メインメニュー
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

住所変更のお知らせ
新住所
板橋区仲町23−17
東武東上線 
中板橋駅徒歩12分
連絡先
090-8801-0111
(新保牧師携帯)
アクセスカウンタ
今日 : 9999
昨日 : 503503503
総計 : 958577958577958577958577958577958577
投稿者 : church 投稿日時: 2016-03-20 15:23:37 (954 ヒット)

 本日の聖書 ルカによる福音書23章

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」 すると、イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われた。

宣教題「今日あなたとパラダイスにいる」  牧師 新保雅雄

主イエスが処刑場へと引かれていきます。他に二人の犯罪人も同じく処刑場へ引かれて行きます。「ゴルゴダ」と呼ばれている丘に着くと、主イエスの左右に、この二人も十字架に付けられました。

その時、主イエスは言われました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 驚くことに主イエスは、ご自分を十字架に付けた人達を赦して欲しいと神に祈るのです

ここに主イエスの深い愛があります。しかし、このことを理解できない人がいます。主イエスと共に十字架に付けられた犯罪人の一人が言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」そして議員や兵士たちも同じこと言います。

同じく十字架に付けられた、もう一人の犯罪人は、同じく十字架にかけられている犯罪人に言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

自分自身の罪を告白し悔い改め、主イエスが世の罪の身代わりになったと祈るとき、十字架による救いが与えられるのです。

罪を悔い改めた犯罪人は、さらに続けて言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」すると主イエスは、言われた。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」

自分の罪を認めて主イエスに告白するなら、誰にでも主イエスの十字架の救いは与えられます。「今日あなたとパラダイスにいる」


投稿者 : church 投稿日時: 2016-03-13 07:17:17 (1028 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書7章18節

「良い木が悪い実を結びことはなく、

また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」

宣教題「良い実は良い木から」  牧師 新保雅雄

主イエスは言われます。「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」確かに、茨からぶどうは採れず、あざみからいちじくも採れません。ぶどうは、ぶどうの木から、いちじくは、いちじくの木からしか採れないのです。

このことから明らかなように、例外なく、「良い木が悪い実を結びことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」のです。

植物だけでなく、私たち人も腐り、悪い木になると、そこにできる実は、はっきりと、その木の状態を映し出すのです。木の実は、ぶどうであっても、いちじくであっても、梨やりんごであっても、究極的には、おいしいか、まずいかです。たとえ、形がどんなに素晴らしく美しくても、食べて、渋かったり、苦ったり、腐りかけていては、とても、食べられるものでは、ありません。すぐに、吐き出されてしまうのです。

私たち人という木も、実の姿かたち見栄えではなく、その実が持っている味が問われます。果たして、私たちという木が結ぶ実は、どんな味がするのでしょうか。優しさと配慮、正しさに満ちているでしょうか。悪意と敵意、自己中心に満ちているのでしょうか。

聖書の言葉を慕い求めるならば、尽きない恵みが、そこから溢れ出し、私たちの霊と肉とを養うのです。

確かに、信仰は、心の中で決断するものです。しかし、心の問題で終わる訳ではありません。その実が問われるのです。どう歩んでいるのか、日々の生活が問われるのです。あなたの人生があなたの実の味を現しています。あなたの人生は、いかがでしょうかか。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-03-06 17:18:46 (1031 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章13節

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」

宣教題「狭い門から入れ」   牧師 新保雅雄

「狭い門から入りなさい」と主イエスは言われます。何故なら、この狭い門こそが、命に通じる門だからです。つまり、主イエスが、ここから入るようにと言われている狭い門は、救いに通じており、この門から入って行くならば、永遠の命、天国、救いに至ることが出来るのです。

「さあ、ここが天の入り口だ。ここから入りなさい」と、主イエスは、私たち、一人一人を、入口から招いておられるのです。

私たちは、広く立派な門の方が、信用出来るように思います。門構えが、堂々としていて、広く高くそびえ立っている方が、その先に幸福があるように思うのです。また、門に通じる道も広々としていた方が、安心なように考えるのです。  さらに、こうした広々とした道を通って、多くの人々が、広い門の中に入って行く様子を見たならば、この門の先にあるものは、幸福に間違いないと判断しがちです。

もし、私たちの目の前の道が二手に分かれており、一方には狭い門、もう一方には広い門がある。しかも、広い門の方には、次々と人が競い合って入って行く様子が見えたなら、ついつい、私たちは、広い門のある道の方に、引き寄せられてしまいそうになるのです。

たとえ、門の先に何があるのか分からなくとも、皆と一緒ならば安心だと考えて、広い門の方へと流れて行こうとするのです。自分で道を選ぶよりも、大勢の人に付いて行く方が、間違いが無いと思うからです。自分で判断し、決断するよりも、人に判断を任せた方が、楽だと思うのです。「皆がこうしているのだから、自分もそうしよう」

しかし、主イエスは、言われます。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」広い門はたくさんの荷物を持っても入れそうです。しかし狭い門は、荷物や自身についた贅肉さえも捨て去らなければ、突っかかって入れないでしょう。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-02-28 07:17:51 (928 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章7節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

宣教題「あきらめないで!」   牧師 新保雅雄

主イエスは、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」と言われています。

 これは、神からの約束の言葉です。神の約束を、主イエスが教えてくださっているのです。それは、「だれでも、求める人は、受け取ることが出来るし、探す人は、見つけられる。門をたたく人には扉が開かれる」という約束です。

ここで「だれでも」という言葉に注意して下さい!

時々、私たちは、「どうせ自分なんか駄目だ、神さまも、こんな私になんか、何もくださらないに決まっている。祈っても祈っても何にも変わらない。何もいいことがない。」と思ったり、「もうどうでもいいや、やってられない。」と思い投げやりになる事が、あるかも知れません。

あともう少し門をたたき続ければ、扉が開かれるのかも知れません。でも、この「あともう少し」が、なかなか続かないのです。

子どもが、お腹が空いてパンを欲しがっているのに、わざと石を与える親は、いません。また、子どもが、魚を欲しがっているのに、わざと蛇を与える親もいないでしょう。

同じように、天の父である神さまは、自分に向かって祈り求める私たちに対して、良い物をくださるに違い無いと、主イエスは、言われるのです。何故なら、私たちは、みんな神の大切な子どもだからです。

ここに集まっている、皆さんみんな、神の子どもなのです。それで、私たちは、神の家族なのです。 神が私たちを子どもとして、愛してくださっているので、神は、祈り求める私たちに、良い物をくださらないはずはないのです。どうかあきらめないで、たたき続けて下さい!


投稿者 : church 投稿日時: 2016-02-21 07:19:27 (904 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書7章3節

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

宣教題「自分の目の中の丸太」   牧師 新保雅雄

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」 7:1  私たちは、ともすると、自分のことは棚に上げて、人に対して、あれこれ注文を付けたり、批判したりしがちです。我が身を省みないで、人への攻撃を強め裁いてしまうことがあります。

あるいは、相手が立ち直れないほどに、キツイ言葉を浴びせ掛け、傷付けてしまうことさえあります。また今にも噛み付きそうな態度を取ることもあるのです。忙しいとき、嫌なことがあったときには、特に、相手のちょっとした言葉や態度に、イライラしたり、ムカムカして、相手との関係を崩してしまうほど、相手に攻撃的になることもあるのです。

ところが、そんな私たちに向かって、主イエスは、こう言われました「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」7:3 主イエスは、このように、自らを省みることなく、人を裁くことばかりに熱心な者に対して、「偽善者よ」と呼び掛けています。

この丸太は、自らの過ち、欠け、罪の象徴です。しかし、悲しいことに、私たちは、目に突き刺さっている丸太が象徴する、自らの過ち、欠け、罪に、なかなか自分では気が付かないのです。

そのくせ人の目の中の小さなおが屑には、遠くからでも気が付くのです。正に人に厳しく自分に甘い姿が、ここにあるのです。理想的には、自分に厳しく、人には寛容で大らかな態度を取ることでしょう。そうは行かなくとも、少なくとも、相手に対する厳しさと同じ程度には、自分にも厳しくなければ、バランスを欠くでしょう。

本日の聖句は、いつも心に留めておきたいものです。裁くのは、あなたではなく、神のものです。人を裁く時、自身が神になっている証です。


« 1 ... 54 55 56 (57) 58 59 60 ... 101 »