メインメニュー
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

住所変更のお知らせ
新住所
板橋区仲町23−17
東武東上線 
中板橋駅徒歩12分
連絡先
090-8801-0111
(新保牧師携帯)
アクセスカウンタ
今日 : 1313
昨日 : 156156156
総計 : 274689274689274689274689274689274689
投稿者 : church 投稿日時: 2018-02-11 06:55:39 (82 ヒット)

本日の聖書  コリントの信徒への手紙第一15章49節

「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、

天に属するその人の似姿ににもなるのです。」

宣教題「生かす霊」 牧師 新保雅雄

  私が以前住んでいた川口市は、鋳物の町です。町のあちこちに鋳物で作ったものがあります。どれもすばらしく、大変に美しいものが沢山あります。しかし、それに命はありません。やはり鉄は鉄です。

  私達人間も命がなければ、土くれから作られたものでしかなく、どんなに形よく作られていても、命がなければいつかは朽ちて、もとの土くれに帰るのです。

  この章では、最初の人アダムと最後の人アダム(イエスキリスト)を引き合いにして「生きる」とは何か? を示されています。

「最初の人は土ででき、地に属するもの者である。」最初の人アダム、その末裔であるわたし達は、いつかは死を迎え土に帰ります。

「第二の人は天に属する者です。命を与えるものである。」第二の人イエス・キリストは、復活によって示されたように、永遠の命をお持ちになりました。いつかは天に帰り生きるのです。

  この朽ちない方、イエス・キリストに属するのであれば、同じ命に生きる者になれるのです。

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなた方の内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8:11)

  肉の体は、神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できないのです。わたし達は、朽ちるものとしてこの世に居ますが、キリストを信じて生きるとき朽ちないものとされます。死は、古い肉の着物を脱ぐときである。生きるとは、キリストの霊の着物を着るときである。 「死ぬべきものが死なないものを着るとき、死は勝利にのみ込まれた。」


投稿者 : church 投稿日時: 2018-01-28 07:34:25 (73 ヒット)

本日の聖書  コヘレトの言葉12章1、7、8節

「青春の日々にこそ、おまえの創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。

塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しいと、と。」

宣教題「過ぎ行く時」 牧師 新保雅雄

  イスラエルを統一したダビデ王の子供であるソロモン王は、イスラエルの絶頂期の王です。「栄華を極めた」と言われた人です。

  わたし達も、ソロモン王とまではいかないまでも、世の中のある程度のものを手に収めたい。これが人生の幸福への目標になっているのではないでしょうか。そう思い歳を重ねていきます。

  もし多くの富、金、権力を手に入れることで幸せになれるのであれば、世界の先進国の人々は、皆幸せで平和に暮らしているでしょう。しかし世界を見てみますと、そうではないことが分かります。

  先進国と言われる国ほど、多くの腐敗や悩みを抱えています。日本も世界の先進国の一員ですが、平和だといえるでしょうか。毎日どこかで殺人事件や自殺が起きています。富や権力では、人の心は満たされないどころか、かえって空しさが大きくなるのです。

  ソロモン王は言います「すべては空しい。人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。」(1:2,3)さらに、「たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから」(6:6)ソロモン王は、世のあらゆる物を手に入れたにもかかわらず、心の空しさは埋められなかったと、晩年になって回想しています。

  それに気付いた彼は、こう警笛を鳴らします「青春の日々にこそ、おまえの創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。」(12:1)。幸福への道は、神に立ち帰ることであると言う。「あの栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほども着飾っていない」  被造物に心留めるのではなく、創造主に心を留めたい。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2018-01-14 06:58:46 (76 ヒット)

本日の聖書  コリントの信徒への手紙第二 6:19〜20

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現しなさい。」

宣教題「御子をあなたの代価とされた」 牧師 新保雅雄

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」

  ここで、代価と言われているのは、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことを現しています。実に、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことは、私たちを罪から救い出し、神の赦しを得るために、神ご自身が支払ってくださった代価なのです。

  私たちは、毎日のように、買い物をします。買い物の際に、代価として、それぞれ付いている値段のお金を支払うのです。わたし達も買い取られた代価の値段は、なんと御子の命ということなのです。つまり、神は、わたし達を、それほどまでに愛されている事になります。

  しかし私たちは、こんなにも愛されていると言うことを忘れてしまって、自分勝手に生きるならば、それは神から離れてしまうということです。もし、私たちが、自分勝手に生きるならば、そこには愛がありません。

「わたしには、すべてのことが許されている。」と2回も繰り返されています。おそらく、コリント教会の中にいた方の発言でしょう。主イエスの十字架によって、自分の罪が赦されたことが、いつの間にか、当たり前のことになってしまう。

  さらに彼らは、自分たちだけが、霊的に優れた才能を持っているからこそ、こうした経験を特別に与えられたのだと、勘違いしてしまったのです。ますます、自分を誇り、傲慢になり、その結果、人を見下す経験に成り下がってしまったのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2018-01-07 06:47:20 (71 ヒット)

本日の聖書   エフェソの信徒への手紙 1:13

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」

宣教題「神の子の刻印」 牧師 新保雅雄

新年あけまして、おめでとうございます。2018年皆様の信仰生活の上に、主の祝福と平安が豊かにありますように、お祈り申し上げます。

神は、御子イエスを、この世に救い主として送り込まれました。しかし、人々は、御子イエスを十字架に付けて殺してしまいました。ユダヤの宗教指導者の煽動に乗っかって、群衆は、主イエスを十字架に付けることを要求したのです。

当時のユダヤの総督ポンテオ・ピラトは、群衆の暴動を恐れて御子イエスが十字架で処刑されることを認めてしまいました。

ここに、神の秘密計画があるのです。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」「秘められた計画」

神は、私たちを神の子にしようと計画しておられたのですが、私たちは、神の子に相応しく無かったのです。しかし、神は、私たちを裁いて、滅ぼしてしまうのでなく、私たちの罪を、御子イエスに全て負わせ、罪の償いのために、主イエスを十字架で身代わりの犠牲にしたのです。こうして、私たちは、神の子となる道が開かれました。

しかし、私たちは、自分で罪の償いをして、晴れて自由の身になった訳ではありません。自分では、何も罪の償いをしないままに、一方的に、神によって罪を赦されたのです。ここに、「神の愛」があります。

それは御子イエスを十字架で犠牲にしてまでも、私たちを救い、神の子として永遠の命を与えて下さる愛です。どんな人間でも、どんな罪にまみれても、ただ信仰を告白し、洗礼を受けるならば、誰にでも神は、刻印を押して「私の子だ」と守られるのです。 

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-12-10 06:25:10 (91 ヒット)

本日の聖書   ルカによる福音書1章38節

「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで天使は去って行った。

宣教題「お言葉どおり、成りますように」 牧師 新保雅雄

マリアがガリラヤのナザレにいる時に、天使ガブリエルから、神の子を自分が産むことになると告げられました。突然のことなのでマリアは驚き戸惑いました。人間の思いからすると、ありえないことです。

そのマリアの心を見抜いたように天使は、「神にできないことは何一つない」(37節)と告げました。天使のお言葉を聞いたマリアは「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。

マリアが、自分のことを指して言っている「はしため」とは、「女性奴隷、僕」という意味です。神を自分の主人として信じ、従う決意をした者が、神との関係の中で自分を指して「僕」と言うのです。主人が言われることには、全てを受け入れるということなのです。それは絶対的な信頼なしではありえないことです。

マリアは、自分がどのようにして、神の子を産むことになるのか。そして何故、自分なのか。具体的なことは、何も分からなかったのです。それでも「神にできないことは何一つない」という言葉によってマリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

マリアは神に選ばれるような、特別な功績、飛びぬけた信仰心があったのでしょうか。彼女が自身を「はしため」と語るように、そこにはないのです。あの三度も主イエスを裏切るペテロも同じく選ばれた者です。

このことを見るとき、私のようなものでも、神の愛を持ち運ぶ器になれるかもしれない。欠けの多い私でも選ばれるのです。この世の身分は、この世では通用しても、神の前では一切通用しないことが分かります。

私達に出来ることは、選ばれた者として、信じて全てを神にゆだねることです。


« 1 2 3 (4) 5 6 7 ... 66 »