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投稿者 : church 投稿日時: 2017-10-08 09:10:48 (49 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章34.37節

「わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。

あなたがたは、「然り、然り」「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」

宣教題「ありのままに」  牧師 新保雅雄

主イエスは、律法に関する教えの4番目として「誓うこと」を取り上げられました。

私たちは、祈りの中で神に向かって「私と共にいて下さい、強めてください」と願います。憐れみ深い神は、この祈りに応えて、私たちと共にいてくださいます。弱さを覚える時、孤独な時、迷う時、悲しむ時、確かに神は、私たちと共にいてくださるのです。

そればかりではなく、私たちが、傲慢な時にも、人の悪口、陰口を言っている時にも、誘惑に負けて肉に支配されている時にも、神は、私たちと共におられるのです。

私たち自身が気が付かない時にも、神は、私たちと共におられるのです。

人は弱い者です。すぐ誘惑に負けます。自分を繕おうとします。ですから神との約束を絶対とか、そして誓うことなど、出来ないのです。人の目を気にして格好付ける必要はないのです。神は、私たちの、ありのままの姿を、ご存知です。時に神を忘れ、背き、罪を繰り返すことも、ご存知なのです。ですから素直に弱い自分を、ぶつければいいのです。

しかも、神は、全てをご存知の上で、私たちに厳しい裁きを下すことなく、私たちを憐れみ、御子の十字架で赦し救ってくださいました。すなわち、私たちが犯した罪の代償を、私たち自身に求めるのでなく、御子イエスの十字架による犠牲によって、私たちの罪を赦してくださったのです。ここに、神の愛があります。

神に愛されるために、私たちは、見栄を張る必要も、格好を付ける必要もありません。今の「ありのまま」の私たちを、神が愛してくださっているからです。たとえ、自分の目には、情けなく見えたり、格好悪く見えたとしても、神にとって私たちは、大切な愛する、尊い存在なのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-10-01 07:53:22 (48 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章27,28節

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」

宣教題「心の思い」  牧師 新保雅雄

主イエスは、言われました。

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」( 十戒、出エジプト記20:14、申命記5:18) この「姦淫するな」という戒めは、夫婦の正常な関係を保つための戒めでした。

  しかし、主イエスは、「姦淫するな」という戒めに対して、「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」と言われています。

  つまり、実際の姦淫行為の有無だけでなく、そのときの心の状態、思いが重要であると、主イエスは言われたのです。

  この主イエスの言葉を弟子たちは、どのように聞いたでしょうか。「姦淫するな。」という戒めだけならば、自分は当然守っている。心の中でみだらな思いを持ったとしても、律法を守っている信仰者の顔をする。

  しかし、主イエスは「みだらな思いで他人の妻を見る者は、実際に姦淫したのと同じである。」と言われたのです。おそらく、弟子たちの多くは、心に思い当たることがあったのではないでしょうか。そして私たちの心の中にも、主イエスが言われる経験があるのではないでしょうか。

  律法の戒めは、心の動きまで問うものではありません。また問うことも出来ません。あくまでも律法の戒めは、実際の行為に及んだかどうかで判断されるのです。見える肉体の外側の行い。それが律法の限界です。

  しかし、主イエスは、もう一歩踏み込んで、行為のもととなる、心の動きに思いを置きます。心の中のことは、私自身と神しか知らないのです。つまり、主イエスは、神の前に私たちを立たせ、神との霊的な交わりに、私たちを向き合わせようとされているのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-09-24 07:17:47 (50 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章22節

「わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」

宣教題「尊い命」  牧師 新保雅雄

主イエスは言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」  これは、十戒の第6戒「殺してはならない」(出エジプト記、申命記に記されています。)

この「殺してはならない」という戒め自体、連日のように異常な殺人事件が報道される昨今に、警笛を鳴らしているように思えてくる。私たちもしっかりと受け止めなければならない。しかし主イエスは、この戒めの前に、もっと必要なことを言われている。

それは「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と続けて言われています。

人を殺さなければ、後は何でも良いという訳でないというのです。腹を立てて、「ばか」と言っても、「愚か者」と言っても、駄目だというのです。はたして「ばか」、「愚か者」と言ったことのない人はいるだろうか。

この主イエスの言葉は、私たちの心の奥底に、問いかけてくる。何故なら、「ばか」、「愚か者」といった、相手を否定することが殺意の温床となるからです。相手の人格や思いを踏みにじっておきながら、何も痛みを感じない。しかし逆に自分が言われると切れてしまう。

「殺すな」という戒めの根本にあるのは、相手を尊重する思いがあるのです。「私は、誰も殺していないから、自分には罪はない。」と居直って、自分を正当化してしまう。

神は、ご自身が造られた私たち一人一人を罪から救い出し「生かすために」身代わりの犠牲として、主イエスを十字架に付けられたのです。私達は、尊い犠牲の上に生かされている大切な存在なのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-09-17 09:30:05 (64 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章17節

「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

宣教題「愛の完成」  牧師 新保雅雄

主イエスは、「山上の説教」の中で、律法の掟を6個所取り上げられました。(5章21〜48節)。こうした一連の具体的かつ個別の教えに入る前に、主イエスは、弟子たちに対して、律法をどう受け止めるべきか語られています。

 これは私たち教会に対しても、律法の役割、そして律法をどう受け止めるかということを教えられています。

主イエスはこう言われています。

「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

ここで言われている律法とは、旧約聖書の創世記から申命記までの五つの書(モーセ五書)を指しています。そして「律法と預言者」と言う場合の預言者とは、エリヤやイザヤという預言者たちだけではなく、イザヤ書やエゼキエル書といった預言書のことも指しています。

主イエスは、これらの「律法と預言者(預言書)を廃止するためでなく、完成するために来られました。」とは、すなわち主イエスは、律法や預言者の語る本来の意味、そこに示された本来の神の御心を回復し、完成するために来られたのです。

律法や預言者の語る本来の意味とは、「山上の説教」の7章12節に記されている、主イエスの言葉から解かります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言われている主イエスの言葉です。

この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という言葉は、単純でありながらも非常に深みのある大切な言葉です。すなわち律法の完成とは、愛の完成なのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-09-10 06:49:44 (69 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章14節

「あなたがたは世の光である。

山の上にある町は、隠れることが出来ない。」

宣教題「地の塩、世の光」  牧師 新保雅雄

主イエスは、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われています。

主イエスは、何か条件を付けて、「もし、○○ができるならば、地の塩、世の光になれる」だからなれるように、しっかり頑張りなさい、と言われたのではないのです。

また、特に選ばれた人、才能をもった人にだけ言われた訳でもないのです。今のままの、ありのままに「あなたが、地の塩であり、世の光なのだ」と言われているのです。

ここに、神の恵みによる幸いがあります。「神が、一方的に、恵みによって、私たちを選んでくださり、地の塩、世の光としてくださった。だから、相応しく生きよう」これが、選ばれた者に期待された生き方なのです。

救いも同じです。「何かが出来たから救われたのでは、ありません。」「救われたから神の言われるような人生を生きよう。」なのです。(出エジプト)先に神の救い恵みがあり、感謝の人生があるのです。

光は自分を照らすのではありません。 世の光としての私たちは、自分自身に光が当たることを望んではいけません。世の光としての私たちは、あくまでも、人々を照らすことや社会を照らすことが大切なのです。 ですから、世の光としての私たちは、この世に仕えることが求められています。その時、光が光らしく輝くのです。また塩も自分自身のためにあるのではなく、周りの腐敗を防ぐために清めに使われるのです。

地の塩も世の光も、自分のためにではなく、人のためにこそ存在します。だからこそ、私たちは、礼拝の場から、地の塩として、また、世の光として、それぞれの働きの場へと派遣されるのです。

 


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