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投稿者 : church 投稿日時: 2019-03-03 07:13:10 (17 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書11章3、4節

姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

宣教題「死の先にあるもの」 牧師 新保雅雄

「わたしには、まくらするところもない。」と言われた主イエスにとって、このベタニアの家族達は、心から休まる家だった。この安らぎの親友ラザロが病気で死につつある。

弟のラザロが病にかかり、なすすべもなく悪化していき、ついに死に直面している。マルタとマリアは、絶望してあきらめるのではなく、主イエスの所に人を遣いに出したのです。そして「主よ、あなたの愛していられる者が病気なのです」。と言わせた。

しかし、ラザロは、死んでしまいます。主イエスがそこへ着いたのは、死後四日たっていました。

このラザロの死に対して、主イエスは言われます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 

では「この病気は死で終わるものではない。」とはどういう意味でしょうか?‥‥「死ぬほどの病気ではない。大丈夫」という意味でしょうか? しかしこのあと、ラザロは死ぬのです。

私たちは、人間死んでしまえば、すべてが終わりであるかのように思う。しかし、それが主イエスによって変わるのです。 主イエスは「この病気は死で終わるものではない」と言われるのです。主イエス・キリストによって、そのように変えられるのです。

必ず人は死を迎えます。しかし死は人間の人生の最終目的地ではなく。今日の主イエスの言葉によれば、私たちが主イエスに、自身の命をゆだねた時、それは「死で終わるものではなくなる」。その先にある神の国へとつながっていくようになるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-02-24 06:32:34 (23 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書10章4節

自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。

羊はその声を知っているので、ついて行く。

宣教題「主の御声を聴く」 牧師 新保雅雄

イスラエルでは、「羊の囲い」と言われる共同の羊舎があり、羊飼い達は、夕方になり遊牧が終わると、自分の羊たちを連れて羊舎に入る。そこでは異なる羊飼いの羊達が、一緒になって夜を過ごす。

翌朝、羊飼いが自分の羊たちの名を呼ぶと、その飼い主の羊が彼の後に従って付いて行く。決して他の羊飼いには、ついて行かない。羊は、自分の飼い主の声を聞き分けられるのです。

この羊飼いと羊の関係は、神とわたし達の関係に似ています。神の守りと深い愛の関係。羊飼いが遊牧に出かけるとき、石投げ器を持っていく。イスラエルには、番犬が居ないため、羊を守るのは羊飼いなのです。その為の石投げ器を必ず持っていくのです。

イスラエルの羊は、ほとんどが羊毛に使われます。その為、羊と羊飼いは、一生涯一緒に暮らします。羊は、家畜ではなく家族なのです。だから一匹づつ名前がつけられ、羊飼いはその名前で羊を呼ぶ。

羊飼いは遊牧に行くとき、その先頭を歩き安全を確かめる。羊は、それに従って付いていく。イスラエルの山には、狼がいて羊の隙を狙っているからです。羊は、自身を守る牙も爪も持たない。だから羊飼いに絶対の信頼を持っている。自分の命を預けているのです。

わたし達も世の悪魔から自身を守るものを何も持っていない。悪魔は実に上手に人をだます。時に神のように近づき甘い声で誘惑する。もしあなたが、神の声を聞き分けられなければ、危険である。

主イエスは、あなたの為なら自身の命もおしまない。今日もあなたに向かって、あなたの名前を呼ばれておられる。主イエスについていくなら、あなたも神の家族です。どうか、主イエスの御声が聞き分けられますように・・・・ 


投稿者 : church 投稿日時: 2019-02-17 07:40:28 (26 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書2章9節

「世話役はぶどう酒に変わった味見をした。このぶどう酒がどこからきたのか、水をくんだ召し使い達は知っていたが、世話役は知らなかった」

宣教題「奇跡と信じる力」 牧師 新保雅雄

主イエスは、5人の弟子を選び、ガリラヤから神の国の伝道活動を始められました。伝道の途中カナで結婚式に招かれました。この結婚式には、主イエスの母マリアもお手伝いの為にきていました。

当時の結婚式は、一週間近くも宴会が続きます。その間、料理やぶどう酒は、相当な量が必要です。主催者は、充分に用意をしていましたが、宴会途中でぶどう酒が無くなってしまいました。

そこで母マリアが主イエスに「ぶどう酒が無くなりました」と相談しました。主イエス様は、召し使いに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。水は清めに使う水がめに注がれました。

何も知らない世話役が味見をすると、良質のぶどう酒なので、宴会の後半に上等のぶどう酒をだした花婿をほめました。通常は、初めに良いぶどう酒をだして酔いが回った頃に、安物を出すからです。

この奇跡を知っているのは、新郎新婦や世話役でもなくお客様でもない、主イエスから指示され働いた召し使い達です。「このぶどう酒がどこからきたのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」神の祝福は、主イエスの働きをする者達の上に大胆に現されるのです

そして「その栄光を現された。それで弟子達はイエスを信じた。」祝福を頂いた新郎新婦が信じたのではない。そこに招かれた者が信じたのでもない。「弟子達が信じた。」のです。

神様の救いを受ける人は、必ずしも、奇跡を行って貰った人たちだけじゃないのです。「指示され水をくんだ召し使い達」「選ばれ従って行く弟子達」に神の栄光は現され、信じる力が与えられるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-02-10 07:32:17 (29 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書4:23

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」

宣教題「ありのままの告白」 牧師 新保雅雄

主イエスは、弟子達とガリラヤへ向かう途中、サマリアのシカルを通りかかりました。 弟子たちは、食べ物を買うために町に行き、主イエスだけが、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸に一人残りました。

そこへサマリア人女性が、井戸の水をくみに来ました。正午ごろは、一日の内で最も暑い時です。通常は、この暑い時間帯を避け、朝か夕方の涼しい時に井戸の水をくみに来るものです。しかしこの女性は、人のいない時に水をくみに来たのです。つまり彼女には、人目を避けなければならない理由があったのです。

主イエスは、この女性と言葉を交わして、私が誰だか知っているならば、「あなたの方から、私に頼み、私は、あなたに生きた水を与えただろう」「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

サマリアの女性は、主イエスが言われる、生きた水を求めました。すると主イエスは、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。そこで、この女性は、人目を避けなければならない自分の罪深さ、過去に5人の夫がいた。現在も結婚していない男性と同棲している。人目を避ける闇を「ありのまま」に告白したのです。

ここに主イエスの言われる「霊と真理をもって神を礼拝する者」の姿があります。「霊をもって礼拝する」とは、聖霊に導かれて礼拝すること、「真理をもって礼拝する」とは、神の御前に、私たちが「ありのまま」を告白することです。

サマリアの女性が、主イエスに自分自身を「ありのままに告白」したように、神の御前に、私たちが素直になって、正直にありのままの姿をさらけ出すとき、本当の救いがおとづれるのです。 


投稿者 : church 投稿日時: 2019-02-03 06:40:50 (27 ヒット)

 


本日の聖書  ヨハネによる福音書9:38〜39

彼が「主よ、信じます」と言って、ひざまづくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

宣教題「神を知るとは自分を知ること」 牧師 新保雅雄

生まれついての盲人が、主イエスに癒されて目が見えるようになった。そのことを知ったファリサイ派の人が、真意を確かめる為、癒された人に「どうして見えるようになったのか」と尋ねた。彼は、自分が生まれつきの盲人であること、そして癒されたことの一部始終をお証しする。

しかしファリサイ派の人々は、信じようとはせず、彼の両親を呼び出し、同じ事を尋ねた。両親は「彼が生まれつきの盲人であることは知っているが、誰が、どうやって息子を癒したのか分かりません。これ以上のことは、直接本人に聞いてください。」と言ってお証ししなかった。両親は、ユダヤ人社会からの締め出しを恐れていたからである。

ファリサイ派の人々は、再度、癒された盲人を尋問した。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が、罪ある人間だと知っているのだ」と圧力をかける。しかし彼はファリサイ派の圧力に屈しない。前回以上に「あの方が、神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と力強く神の力によるとお証しした。

ファリサイ派の人々は「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い彼を外に追い出した。結果的に彼は、ユダヤ人社会から罪人として追放されていく。しかし彼は、どんな迫害よりも真実を語ることによって、神が見え、神と出会うのです。

社会の中で、主イエスをお証しする生活をおくる時、社会は、あなたを受け入れないかもしれない。その証しのために不利益をこうむったとしたら、それはイエス・キリストに、より近づいたことになるのです。

あなたにイエス・キリストは言われる。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」


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