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板橋区仲町23−17
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投稿者 : church 投稿日時: 2012-05-06 04:45:48 (1745 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書15章5節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

宣教題  「一人で生きているのではない」   牧師 新保雅雄

枝が木につながっているから、その枝は葉を茂らせ芽を出し、生きている証しとしての実をつけるのです。さらにその実は、さらなる命を宿して、次の命につなげていくのです。本来枝には、大変大きな力と使命があるのです。

しかし枝が木から離れてしまった。木につながっていない枝になってしまうと、芽を出し葉をつけるという、大きな力を持っていても、何もできず枯れてしまい、いずれ土に帰ってしまうのです。

芽を出す事も、花や実りを付けることも出来ません。その枝は結局、それ自身だけでは生きていけないのです。木には命があるのです。

枝と同様に、本来私たちも神につながっていて、大きな能力と使命が与えられています。それを発揮できるのは、命の源である神と信仰で結ばれることで初めて可能になるのです。

木につながっていない、自分の力だけに頼るとき、必ず死という最後を迎え終わっていくのです。神につながっていない人間は、結局肉の思いによって堕落し滅びに向かう、枯れた枝になるのです。

「宗教や神に頼るのは弱い者のすること」よく聞く言葉です。確かにそのとおりだと思います。神を信じる(つながる)ことは、枝としての自らの弱さと限界を、勇気をもって謙虚に認めることです。

強がりを言って弱さを隠すことは、決して強さではありません。その弱さを正直に認めることが、本当の強さなのです。人は自分だけで生きているのではありません。沢山の人々に支えられています。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-04-29 06:55:50 (1936 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書12章3〜6節

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

宣教題 「ユダの裏切り」   牧師 新保雅雄

本日は「ユダの裏切り」から学びます。主イエスは、十二使徒の一人としてユダを選びました。彼を愛していたからです。そして大きな信頼も寄せていました。それ故彼に、群れのお金をすべて預けていたのです。しかし彼は、群れと主イエスを裏切ってしまうのです。

彼は、その信頼を悪魔に狙われてしまいました。悪魔の誘惑は、わたし達の弱いところを狙ってくるように思います。しかし、必ずしもそうではないことがわかります。このユダのように、金庫をまかされる様な信頼と能力のあるところを狙ってくるのです。

会社を経営することにたけている人を悪魔は狙います。立ち上げたときは社員のために、社会のために、そう思い社員に感謝して仕事をします。しかし、経営がうまくいき、「さすが」といわれていくうちに、「会社は自分のもの、私が大きくした」に変わっていくのです。群れのものが自分のものへ、ユダと同じ「盗人」の罪を犯していきます。悪魔が彼の能力を誘惑していくのです。

わたし達の誇るべき能力(賜物)は、自分のものではなく、神からいただいた賜物だとするなら、自分自身を自慢する、うぬぼれる、そして自分を誇ることは、なくなるのではないでしょうか。成功すればするほど主に感謝する謙虚な心が求められているのです。

「信仰は感謝で始まり感謝で終わる」世の全ての物(恵み)は、神の創造物であり、私達人間は、その物の管理者なのです。そして私たち自身も神の創造物なのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2012-04-22 06:15:07 (1702 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書 11章3、4節

姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

宣教題 『救われて証の人生へ』   牧師 新保雅雄

「わたしには、まくらするところもない。」と言われた主イエスにとって、このベタニアの家族達は、心から休まる家だったのです。この安らぎの家の親友ラザロが病気で死んでしまいます。しかし、主イエスは、死後四日たったラザロを死から救い出しました。

主イエスは、この救いは、「神の栄光を現すこと」であると言われています。ではその栄光とは、何でしょうか? 

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(12:23,24) つまり主イエスがラザロを救うことは、主イエスが十字架へ向かって一歩進むことになるのです。

わたし達は、救いを只喜んでいる。しかし、この救いの裏には、主イエスの十字架の死という、大きな犠牲の上に成り立っていることを知るべきです。救われた人生は、自己の喜びだけで終わるのではなく、もっと主イエスへの感謝を現す人生であってほしい。

あの生まれついて盲目の人が(9章)、姦通の女の命が(8章)、ベトザタの池で38年待った足の不自由な人が(5章)、その救いのどれもが、主イエスを十字架に一歩づつ近づけて行くのです。

そして彼らは、ユダヤ当局から圧力をかけられても、中傷や追放の中でも「救ったのは、キリスト・イエスである」と答えたのです。たとえ社会から締め出されても、主イエスを証する人生を送る。

「主よ感謝します」口先だけの祈りは、もう止めにすべきです。感謝は、自分の人生の生き方で現したい。今朝あなたがここにいるのは、イエス・キリストの十字架の死によって救われたからなのです

 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-04-15 07:29:14 (1742 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書21:4、12 

「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子達は、それがイエスだとは分からなかった。イエスは、「さあ来て、朝の食事をしなさい。」と言われた。弟子達はだれも、「あなたはどなたですか。」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」

宣教題  「主イエスを感じる」   牧師 新保雅雄

主イエスの十字架の死からしばらくして、ペテロとほかの6人の弟子たちは、昔のように故郷のガリラヤ湖で漁に出ていました。この時のペテロは、とても傷ついていました。主イエスが捕らえられた時、大祭司の屋敷で「イエスなど知らない」と3回も否定してしまったことを、ペテロは思い出していました。

そんな状態ですから、漁のほうもうまくいくはずはありません。一晩中何度も網を下ろしてみるが、魚は一匹も取れないのです。これはペテロ達の、このときの心の様子を、そのままに現しています。

今、彼らは主を無くし、これからの自分の人生を不安の中で生きています。神を知るクリスチャンであっても、時として生きることに不安や恐れを持つ事があります。生きる望みを無くし、孤独の中に陥る事があります。

彼らは、夜通し漁をしましたが、魚は一匹も取れませんでした。疲れもピークになり、夜も明けてきたので、もうしまいにしようかと思っていた時、声をかけてきた人がいます。

その人は、言いました「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」彼らは、言われるまま網を打ってみました。すると驚くほど沢山の魚が取れ、網が引き上げられないほどでした。

彼らに笑顔が戻りました。その声は、主イエスだったのです。彼らは、「主が共にいてくださる」という喜びを心の中から感じていました。自分の思いで生きている時、主イエスが見えませんでした。  

しかし、主イエスの御声に聞き従う時、平安と祝福を取り戻したのです。悲しい時、迷う時こそ、主イエスの御声をを感じて下さい。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-04-08 16:17:25 (1690 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書20:1 

天使たちは、墓の外にいるマリアに向かって、「なぜ泣いているのか」と尋ねました。すると、マリアは、こう答えたのです。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

宣教題 『永遠の命の旅』   牧師 新保雅雄

イースターの出来事は、日曜日の朝早くに始まりました。まだ夜が明け切っていない暗いうちに、マグダラのマリアは、主イエスが葬られた墓へと向かいました。この墓には、入り口を塞ぐための石が置かれている筈でした。ところが、ある筈の石が、取りのけられていたのです。そして、墓の中に主イエスの遺体はありませんでした。

捜していた主イエスは、墓の外でマリアの後ろに立っていました。しかし、マリアは、それが主イエスだとは分かりませんでした。マリアは、主イエスは十字架にかかり死んでしまい、もはや生きてはいないと思っていたからです。それでマリアは、後ろに立っておられるのが、主イエスだとは分からなかったのです。

そんなマリアに主イエスは、こう言われました。「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」 既に主イエスは、死から復活して、マリアの後ろに立っておられます。しかし、マリアは、死の世界の中に、主イエスを捜しているのです。過去にとどまっているのです

その時、主イエスが、「マリア」と呼び掛けられました。この時、初めて、この声に、マリアは、ようやく主イエスだと分かりました。

ともすると、私たちは、マリアが墓の中に目を向けていたように、過ぎ去った過去にばかり、自分の思いを向けることがあります。

主イエスの十字架の死と復活は、私たちを過去から未来へ、死から生へと招いてくださるのです。人は死で終わるのではない。私達の命の旅は、天の国へと続いているのです。ですからいつまでも過去にとらわれて、クヨクヨしてはいけません。主イエスの復活を信じて、主イエスと共に歩みたい。永遠の命の旅は、まだ始まったばかりです。


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