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住所変更のお知らせ
新住所
板橋区仲町23−17
東武東上線 
中板橋駅徒歩12分
連絡先
090-8801-0111
(新保牧師携帯)
アクセスカウンタ
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総計 : 957803957803957803957803957803957803
投稿者 : church 投稿日時: 2011-07-24 15:51:22 (2183 ヒット)

聖書 ルカによる福音書16章26節


宣教題 『天と地の恵み』  



 


高価な服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らす金持ちがいました。毎日、宴会が行われていた。その家の門の前にラザロというできものだらけの物乞いが横たわっていました。彼は、あまりの空腹から、宴会の残り物でもいいから腹を満たしたいと思っていた。


しかし金持ち達は、誰一人ラザロに食べ物をくれる人はいません。ラザロは、弱り切って犬ができものをなめても追い払えません。金持ちとラザロとの間には、超えることの出来ない貧富の差という壁があります。門の中と外では、全くちがう世界がありました。


世においてどんなに貧富の差が大きくとも死は平等に訪れます。しばらくしてラザロと金持ちに死が訪れました。死から目覚めると、ラザロは天の国で宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。この世の地獄の様な世界から一転して、天の国に入ることが出来、信仰の父アブラハムと宴席についていたのです。


一方、金持ちは、ラザロとは対照的に、炎の中で熱さと苦しみのあまり目を覚ましたのです。苦しさの中で天を見上げると、はるか遠くにアブラハムと宴会をしているラザロが見えました。


彼は苦しさの中で言います「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」しかしアブラハムは言います「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって越えて来ることができない。」


金持ちは、有り余る自分の財産の、ほんの一部を分け与えることで助かるラザロを助けませんでした。世に壁があり天にも壁があるのです。この壁は、あなたの自己中心な心で築かれるのです。




 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-07-17 16:57:47 (1767 ヒット)

聖 書 ルカによる福音書15章20節


宣教題 『神はあなたを待っている』    


二人の息子を持つ裕福な父親がいました。弟の方が、父親に財産の分け前をくれるように願いました。どうせ父の跡継ぎは兄だろうからと思ったのでしょうか。


父親は財産の半分を弟に分けました。弟は、財産を持って遠い国に旅立ちました。そして異国で放蕩の限りを尽くし財産を全て使い果たしてしまったのです。


そのとき飢饉が起こり、食べ物もなく、さまよい歩きました。あまりの空腹に豚の食べるいなご豆を食べてでも、空腹を満たしたいと思いました。豚は、ユダヤ人が不潔と嫌う動物です。その豚の餌でもいい。ユダヤ人としてのプライドを捨てたのです。


こうした悲惨な状況の中で、弟は、ようやく目が開き、幸せとは何かに気が付いたのです。父親のもとにいたときの生活を思い出し、家に帰ることを決断しました


放蕩の限りをし尽くし全財産を使いはたし、天に対しても、父親に対しても罪を犯しました、息子と呼ばれる資格は無い、雇い人の一人として働かせてくれるように言う覚悟を決め、父親のもとへ向かいました。すると、まだ遠く離れているのに、父親は、弟を見つけ、憐れに思い、走り寄って迎え入れ、何も聞かず只思いっきり抱き締めたのです。


ここに、神の愛が示されています。天の父は、立ち帰る者に何も言わず、無条件で迎え入れてくださるのです。「何をしていたのか、このばか者めが!」と非難することもなく、説教する事もなく、とがめもしない。心からの祝福をくださるのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-07-10 20:13:47 (1720 ヒット)

聖 書 ルカによる福音書14章24節


宣教題  『あなたは招かれている』  



ある主人が宴会を開こうとしました。そして宴会の日になりました。主人は、招いておいた人々の所へ僕を遣わして「用意が出来ましたので、おいでください」と知らせに行かせました。


主人は、招待した人々の到着を楽しみに待っていました。しかし、招待した人達は、全員断ってきたのです。主人は怒って僕に命じました。「急いで町の広場や路地に出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさい。」


さらに、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家を一杯にしてくれ」と命じたのでした。誰でも良いから無理にでも連れて来いと主人は命じたのです。


この喩えは、神の国に入れる人は誰かということです。神の国に入れる人は、神の招きを断らない人たち、用事や都合があったとしても、神の招きに応じる人たちなのです。


更に神は、神の国へ誰でも招いておられることが解ります。もし、神の国に入ることが出来ない人がいるならば、その人は、神から招かれなかったからではなく。せっかく神に招かれているのに、様々な理由を付けて、招きに応じようとしなかった人なのです。

 

では私たちは、どうでしょうか。神の招きに素直に応じているでしょうか。神は、私たちを神の国へと招くために、主イエスを、神の招きのメッセージを携えて、知らせに来てくださったのです。


主イエスを通して語られる神の招きの言葉を、私たちは、どう受け止めているでしょうか。今日、この礼拝の席に座っていることは、神の招きに応じていることの証なのです。

 


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-07-03 22:07:51 (2111 ヒット)

聖 書 ルカによる福音書14章5節
「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」


宣教題  『愛と宗教』   
主イエスは、安息日にファリサイ派の議員に、食事の招待を受けました。議員の家には律法の専門家やファリサイ派の議員達が、大勢集まっていました。その中に水腫を患っている人がいました。

この病人が、ここに招かれたのは、安息日に主イエスが、この人に対してどうするか、その様子をうかがう為だったのです。

主イエスは、その心を見ぬいて彼らに言いました。
「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙って一言も答えませんでした。主イエスは、水腫を患っている人を癒され、議員の家から送り出してしまいました。

あらためて主イエスは聞きました。 5節「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」彼らは何も答えることが出来ませんでした。なぜなら認めざるを得なかったからなのです。

誰でも愛する我が子を助けようとします。もしそれが、律法違反だとして非難されても、自分が裁かれ罰せられたとしても、助けようとするでしょう。彼達は、他人には、律法厳守、信仰第一と教えているが、自分の愛する子供だったらどうするでしょうか。

私達はどうでしょうか。信仰の弱い人に「クリスチャンのくせに」このことが、どんなに人を縛っているか。相手が抱え込んでいる状況も知らずに、信仰を押し付けることは、追い込むだけです。

自分では、どうしょうも出来ないからこそ、教会にすがっている人を、主イエスの愛から引き離す結果になっていないだろうか。 こうした心無い言葉で人を縛る時、いつしか自分も、「クリスチャンのくせに」という言葉に縛られることになるのです。


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