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投稿者 : church 投稿日時: 2019-06-09 07:26:08 (25 ヒット)

 本日の聖書  ガラテヤの信徒への手紙5章22節

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

宣教題「霊の結ぶ実は愛」  牧師 新保雅雄

ペンテコステ。過ぎ越しの祭りから数えて50日目、つまり主イエスが十字架につけられ死んで復活してから50日目、天から聖霊が降る。その時弟子たちに不思議なことが起こる。突然外国の国々の言葉を語りだす。それまで主イエスなどは知らないと恐れ隠れていた弟子たちが、主イエスの証人となって復活の証言を始めたのである。これがペンテコステに起こった出来事である。(使2章)

聖霊の働きの一つには、イエス・キリストの証人として復活の証言者になる事が出来るということがある。証人になる為には、神とは何かを知らなければならない。しかし彼らが自身の力で神を知ったのではなく、神側が彼らに神を信じるようにさせてくれたのである。つまり「聖霊によって神を知る」のです。わたし達の善行が神を知ったのではなく信仰は聖霊によるのです。

そしてここに集まって聞いていた人達は、自分の国の言葉で福音を聞いたのです。つまり神とは何かを、その人自身に理解できる言葉で語らせるということが、聖霊のもう一つの働きです。何かわけの分からない不思議なことを起こすことが聖霊の働きではなく、相手に分かる言葉で語り神の子イエス・キリストを信じるように導くこと、これこそが聖霊の働きです。

そして聖霊によって神を語る目的は、「霊の結ぶ実は愛である」。と言われています。神を語ることは、愛の種まきである。神の目的なのです。神がいつも私たちと共にいますようにとは、聖霊がいつも私たちを後押ししてくださり、愛の種まきを共に働かれているということである。

聖霊が働きかけてくださるそのままに私たちも神を信じ、神が語らせるそのままに神を語り、そして何よりも「神が私たちを愛されたように、私たちも愛するように」なりたいと願う。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-06-02 07:59:35 (28 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書13章33節

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」

宣教題「主の道」  牧師 新保雅雄

主イエスと弟子達のもとに、ファリサイ派の人々が近寄って来ました。ファリサイ派の人々とは、主イエスを心よく思っていないユダヤ教の一派で、主イエスを十字架刑へ送ったのはこの一派です。

しかしここでは、ファリサイ派の人々は、一転して主イエスに危険が迫っていることを教えに来たのです。当時、ガリラヤを治めていた王ヘロデが、主イエスを殺そうと狙っているということでした。危険なので早くここを立ち去り、逃げるように教えに来たのです。

自分を殺そうと付け狙っている人が、あなたの元へ来るということを聞いたら、普通ならあわてふためいて、どこに逃げようかと、するのではないでしょうか。しかし主イエスは、逃げるどころか全く動じませんでした。そして、ヘロデ王を狐とよんで、ご自分の進む道を、はっきりと示されました。

そしてファリサイ派の人々に向かって「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」と言われるのです。

悪霊に取り付かれた人から悪霊を追い出し、また病気に苦しむ人をいやし解放しました。そして全ての人の罪を赦す為、十字架の待つエルサレムへ向かう。これが主イエスの進む我が道なのです。

世のどんな権力者の脅しにも屈せず、今日も明日も、次の日もいつも通りに、人を救う道を歩き続けると、主イエスは言われる。

主イエスは、どんなに強い権力を持つ、自分を付け狙う者にたいしても、全く動じないで、今やるべき事を優先されました。それが主の道です。 

自分の命よりも今最も愛を必要としている人、救いを待って苦しんでいる人、そこが主の道なのです。どうか私たちも世の目を恐れずに、主の歩かれた道を従いたいものです


投稿者 : church 投稿日時: 2019-05-26 06:58:37 (35 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書13章23〜24節

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」と言う人がいた。

イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。」

宣教題「荷物を減らしなさい」  牧師 新保雅雄

ある人が主イエスに「救われる者は少ないのでしょうか」と訪ねました。それに対して「狭い戸口から入るように努めなさい」と主イエスはお答えになりました。人々の関心事は「私は救われるのか」でした。

この後主イエスは、金持ちの議員に言われています「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(ルカ18:24、25)

さらに主イエスは、「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と語られています。誰もが神の御国へ入りたいと思っています。しかし、実際には、入れない人が多いのです。なぜでしょうか?

御国へ入るには、信仰という切符一枚あればいいのです。しかし、私たちは、あまりにも有り余るものを持ちすぎていないでしょうか。財物や、それを求める欲望という心が、大きすぎるから、狭い入り口からは入れないのです。なぜなら御国へつながる入り口は、狭いからなのです

パウロは、人生は旅のようなものだと言われています。神から生まれ、また神の元に帰る。裸で生まれ裸で帰る。その間の人生は旅。しかし旅の途中で沢山の荷物を持ちすぎるあまり、重たくて自分の家に帰ることが出来なくなる。世は、正に沢山持つ者を成功者と呼ぶからである。

ではどうしたら荷物を減らすことができるのでしょうか。

いままで蓄えてきた世への執着、神から離れ世にとらわれた心を悔い改め、主イエスの十字架によって軽くしていただくのです。その時に狭い入口を通ることが出来るのです。そのことを「自分の十字架を背負ってついて来なさい」と言われています。十字架の先に、そこにこそ神の国の入口があります。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-05-19 06:55:32 (27 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書12章36節

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」

宣教題「人を裁かない」    牧師 新保雅雄

主イエスのもとにやってきた人が「ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言うのです。これはエルサレム神殿へ礼拝に来たガリラヤ人を、ポンテオ・ピラトが殺してしまったという意味です。

こうした悲しい事件を聞かされた時の人の反応は、二とおりあります。

一つは、悲しい話を聞いて自分のことのように悲しみ、神の慰めを憐れみを心から祈り、家族を励ます人がいます。

もう一つは、「これは何かのバチが当たったのだ」と考える人、つまり裁く人がいます。因果応報、悪いことが起きるのは、そこに悪い行いや原因があるに違いないと考える人です。

私が若い時に入信していた新興宗教も、悪いことが起きると、その原因を探るんです。信心が足りないから事故に合った、あなたの先祖が犯した罪があなたにたたっている。印鑑が悪い、家の方角が悪い、名前が画数が悪い。そうして高額なお金を払わせる。よく聞く話です。

主イエスは、2節「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語られました。

人が善いか悪いかを詮索する人に対して、まず「自分自身を悔い改めなさい」と言われます。誰が罪深いのかを決めるのは神です。 

周りの人と比較して、自分は、あの人よりは真面目だから事故にあわず安全だ、誰々より自分の方が勝っている。などと考えるべきではないということなんです。悔い改めるは自分自身から。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-05-12 10:04:40 (34 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書12章36節

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」

宣教題「主を待つ人」    牧師 新保雅雄

主人が出掛けている時、僕達がどうしているかというお話です。この主人と僕との関係は、主イエスと私達の関係を現しています。

僕たちは家に主人がいる時は、当然、誰もが皆、言われた通りに真面目に働いていました。しかし主人が留守の時、違いが出てきます。主人の目がない留守の時に、その人の本当の姿が分かります。

例えば、会社で社長がいないとき、私達は、どういう態度で仕事をしているでしょうか。社長がいてもいなくても同じでしょうか。

主イエスは、信仰生活を裏表なく、どんな時も主イエスを待ち望みながら過ごすべきであることを、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」と教えています。

「腰に帯を締める」とは、いつ主人が帰って来ても、すぐ出迎えられるようにするためです。主人が帰って来てから、あわてて帯を締め準備をするようでは、ダメだというのです。

「ともし火」とは、玄関先を照らす光です。主人が夜帰った時に、玄関が真っ暗であったら寂しさを感じるのではないでしょうか。腰の帯とともし火とは、主人を出迎える為の準備を現しています。

主人、つまり主イエスが来られる日は、思いがけない時に突然来られるからです。いつも信仰の生活を送れるようにしていたい。

人が見ている時、教会の時間だけのクリスチャンにならないようにしたいものです。信仰はするもの、見せるものではありません。信仰は神様から頂く恵みです。信仰生活とは恵みに感謝する人生。いつも感謝する人生を送るなら、人にも親切に優しくできるのでは。


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