないでしょうか。わたしたちは、状況が飲み込めなくて混乱してしまうなんてことがあります。そんな混乱の中にあってもなお主に心を向けることを都度学ばせてくださいますように。それぞれの必要をご存知の主が豊かに導いてくださいますように。


 さて、死んだ人が生きかえるなんて確かに信じられませんよね。なのに復活が確かなことだと確信できるのも不思議です。クリスチャンは頭がおかしいのでしょうか。


 ては当時の弟子たちはどうだったのでしょうか。混乱のただ中にいました。だからイエスさまが十字架にかけられて息をひきとる場面に、こわくて隠れていた弟子もいれば、立ち会っている弟子もいましたが、いずれにしても誰に対しても向き合い尊重してくださる救い主が殺されてしまったことは、信じられないし、希望も何もわからない落胆とどうしてよいかもわからない混乱の中にいたのです。


 そんなときに、イエスさまが一緒にいてくださっても見えません。そんな状態もすべてイエスさまはわかっていますから、落胆してエルサレムからエマオに向かう弟子のところに現れて道々話しながら、弟子たちの目を覆っていたもの(神さまに心が向かないようにするもの)から、霧が晴れるように導いてくださいました。


 イエスさまが、以前語っておられた大事なことに気づいた弟子たちは、すぐにエルサレムに戻って、同じように混乱している弟子たちに伝えますが、やはり信じられないのがわたしたちの姿なのです。カギをかけて恐れて集まっている混乱ただ中にある弟子たちのところに、イエスさまが現れて、優しく語りかけて向き合う力を与えられます。


 こうして弟子たちは混乱したままでも、神さまに心を向けることに導かれて行くのです。まさに希望の復活です。そして、イースターから50日目の日曜日に聖霊(神さまが約束されたもの)神さまの思いと働きを知る力を受けるまで弟子たちは混乱しながらも主に守られ、導かれて整えられていったのです。今年のペンテコステは、2021年は523日(日)です。


 今、混乱した中にあっても(混乱の中にいると不安だし、寂しいし、落ち着かない)、そのところから神さまに心を向けていけますように祈ります。主が豊かに導いてくださいますように。


 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて.言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて.あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカ24:45-49


 ぜひ、ご一緒に教会で神さまの「愛」と「知恵」を確認しましょう。あなたは愛されるために生まれた人です。私たちは不完全な者ですが、不完全ゆえに赦し合い、助け合いながら、神さまの愛に生きる人として成長していきたいものです。いつも主にこそ目を向けていく恵みで満たされますように。そのために十字架の愛を忘れることがないように助けて導いてください。


 どんなときも主が共にいてくださる人生は「新しい力」を受けます。よき理解者が「一緒にいるだけ」で人は「命」を得ます。ぜひお近くの教会(十字架が目印)へご連絡ください。一緒に祈りましょう。あなたの上に主の祝福と勇気が豊かに注がれますように。主が共にいてくださいますように。


 ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。栄光在主


投稿者 : church 投稿日時: 2021-04-04 07:30:29 (452 ヒット)

 2021.4.4きんたメール第756号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。


 イースターおめでとう』〜神さまありがとう〜


 敬愛する皆さま、いつも、ありがとうございます。そしてイースターおめでとうございます。わたしたちは、それぞれさまざまな背景をもっていますが、神さまとの新しいはじまりの時を祝福してください。それぞれの必要をご存知の主が豊かに導いてくださいますように。


 さて、月はじめの子どもメッセージも共有させていただきます。わたしたちは、今までもそれぞれ大小さまざまなな復活(生きかえる)経験してきているのではないでしょうか。イエスさまの復活は、神さまの愛は永遠であること、そして神さまとの関係があるべき姿に修復されることを現されています。それは本来の居場所です。どの人も尊重され、尊敬し合う場所です。


イースターおめでとう ルカ24:112


 イースターは希望の日でもありますね。なぜならば、イエスさまは何も罪がないのにとらえられて、バカにされたり、つばをはかれたり、たたかれたり、手首と足に大きなクギを打たれて十字架にかけられました。


 どれだけつらく、苦しまれたことでしょうか。なんで、そんなイヤなことをすべて引き受けてくださったのでしょうか。そこに神さまの愛があふれているのです。イエスさまは、どの人の痛みもわかるのです。だから、ひとりぼっちになったように思っても、実はいっしょにいてくださいます。くらやみに閉じこめようとしても、閉じこめることができないのです。神さまがいっしょなら自由なのです。あなたが安心できるいばしょを用意してくださいました。だから、いっしょにいてほしいのです。


 何もイエスさまをしばることができませんでした。3日目にイエスさまは復活されました。だから、もうダメかなと思ったとしても、そこから新しくはじまることを教えてくださいました。


 みんなも、今まで落ちこんだり、苦しくてつらい思いをしたことがあると思いますが、たちなおったり、元気がでてきたり、生きかえるようなことがあったのではないでしょうか。神さまの愛は人を生きかえらせるのです。人間にはできないことも、神さまはおできになるからです。イースターおめでとう。そんな神さまの愛がいつもいっしょにありますように。みんなの心にいつもイエスさまがいっしょにいてくださいますように。


イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 マルコ10:27


 ぜひ、ご一緒に教会で神さまの「愛」と「知恵」を確認しましょう。あなたは愛されるために生まれた人です。私たちは不完全な者ですが、不完全ゆえに赦し合い、助け合いながら、神さまの愛に生きる人として成長していきたいものです。いつも主にこそ目を向けていく恵みで満たされますように。そのために十字架の愛を忘れることがないように助けて導いてください。


 どんなときも主が共にいてくださる人生は「新しい力」を受けます。よき理解者が「一緒にいるだけ」で人は「命」を得ます。ぜひお近くの教会(十字架が目印)へご連絡ください。一緒に祈りましょう。あなたの上に主の祝福と勇気が豊かに注がれますように。主が共にいてくださいますように。


 ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。栄光在主


投稿者 : church 投稿日時: 2021-03-28 06:48:43 (451 ヒット)

 2021.3.28きんたメール第755号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。


 十字架に向かって』〜目をあげよう〜


 敬愛する皆さま、いつも、ありがとうございます。3月最後の日曜日です。4月になると新しい期のはじまりです。環境が変化する方も、またいろいろあって今の状況を変化させたい人も、置かれた場でのさまざまな思いをお持ちなのではないでしょうか。それぞれの必要をご存知の主が豊かに導いてくださいますように。


 さて、「十字架」とはなんでしょうか。十字架刑はローマ時代に行われていた苦しみとみじめにさらしながらゆっくり殺す刑です。


 だから、そんな目に遭わされた救い主なんて弱いし、まして自分とは関係ないから信じられないなど、十字架のイメージは無関心と暗闇のシンボルと言えます。


 なのに、そんな「暗闇のシンボル」が一変して「救いのシンボル」になっている人もいるのです。なぜでしょうか。


 同じ十字架を見上げても、見るところが違うと受け止め方も違うからです。


 一方はみじめに殺された「無力な姿」を見ており、もう一方は罪のない御方が罪深い自分の身代わりとなってくださっている「愛の姿」を見ています。


 目を背けたくなるものに、目を向けると本質が見えてきますが、目を背けて表面だけに惑わされてしまうと、的外れの正当化をしたり、恐いし意味もわからないので、ますます向き合うことができません。


 つまり、十字架によってイエスさまに起こった出来事が、なぜ救いになるのかがわからないのです。そのように、わたしたちはどちらの視点にもなる今の世の中で生きています。


 だから、本質を見る目を求め続けていくことが必要です。本質は向き合うことで見えるから、目を背けたくなることにこそ、向き合う力が必要になります。ゆえにその土台になるのが十字架です。


 ここで言う十字架は、弱くてみじめな自分に向き合うことです。自分が赦された経験を忘れないことです。赦された時にどんな気持ちになったのかを忘れないことです。次週はイースターですね。それまでの時間は十字架にかかられたイエスさまの気持ちを想像してみましょう。


「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 」マタイ16:24


 ぜひ、ご一緒に教会で神さまの「愛」と「知恵」を確認しましょう。あなたは愛されるために生まれた人です。私たちは不完全な者ですが、不完全ゆえに赦し合い、助け合いながら、神さまの愛に生きる人として成長していきたいものです。いつも主にこそ目を向けていく恵みで満たされますように。そのために十字架の愛を忘れることがないように助けて導いてください。


 どんなときも主が共にいてくださる人生は「新しい力」を受けます。よき理解者が「一緒にいるだけ」で人は「命」を得ます。ぜひお近くの教会(十字架が目印)へご連絡ください。一緒に祈りましょう。あなたの上に主の祝福と勇気が豊かに注がれますように。主が共にいてくださいますように。


 ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。栄光在主


投稿者 : church 投稿日時: 2021-03-21 07:20:51 (463 ヒット)

 2021.3.21きんたメール第754号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。


 保身する性質』〜無知な自分に気づかせてください〜


 敬愛する皆さま、いつも、ありがとうございます。首都圏でも緊急事態宣言が21日で解除となりましたが、継続して対策は心がけていきましょう。それぞれの必要をご存知の主が豊かに満たしてくださいますように。


 さて、法治国家には公正な社会を目指すために、公正な判断を維持する裁判制度があります。それで起こった問題に対してその人がどんな罪を犯したのか、どんな罰が妥当なのかを判断する場が裁判です。そのため必ず弁護者がいてくださるのです。


 イエスさまが裁判にかけられた時代は、ユダヤはローマの支配下にありましたから、ローマ帝国の許可がないと死刑にはできませんでした。


 その裁判を司る立場の方は公正さが保たれることで信頼されます。しかし、そうでない裁判はただのパワハラです。間違った不正な裁判です。当時のユダヤの宗教指導者(権威あるリーダー)が、なぜ不正してまで躍起になって罪のないイエスさまを殺そうとしたのか。


 それは指導者として人々に神さまの思いを伝える役割でしたが、次第に神さまから目を離してしまったようで、上席に座ること、先生と呼ばれること、挨拶されること、自分は知恵ある人という変なプライドが成長しすぎたのかもしれません。


 そんな勘違いした間違った慣習や人への差別に対して、真正面からイエスさまに指摘や批判をされたのです。そのことで人には教えながら、都合の悪いことは聴こうとしない頑なな姿が浮き彫りにされましたし、改めるよりも、自分の小さなプライドが傷ついたことの方を最優先する有り様でした。


 本来なら、改める姿こそ良いお手本になるのですが、改めるよりも自分の面子の方を大事にしてしまったのです。何かを得たり、偉くなればなるほどかえって難しくなるのは、得たものを失うかも知れないという保身が働くからでしょう。これは、どの人にも共通することではないでしょうか。正しさよりも、保身のためのプライドを優先する姿です。


 わたしたちは、人と比べて自分はそんなに悪くないと思いたいのですが、神さまの前では50100歩で、悪いことに上も下もありません。小さなウソも詐欺することも悪いことのです。罪のない人は1人もいません。


 そんな自分の姿にこそ向き合うことができるように、イエスさまは復活の道(悔い改める道)をも用意してくださいました。罪深いわたしたちは最後に「人生の実について」裁判にかけられるのですが、イエスさまが弁護者としてすべてを引き受けてくださったのです。だから、今からでも無知な自分に気付かされていきますようにと求めていきましょう。


「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 」コリント一2:8


 ぜひ、ご一緒に教会で神さまの「愛」と「知恵」を確認しましょう。あなたは愛されるために生まれた人です。私たちは不完全な者ですが、不完全ゆえに赦し合い、助け合いながら、神さまの愛に生きる人として成長していきたいものです。いつも主にこそ目を向けていく恵みで満たされますように。そのために十字架の愛を忘れることがないように助けて導いてください。


 どんなときも主が共にいてくださる人生は「新しい力」を受けます。よき理解者が「一緒にいるだけ」で人は「命」を得ます。ぜひお近くの教会(十字架が目印)へご連絡ください。一緒に祈りましょう。あなたの上に主の祝福と勇気が豊かに注がれますように。主が共にいてくださいますように。


 ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。栄光在主


投稿者 : church 投稿日時: 2021-03-14 06:34:52 (444 ヒット)

 2021.3.14きんたメール第753号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。


 十字架の愛」〜罪を憎んで人を憎まず〜


 敬愛する皆さま、いつも、ありがとうございます。今年のイースターは44日(日)です。それまでの40日間は世界中でイエスさまの受難を覚えて過ごすクリスチャンが多いのではないかと思います。なぜならば一番忘れてはならないことだからです。わたしたちのために主が十字架にかけられるまでの受難を覚えてイースターまでを過ごしていきたいと思います。皆さまの上に主の祝福が豊かにありますように。


 さて、わたしたちはそれぞれの置かれた場所で、さまざまな背景ではありますが、共通して大事にしているのは「今いるそこから主に心を向けること」です。弱いわたしたちが惑わされないためです。つまり目的から目を背けないことと同じだからです。


 目的から目を離すと、わたしたちは勘違いしてしまいますし、道に迷ってしまいます。たとえば聖書を読んで知恵を得るのは素晴らしいことですが、十字架の愛から目をそらすと、知恵を印籠のような使い方をして裁き主にでもなったかのような傲慢さがあらわになります。ワイドショーやネットで誰かをよってたかって袋叩きにしているのと同じで、聖書に出てくる律法学者やファリサイ派の姿はまさに十字架にイエスさまをかける、そんな自分の姿でもあるのです。


 実を見て木がわかるように、十字架がないがしろにされると的外れな状態になってしまいます。聖書から学ぶことは愛だからです。神さまの十字架の愛です。愛は自分にはないけど、神さまの恵みが働くことで愛の実が成るのです。この愛は「こんな自分でもまるごと受け止めてくださる」ほどの、目からうろこが落ちるような奇跡的な愛なのです。


 だから自分が「赦された罪深い罪人」なのを自覚することは言うまでもありません。聖書に書いてある罪とは、すべてを創られた神さまを無視することです。そして自分を一番にしてしまうことです。そこから罪の実がなるからです。


 自分が一番のときは、神さまの愛が入るすきがないので、愛の実はなりません。だから愛の実が成るように求め続けていきたいと思います。もちろん悪いことを寛容すると言うことではありません。「なぜそうしてしまったのか」「何がそうさせたのか」という自分の姿に気づくために、「罪を憎んで人を憎まない」ように心の声に寄り添い、愛をもって向き合うことが求められているのです。


「イエスはオリーブ山へ行かれた。 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」ヨハネ8:111


 ぜひ、ご一緒に教会で神さまの「愛」と「知恵」を確認しましょう。あなたは愛されるために生まれた人です。私たちは不完全な者ですが、不完全ゆえに赦し合い、助け合いながら、神さまの愛に生きる人として成長していきたいものです。いつも主にこそ目を向けていく恵みで満たされますように。そのために十字架の愛を忘れることがないように助けて導いてください。


 どんなときも主が共にいてくださる人生は「新しい力」を受けます。よき理解者が「一緒にいるだけ」で人は「命」を得ます。ぜひお近くの教会(十字架が目印)へご連絡ください。一緒に祈りましょう。あなたの上に主の祝福と勇気が豊かに注がれますように。主が共にいてくださいますように。


 ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。栄光在主


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