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新住所
板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2018-09-01 23:55:59 (22 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書16章26節

「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」

宣教題「天と地を分ける壁」   牧師 新保雅雄

高価な服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らす金持ちがいました。毎日、宴会が行われていた。その家の門の前にラザロというできものだらけの物乞いが、力なく横たわっていました。彼は、あまりの空腹から、宴会の残り物でもいいから腹を満たしたいと思ってた。

しかし金持ち達は、誰一人ラザロに残飯でさえもくれる人はいません。ラザロは、弱り切って犬ができものをなめても追い払えません。金持ちとラザロとの間には、超えることの出来ない貧富の差という壁があります。門の中と外では、全くちがう世界がありました。

世においてどんなに貧富の差が大きくとも死だけは、平等に訪れます。しばらくしてラザロと金持ちに死が訪れました。死から目覚めると、ラザロは天の国の宴席でアブラハムのそばにいます。この世の地獄の様な世界から一転して、天の国に入ることが出来、信仰の父アブラハムと宴席についていたのです。楽しげな声が聞こえます

一方、金持ちは、ラザロとは対照的に、炎の中で熱さと苦しみのあまり目を覚ましました。苦しさの中で天を見上げると、はるか遠くにアブラハムと楽しげに宴会をしているラザロが見えました。

彼は苦しさの中で言います「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」しかしアブラハムは言います「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって越えて来ることができない。」

金持ちは、有り余る自分の財産の、ほんの一部を分け与えることで助かるラザロを助けませんでした。世に壁があるように天にも壁があるのです。この壁は、あなたの自己中心な心で築かれています。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-08-26 08:27:41 (21 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書16章15〜17節

そこで、イエスは言われた。

「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」

宣教題「何を誇るのか」   牧師 新保雅雄

ファリサイ派の人々に対して、主イエスは語られました「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。」(15節)

これは、人目に付く所でだけ、自分の信仰、行い、正しさをこれ見よがしに見せびらかして誇ろうとするファリサイ派の人々に、悔い改めを投げかける言葉です。私たちも教会の内の顔と外での顔の違いにも通じます。クリスチャンの顔、よそ行きの言葉。

続けて「律法と預言者は、ヨハネの時までである」と主イエスは語られました。ここで言われる「律法と預言者」というのは、旧約聖書のことを指しています。バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを授けて以来、新しい時代が到来し、神の国の福音が告げ知らされました。それは、「神の国は近付いた」という喜ばしい知らせ福音であり、人々に求められるのは「悔い改め」です。

悔い改めとは、人生の方向転換です。今までの人生を止めて、神の方へと人生の方向を転換することです。ところが、実際には、正反対のことが起きました。それは、「だれもが力ずくでそこに(神の国)入ろうとしている」ということです。これは、自分の信仰によって、自分の良い行いによって、自分の力によって、神の国への扉を強引に開けようとする、律法学者などの人々に向けた言葉です。

自分の力では誰一人、神の国へ入ることは出来ません。神の国への入り口は、己を低くして、主イエスの十字架こそが、神の国へ通じる道であると認め謙虚に生きる者にこそ、開かれるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-08-19 07:53:14 (32 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書22章3〜4節

「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談を持ちかけた。」

宣教題「入り込む悪魔」   牧師 新保雅雄

ルカ福音書は、いよいよ受難物語に入っていきます。神の御心に従順に従われる主イエスと、自分中心に生きようとする人々の様子が、対照的に描かれています。本日の聖書は、今まで信頼を得ていた弟子が、悪魔によって一瞬のうちに神に敵対する者になっていく、恐ろしさが描かれています。

除酵祭が近付いている時です。12使徒の一人で、イスカリオテのユダにサタンが入りました。ユダは、祭司長や神殿守衛長たちに「イエスを引き渡しましょうか」と相談を持ち掛けました。

ユダは、主イエスが選ばれた12人の使徒として、教えを間近で聞き、病気で苦しむ人を癒す奇跡を何度も見てきました。しかし、そのユダが、師である主イエスを裏切るのです。

ユダのことを裏切り者の悪人だと思われるかも知れません。しかしユダは、サタンが入ったことで主イエスを裏切るのです。それまでのユダは、他の弟子たちと同じく主イエスに従い、行動を共にしていたのです。そして金庫番として大きな信頼も受けていました。

ユダに起こったことを、決して他人事として考えてはいけません。金貨30枚で主イエスを売り渡した裏切り者。ユダに起こったことは、今日の私たちにも起こるのです。

キリスト者として人生を送りたい。しかしユダがそうであった様に、一瞬にしてサタンが入り込み神とは反対の方へ引きずられることが起こる。だからこそ、私たちは、聖書に親しみ、祈りをもって神と交わり、聖霊の助けを受ける必要があります。悪魔はすぐ身近に潜んで神から離すチャンスをうかがっています。 


投稿者 : church 投稿日時: 2018-08-12 07:07:40 (22 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書21章12〜13節

「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる」

宣教題「あなたの口と共にある」   牧師 新保雅雄

主イエスは、キリスト者への迫害が迫っていること、そして迫害に対する心構えを語られました。

現在の私たちには、迫害と言っても、なかなか分かりづらいことですが。今から72年前の戦時中、そして戦国時代の日本であれば、キリスト教信仰者への迫害や弾圧があり、逮捕されて獄中で死を迎えた方も沢山いました。しかし、現在の日本では、主イエスを信じることで当局へ逮捕されるといった迫害は、ありません。

しかし2千年前に十字架で殺された外国の人を神の子、救い主だと信じることは、周りから見れば不思議な目で見られることが多々あります。「神を信じるなんて弱い者のすること」「信じて何かよいことがあったのか」「おまえの言う愛って何だ」と興味本位の質問をされることが、あるかも知れません。また、聖書の事を話すとからかわれることもあります。

若い頃の友人は言います。「こいつこの間まで不良だったのに今牧師なんだって、ホントかね?」と皆の前で挑発されることがあります。茶かされるという迫害は、今でも度々経験することです。

こうした迫害を受けることは、出来れば避けたいものです。ところが主イエスは、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(21:13)と言われます。この時こそ伝道の機会だと言うのです。

何を語ろうか心配しなくてもいい。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける。」ただ主イエスを信じて、そのとおりに実践する事です。主は、神の働き手、御用をされるものを、決して捨ておかれはしません。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-08-05 05:19:28 (24 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書20章22〜25節

「『ところでわたし達が皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。』イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」

宣教題「信仰と社会」   牧師 新保雅雄

本来、自分の悪い所を指摘してくれる人は、有り難い存在なのですが、悲しいことに、その大事な人を律法学者や祭司長たちは、素直に受け入れることはできませんでした。

そこで主イエスを何とか陥れ、ローマ皇帝に訴えようと考えたのです。そして彼らは、悪意に満ちた質問を投げ掛けたのでした。

「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、

律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 

当時のローマ皇帝は、半ば神格化されていましたので、ローマに税金を納めることは、ローマ皇帝を神として崇めることにつながるのです。ユダヤ人は快く思っていませんでした。

もし主イエス様が、ローマ皇帝に税金を納めることは律法に適っていないと公に答えれば、ローマへの反逆罪になるのです。

しかし主イエスは、デナリオン銀貨を取り上げ「そこには、誰の肖像と銘があるか」と問い返しました。彼らが、「皇帝のものです」と答えると、主イエスは、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられました。

信仰は、現実社会から逃避して自分勝手に生きるためのものではありません。むしろ、与えられた信仰による人生を、人や社会のために用いる時に、地の塩、世の光としての信仰の実りがあるのです。  

信仰とは、あのオームのように現実社会から逃避するためのものではなく、愛をもって支えあう豊かな社会にする力になるのです。


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