聖 書 ルカによる福音書2:6,7
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み。布にくるんで飼い葉桶に寝かした。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
宣教題 「主をお迎えする準備は」
救い主イエス・キリストは、生まれてすぐに、布にくるまれで飼い葉桶に寝かせられました。飼い葉桶とは、家畜の馬や牛のえさ箱のことです。くさく、寒く、不潔な場所です。決して、生まれたばかりの赤ん坊にとって、祝福を受ける場所ではありません。
神の子なら豪華な神殿で、やわらかい毛布に包まれて生まれる。しかし、御子イエス・キリストは、飼い葉桶の中に生まれた。なぜなら「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。
当時、ユダヤの人々は、住民登録をせよというローマ皇帝の命令によって、それぞれ自分の属する町へ帰って行きました。マリアも夫のヨセフと共に、ベツレヘムの町へ向かったのです。
ところが、ベツレヘムの町の宿屋は、何処も一杯で、マリアたちが泊まる場所は、ありませんでした。誰も、自分の場所を、主イエスに用意することが出来ませんでした。
そのため、マリアは、仕方なく家畜小屋で子どもを産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。マリアにとって、これは、初めての出産だったのです。それが家畜小屋から始まるのです。
今夕、私たちは、御子イエスの泊まる場所を、用意しているでしょうか。御子イエスのために、お迎えできる場所を用意している。と胸を張って言うことが出来るのでしょうか。
私達は、あまりにも世のことに心とられ、自分のことだけで精いっぱいで、神の恵みさえも見えなくなっている。2千年前のイブの夜も「マリアたちの泊まる場所がなかった」 どうか今宵、静かなイブの中で改めて自分自身を省みてください。
聖書 ルカによる福音書1:38
「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで天使は去って行った。
宣教題 「お言葉どおり、成りますように」
マリアがガリラヤのナザレにいる時に、天使ガブリエルから、神の子を自分が産むことになると告げられました。突然のことなのでマリアは驚き戸惑いました。人間の思いからすると、ありえないことです。
そのマリアの心を見抜いたように天使は、「神にできないことは何一つない」(37節)と告げました。天使のお言葉を聞いたマリアは「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。
マリアが、自分のことを指して言っている「はしため」とは、「女性奴隷、僕」という意味です。神を自分の主人として信じ、従う決意をした者が、神との関係の中で自分を指して「僕」と言うのです。主人が言われることには、全てを受け入れるということなのです。それは絶対的な信頼なしではありえないのです。
マリアは、自分がどのようにして、神の子を産むことになるのか。そして何故、自分なのか。具体的なことは、何も分からなかったのです。それでも「神にできないことは何一つない」という言葉によってマリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。
マリアは神に選ばれるような、特別な功績、飛びぬけた信仰心があったのでしょうか。彼女が自身を「はしため」と語るように、そこにはないのです。あの三度も主イエスを裏切るペテロも同じく選ばれたのです。
このことを見るとき、私のようなものでも、神の愛を持ち運ぶ器になれるかもしれない。欠けの多い私でも選ばれるのです。この世の身分は、この世では通用しても、神の前では一切通用しないことが分かります。
私達に出来ることは、信じて全てを神にゆだねることです。
聖書 マタイによる福音書3:11
「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がしする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」
宣教題 「愛は人を生かす力がある」
洗礼者ヨハネは、人々に神の怒りと裁きを告げ、悔い改めを迫っていました。人々は、続々とヨルダン川で水の洗礼を受けたのです。
洗礼者ヨハネは、神の怒りと裁きによって人を従わせました。「今すぐ、悔い改めて、ふさわしい実を結べ、しなければ木の根元に既に置かれた斧によって切り倒されてしまうぞ」と決断を迫っていました。
これに対して主イエスは、神に切り倒されてしまわないように、人を罪から救う為に、この世に来られたのです。主イエスは、恐怖心で人々を従わせようとはしませんでした。神の裁きを主イエス自身が、身代わりの犠牲として十字架で死なれ、人々を救おうとさたのです。
命をかけて、罪から救おうとされるほど、私たちを愛しておられる。このことを知る時、私たちの心は、揺れ動かされるのです。(信仰です)
洗礼者ヨハネと主イエスとの関係は、律法と福音との関係として理解出来ます。律法無しには、何が罪であるかを知ることは出来ない。また福音無しには、心から悔い改めて、救いを得ることは出来ない。
「お前は罪人だ、切り倒すぞ」と言い続けられるだけでは、決して心から素直に、自分の罪を悔い改めることは出来ない。たとえ、自身の中に悪があると知っていても、人は悔い改めることが難しいのです。
麻薬中毒で刑務所に何回入れられても、心から悔い改めて麻薬を絶つことは出来ない。何回過ちを行っても、涙を流して愛してくれる人がいるとき、人は心を動かされ、悪から抜け出す力が湧いてくるのです。
人は愛がなければ生きる気力を失います。愛は人を生かす力があります。命をかけてあなたを愛された、主イエスを思い出してください。どんなにあなたがダメ人間でも、決してあなたを見捨てることはない。
聖書 マルコによる福音書10章51節
イエスは『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は『先生、目が見えるようになりたいのです。』と言った。」
宣教題 『あなたは神に何を望むのか』
道端にバルティマイという盲人の物乞いが座っていました。彼は、主イエスが来られたと聞いて「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大声で叫び出しました。主イエスの弟子たちは、このバルティマイを叱り付けて黙らせようとしたのです。
バルティマイは、物乞い生活から抜け出たい、もう一度人生をやり直したいと思っていました。そこに主イエスが通りかかった、この時を逃してはいけない。だから大声で必死に求めたのです。しかし彼の心の思いは、弟子や群衆には伝わらなかったのです。
弟子達の目には、道端の物乞いが、施しの金銭を得るために、いつものように「わたしを憐れんでください」と叫んでいるようにしか思えなかったのです。心の痛みまでは見えなかったのです。
弟子達が、叱り付け黙らせようとしても、バルティマイは、されるほどに、ますます大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。彼の叫びは祈りとなり通じました。
主イエスは、立ち止まり「あの男を呼んで来なさい」と言われ、改めて「何をしてほしいのか」と尋ねました。他の物乞い達のように、金銭的なものを求めるのかどうか、改めて尋ねたのです。しかし彼は「目が見えるようになりたいのです」と答えたのです。
主イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言されました。するとバルティマイは、すぐ目が見えるようになったのです。彼は新しい人生を手に入れ希望が見えたのです。
彼に対する人々の思いは、金銭の大小が生きる為の救いでした。しかし神の憐れみは、自身の足で歩む新しい人生でした。私達は神に何を求めているでしょうか? 金銭それとも希望でしょうか。
聖書 マルコによる福音書8章32、33節
すると、ペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。
宣教題 『救いとは肉との戦い』
主イエスは、ご自分が「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、弟子たちに向かって、これから起きることを語り出しました。
そのときペトロが主イエスの話をさえぎり、わきへお連れして、いさめたのです「先生、死ぬなんてことをおっしゃるべきではありません。先生が殺されるなどと聞いたら、弟子たちは皆、離れて行ってしまいます」
ペトロがメシア(救い主キリスト)を、どう理解しているかが分かります。ペトロにとってのメシアは、どんな時も負けてはならない存在なのです。
昔イスラエルのダビデ王が、敵との戦いで連戦連勝を続けたように、メシアは、勝利者でなくては困るのです。メシアが殺されては、いけないのです。これに対して主イエスは、「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とペトロを強く叱りつけました。
人を救おうとするとき、救いに来た人が強くなければ、救いを求めている人を救うことは出来ません。救いを求めている人より、救う人が弱ければ、命を任せることは、出来ないんじゃないでしょうか? しかし、主イエスは、それを「人間の思いだ」としかりつけたのです。
神の救いとは、人の思いを超えた先にあります。メシアである主イエスが、人の罪の身代わりとして、自分の命を犠牲として献げてくださる。このことによって、神は、人を罪から救おうとされているのです。
真の救いとは、肉による勝利ではない、ことが分かります。その肉の思いを捨て、神に従うときに本当の勝利、救いがあるのです。つまり救いとは肉の思いとの戦いでもあるのです。主イエスは言われます「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」