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投稿者 : church 投稿日時: 2022-07-10 05:46:05 (137 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書53節  


「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」


宣教題「天の国は心の貧しい人のもの」  牧師 新保雅雄


主イエスは、山上で、「幸い」についてお教えになられました。


ここで、「もし○○出来るならば、幸いになれます」などと言っておられるのではありません。既に今ある状態に対して、「あなたは幸いだ」と、主イエスは断言しておられるのです。


3節、4節にある最初の二つの「幸い」は、貧しい人、悲しむ人、この世的な判断からすれば、決して「幸い」とは言えない状態にある人々を指して言われています。この世の常識や価値観に、対抗するかのように主イエスは、「幸いだ」と繰り返していきます。


まず3節、最初に「心の貧しい人々」が挙げられています。主イエスが言われている「心の貧しい人々」というのは、直訳すれば、「霊において貧しい人々」のことです。つまり、信仰的に飢え渇いている人のことです。言い換えれば、それは、神の助けを求めている人、神の助け無しには、もう生きて行くことが出来ないほどに、深い苦しみの中に疲れを覚えている人のことです。


こうした人に向かって主イエスは、「天の国はあなたがたのものだ」と言われています。つまり「心の貧しい人々」こそが、天の国では、最も中心的な存在であり、あなたたちのためにこそ、天の国はあるのだと、主イエスは、言っておられるのです。


病院が、病気に苦しむ人のためにあるように、天の国は、神の助けを求めている人のためにこそあるのです。病気の人は自力で努力で修行で、何かが出来ることで、癒されるのではありません。


自分ではどうにも出来ずに、神の助けを祈り願う。私たちは、神の助けを切実に求め、思わず「ああ、神様」と祈らずにはおられない状態に置かれることがある、それこそが、「心の貧しい」状態です。


投稿者 : church 投稿日時: 2022-07-03 06:02:55 (116 ヒット)

 本日の聖書   マタイによる福音書41820節  


イエスは、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。


宣教題 「主イエスの呼び掛け」   牧師 新保雅雄


主イエスの弟子となった最初の4人は、皆ガリラヤ湖の漁師でした。彼らは、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時に、声を掛けられ、弟子となりました。自分の方から、主イエスに向かって、「私を弟子にしてください」と弟子入りを申し出たのではありません。皆主イエスの方から声を掛けられて、弟子になったのです。全ては、この主イエスの導きの呼びかけから始まったのです。


こうして主イエスの招きに応えて、最初の4人の弟子が誕生しました。この4人に共通することは、漁師という仕事中に主イエスから声を掛けられたこと、祈って求めたのではないにも拘らず、誰一人として、躊躇することなく、すぐに主イエスに従ったことです


網も舟も父親も残して、彼らは主イエスに従いました。これは、神の働き無しには起こりえない出来事です。何故なら主イエスは、まだ何一つ、実績を上げておられないからです。病気の人を癒すこと、神のみ国を教えることも、まだ行ってない、無名の時なのです。


ですから主イエスが何者であるのか、まだ誰にも分からない段階で、シモンたちは主イエスに従って行くのです。神が彼らの心を動かしてくださったからこそ、主イエスに従うことが出来たのです。


神は、主イエスを通して、私たち一人一人に呼び掛けられます。たとえ私たちに、主イエスの声が聞こえなくても、ここに集められているということが、既に主イエスの呼び掛けを受けている証です。


私たちは、すぐに主イエスに従うことが、出来ないでいるかも知れません。でもそれはそれでいいんです。今日も主イエスは、繰り返し私たちに呼び掛けてくださる。ここに恵みがあります。


投稿者 : church 投稿日時: 2022-06-26 06:04:54 (121 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書19章2022


「金持ちの青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」


宣教題 「天に富を積む」 牧師 新保雅雄


彼は律法を熱心に守り、善い行いを心がけた。世においても一生懸命働いて沢山の財を残した。自分で出来ることは全て行った。成功者である。信仰者としての自信もあったのだろう。彼は胸を張って主イエスに尋ねる。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」彼は、確信がほしかったのです。


主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われた。


その言葉を聞いた青年は、悲しみながら立ち去った。なぜなら彼は「たくさんの財産を持っていたからである」そのとき彼は、初めて自分が不完全で欠けている人間であることを知ったのです。


完全になるということは、何と難しいことだろうか。まさに「ラクダが針の穴をとおる方がまだやさしい」と思われてくる。つまり自分の善い行い修行では、永遠の命の国、天国へは入れないのです。


彼は、律法を守り貧しい人々への施しもしてきたでしょう。しかしその施しはあくまでも、自分が救われるためであり、財産を売り払ってまで、貧しい人々に施しをするということではない、沢山の財産の中から余ったものであった。弱い者への愛する心からではない。


「わたしは、こんなに善いことをしてきました。だから天国に入れてください」何と傲慢な者なのだろうか。私たちが出来ることは、「主よ、罪人の私を憐れんで下さい」と心から祈ることだけである。


投稿者 : church 投稿日時: 2022-06-19 05:49:27 (132 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書19章1315


そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。


宣教題 「子供のように」   牧師 新保雅雄


主イエスに子供を祝福していただくために、親たちが子供を連れて来ました。これを見て弟子たちは親たちを叱り帰そうとしました。


しかし主イエスは、逆に弟子たちを叱りました。そして「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。


主イエスのところに連れてこられた子供たちは、何かしたわけでもないのに、主イエスは「天の国はこのような者たちのものである」と言われる。いったいこれはどういうことなのでしょうか?


ヒントは、子供たちはどうやって主イエスのところにやってきたのでしょうか?です。「人々が子供たちを連れてきた」と書いてある。つまり親に連れられて来たのです。それだけです。努力したどころではない。連れられてきただけです。それが天の国なのです。


「私は自分で主イエスのもとにやってきました」と言うことのできる人がいるでしょうか。わたしは自分が選んで教会に行った、という思いが、いかにごう慢であったか。今朝の礼拝の初めに牧師、司会者が「教会へ来ようとしている兄姉があれば無事に」と祈ります。


自分の力で主イエスのもとに来ることができる人などいません。


全ては聖霊の導きです。天の国は、主イエスが一方的にお与えになるものです。子供は自分で教会へ来たのではない。親たちに手を引かれてきたのです。これが聖霊の働きです。どうか心を一つにしてまだ見ぬ兄姉、お休みされている兄姉のために祈りましょう


投稿者 : church 投稿日時: 2022-06-12 06:14:43 (132 ヒット)

 本日の聖書   マタイによる福音書19章89


イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」


宣教題 「人間のずるさ」   牧師 新保雅雄


今朝の聖書を読んで、皆さんはどのように感じられたでしょうか。離婚をすることが、「良いのか悪いのか」、「どういう場合なら離婚はできるのか」また「どのような離婚なら律法に違反しないのか」 離婚する時はどうすればいいのか?このように思ってしまいます。


「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言うファリサイ派の人の言葉に対して、主イエスは「どんな理由があろうと、絶対に離婚をしてはいけないのだ」という離婚禁止の律法として聞こえてしまうのではないでしょうか。


そうであるなら離婚をした人はダメな人、神の御心に背いた人。離婚をしなかった人が偉い人、立派な人である、ということになる。


当時は男性社会です。そのため妻と離縁して新しい女性と再婚したいと願う思いから、妻に「なにか恥ずべき事」はないかとさがし、口実をつくり、離縁を正当化していました。つまり離縁は自分の責任ではない。悪いのは妻のほうだ、自分は被害者だ信仰者だ。


神は創造の時、アダムを御心にとめられ「人が独りでいるのは良くない」と言われ、助け手エバが造られました。男と女との関係は、人間社会の基礎であり、対立のために男と女があるのではない、助け合う関係として造られたのです。しかし人は、自分の欲望のために自分に都合よく、神の律法までもゆがめ正当化していく。


自分は完全な人間ではなく、欠けた人間であることを知りなさい。主イエスは、律法を教えておられるのではないのです。人間の弱さずるさを知りなさい。と言われているのです


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