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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2021-12-05 06:08:19 (275 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書917


「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」


宣教題「日々新しく」   牧師 新保雅雄


主イエスは、福音を、どう受け止めるべきか、二つの例を語られました。いずれも新しいものと、古いものとの関係が示されています。


一つは、古い服のどこかが破れてしまったために、継ぎを当てる時のことです。この場合に、わざわざ、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てると、新しい布切れがちじみ、服を引き裂き、破れがいっそうひどくなる。


つまり一度、洗濯して、服が濡れ、乾き始める時に、織りたての布切れは収縮の度合いが多いため、せっかく継ぎを当てても、回りの古い生地が引っ張られ、破れてしまうのです。


二つ目として、新しいぶどう酒を革袋に入れる時のことです。この場合も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、革袋が破れ、せっかく中に入れたぶどう酒も、革袋も、両方とも失われてしまうのです。新しいぶどう酒は、発酵力が強く膨張するから入れ物を引き裂いてしまうのです。


神の愛を信じる者は、古い生き方から解放され、新しい歩みへと招かれているのです。主イエスという新しい教えを、古い体質のままではなく、新しい体質に受け入れることが必要です。


古い体質のままで教えを受け入れようとすれば、弾力を失い、新しい教えを納められなくなるのです。無理に入れようとすると、袋が破けてしまうのです。ですから、主イエスの恵みと神の愛を、受け止めるためには、私たち自身も、新しく作り変えられることが必要なのです。


古い自身のままで主イエスの新しい教えを入れても、葛藤や迷いで自分自身が破けてしまう。ここに信仰のつまづきがあります。


投稿者 : church 投稿日時: 2021-11-28 06:02:20 (297 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書912


「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」


宣教題「あなたは招かれている」   牧師 新保雅


主イエスが、収税所の前を通り掛った時、マタイという人が収税所に座っていました。当時、徴税人は、人々から嫌われた存在でした。 


徴税人が徴税する金額は、徴税人に任せられています。徴税人が、自分の思いで、多く徴税することも、少なく徴税することも出来たのです。そのため税金をごまかして徴収し、私腹を肥やしていました。徴税人は、人の弱みにつけ込んで儲けていたのです。


また、徴税人が嫌われる第二の理由としては、集めた税金はローマ帝国へ納められました。従って、ローマ帝国の手先であると見なされました。これらの点から、徴税人は、ユダヤ社会において嫌われ、神の救いに最も遠い存在と見なされていました。


そんな徴税人であるマタイに、主イエスは声を掛けたのです。そして「わたしに従いなさい」と言われました。


徴税人自身も、ユダヤ社会から嫌われる存在であることを自覚していたことでしょう。金儲けはできるが、それと引き換えに神から遠ざかっていくように思えた。同朋の友もいなかった。


「どうせ俺なんか神に愛されていない、」という思いを抱いていたマタイに、「わたしに従いなさい」と主イエスが声を掛けてくださった。するとマタイは、立ち上がり主イエスに従ったのです


「こんな自分でも受け入れられている」という思いをうけたのです。人は、自分を受け止め、受け入れ、話かけてくれる、また、話を聞いてくれる相手を必要としているのです。


マタイは、主イエスこそ、そういう方であると信じて、従ったのです。罪人や徴税人こそ、神の助けを必要としているではないかと、主イエスは言われているのです。まさにこのマタイこそ「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。


投稿者 : church 投稿日時: 2021-11-21 06:10:00 (293 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書834


「イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った」 


宣教題「救いと犠牲」   牧師 新保雅雄


主イエスたち一行が、ガリラヤ湖の向こう岸、ガダラ人の地方に着いた時のことです。主イエスを迎えたのは、悪霊に取りつかれた二人だけでした。舟で渡る前は、主イエスたちは、大勢の群衆に取り囲まれていました。ところが渡った地方では歓迎されませんでした


出迎えたのは、墓場から出て来た、悪霊に取りつかれた二人でした。彼らは、非常に凶暴なので、墓場に隔離された状態になっていたのです。


悪霊たちは、豚の群れを指して、主イエスに、こう願い出ました。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」


主イエスは、この悪霊の願いを聞き入れられました。悪霊に向かって、主イエスは、「行け」と言われたので、悪霊たちは、抵抗することもなく、二人から出て、豚の中に入り、豚はみな、崖を下って湖になだれ込み、死んでしまったのです。


これを見ていた豚飼いたちは、町に行って、このことを知らせました。その知らせを聞いた町の人は、主イエスに、その地方から出て行ってもらいたいと言ったのです。


せっかく、主イエスは、悪霊を追い出し、町に平和をもたらしたのに、町の人たちは、主イエスを追い出そうとしているのです。


この町の人々は、悪霊に取りつかれ、苦しんでいる人がいても、悪霊を追い出し、その人を救おうという心を持っていません。隣人への愛よりも自分たちの利益が優先するのでした。


一方、主イエスは、苦しむ人を、ほうっておくことは、ありません。自己を犠牲にしてまでも私たちを救われる。


ここに神の愛があります。


投稿者 : church 投稿日時: 2021-11-14 09:33:05 (286 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書826


「イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」


宣教題「主が共におられる」   牧師 新保雅雄


主イエスは、弟子たちに向かって、ガリラヤ湖の向こう岸に行くように、指示されました。ここ湖畔には、主イエスによって病気を癒していただいた人々で溢れています。弟子たちにとってみれば、救い主の弟子として尊敬、歓迎され、ここは居心地の良い場所です。


ところが、主イエスは、こうした居心地の良い場所に、弟子たちが長く留まることを、許しませんでした。そして、弟子たちを追い立てるように、ここから向こう岸へ行くようにと言われました。


その時、律法学者が、主イエスに近付き言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」


主イエスは、答えました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」


主イエスに従うことが、決して生易しいことでなく、寝る場所さえ無いほどの厳しさを覚悟しなければならないのだと、言われたのです。確かに、自分の心を、神に明け渡し、主イエスの導きに素直に従うことは、口で言うほど簡単なことではありません。


それでも、主イエスは、「わたしに従いなさい」、「向こう岸へ行きなさい」と、弟子たちに言われました。そして主イエスが舟に乗り込まれ弟子たちも従います。その時、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうです。弟子たちは、眠っている主イエスを起こすと訴えました。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」


主イエスは、起き上がって、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」そう言われ風と湖をお叱りになると、嵐は止み、すっかり凪になったのです。主イエスの一声で風が止み、穏やかさが戻って来たのです。あなたの人生の船には、主イエスが共におられるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2021-11-07 06:32:35 (289 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書817


「彼は わたしたちの患(わずら)いを負い、わたしたちの病を担った」


宣教題「苦難の身代わりの主」   牧師 新保雅雄


主イエスが、ペトロの家に行った時のことです。ペトロの、しゅうとめが、熱を出して寝込んでいました。主イエスは、しゅうとめの手に触れられると、熱が去って、起き上がることが出来るようになり、しゅうとめは、主イエス達一行をもてなし始めたのです。


その日の夕方、うわさを聞きつけた人々が、悪霊に取りつかれた人を大勢、主イエスのもとに連れて来た。主イエスは、姑をいやしたと同じく言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒されました。悪霊は、私たちを神から引き離そうといつも狙っています。


病気が全て、悪霊に因るのではありませんが、悪霊に対して、無頓着であってはなりません。目には見えなくとも、確かに存在するからです。  


この悪霊の力は、手を変え、品を変え、神から、私たちを引き離そうとします。また、祈ることを止めさせ、教会や信仰を批判し、神の力を否定する、そして礼拝から遠ざけ肉の思いを助長させるのです。


主イエスの病人への癒し、一見、ご自身は、いささかも傷付くことなく、痛むこともなく、悪霊を追い出し人を癒す神の子、救い主イエス・キリストの姿が示されているように思われます。


しかし、マタイは、苦難の僕として、人を救う主イエスの姿をイザヤ書から引用して明らかにしています。それは、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」主イエスの姿です。


実に、主イエスは、人の病、患い、痛みを、自らの身に引き受けてくださいました。自らが代わりに、その痛みを引き受けてくださることで人を癒されるのです。今病の中に苦しむ人の苦しみは、主イエスはご存じである。身に引き受けられたからです。


ここに、神の愛があります。それは十字架による身代わりの死で示された愛です。


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