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投稿者 : church 投稿日時: 2019-03-10 16:57:28 (25 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書12章3〜6節

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

宣教題「ユダの裏切り」 牧師 新保雅雄

今朝は「ユダの裏切り」から学びます。主イエスは、十二使徒の一人としてユダを選びました。彼を愛していたからです。そして大きな信頼も寄せていました。それ故彼に、群れのお金をすべて預けていたのです。しかし彼は、群れと主イエスを裏切ってしまいます。

彼は、その信頼を悪魔に狙われてしまいました。悪魔の誘惑は、わたし達の弱いところを狙ってくるように思います。しかし、必ずしもそうではないことが分かります。このユダのように、金庫をまかされる信頼と能力のあるところを狙ってくるときもあるのです。

会社を経営することにたけている人を悪魔は狙います。立ち上げたときは社員のために、社会のために、そう思い社員に感謝して仕事をします。しかし、経営がうまくいき、「さすが」といわれていくうちに、「会社は自分のもの、私が大きくした」に変わっていくのです。群れのものが自分のものへ、ユダと同じ「盗人」の罪を犯していきます。悪魔が彼の能力を誘惑していくのです。

わたし達の誇るべき能力(賜物)成功は、自分のものではなく、神からいただいた賜物だとするなら、自分自身を自慢する、うぬぼれる、そして自分を誇ることは、なくなるのではないでしょうか。成功すればするほど主に感謝する謙虚な心が求められているのです。

「信仰は感謝で始まり感謝で終わる」世の全ての物(恵み)は、神の創造物であり、私達人間は、その物の管理者なのです。そして私たち自身も神の創造物なのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-03-03 07:13:10 (19 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書11章3、4節

姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

宣教題「死の先にあるもの」 牧師 新保雅雄

「わたしには、まくらするところもない。」と言われた主イエスにとって、このベタニアの家族達は、心から休まる家だった。この安らぎの親友ラザロが病気で死につつある。

弟のラザロが病にかかり、なすすべもなく悪化していき、ついに死に直面している。マルタとマリアは、絶望してあきらめるのではなく、主イエスの所に人を遣いに出したのです。そして「主よ、あなたの愛していられる者が病気なのです」。と言わせた。

しかし、ラザロは、死んでしまいます。主イエスがそこへ着いたのは、死後四日たっていました。

このラザロの死に対して、主イエスは言われます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 

では「この病気は死で終わるものではない。」とはどういう意味でしょうか?‥‥「死ぬほどの病気ではない。大丈夫」という意味でしょうか? しかしこのあと、ラザロは死ぬのです。

私たちは、人間死んでしまえば、すべてが終わりであるかのように思う。しかし、それが主イエスによって変わるのです。 主イエスは「この病気は死で終わるものではない」と言われるのです。主イエス・キリストによって、そのように変えられるのです。

必ず人は死を迎えます。しかし死は人間の人生の最終目的地ではなく。今日の主イエスの言葉によれば、私たちが主イエスに、自身の命をゆだねた時、それは「死で終わるものではなくなる」。その先にある神の国へとつながっていくようになるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-02-24 06:32:34 (27 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書10章4節

自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。

羊はその声を知っているので、ついて行く。

宣教題「主の御声を聴く」 牧師 新保雅雄

イスラエルでは、「羊の囲い」と言われる共同の羊舎があり、羊飼い達は、夕方になり遊牧が終わると、自分の羊たちを連れて羊舎に入る。そこでは異なる羊飼いの羊達が、一緒になって夜を過ごす。

翌朝、羊飼いが自分の羊たちの名を呼ぶと、その飼い主の羊が彼の後に従って付いて行く。決して他の羊飼いには、ついて行かない。羊は、自分の飼い主の声を聞き分けられるのです。

この羊飼いと羊の関係は、神とわたし達の関係に似ています。神の守りと深い愛の関係。羊飼いが遊牧に出かけるとき、石投げ器を持っていく。イスラエルには、番犬が居ないため、羊を守るのは羊飼いなのです。その為の石投げ器を必ず持っていくのです。

イスラエルの羊は、ほとんどが羊毛に使われます。その為、羊と羊飼いは、一生涯一緒に暮らします。羊は、家畜ではなく家族なのです。だから一匹づつ名前がつけられ、羊飼いはその名前で羊を呼ぶ。

羊飼いは遊牧に行くとき、その先頭を歩き安全を確かめる。羊は、それに従って付いていく。イスラエルの山には、狼がいて羊の隙を狙っているからです。羊は、自身を守る牙も爪も持たない。だから羊飼いに絶対の信頼を持っている。自分の命を預けているのです。

わたし達も世の悪魔から自身を守るものを何も持っていない。悪魔は実に上手に人をだます。時に神のように近づき甘い声で誘惑する。もしあなたが、神の声を聞き分けられなければ、危険である。

主イエスは、あなたの為なら自身の命もおしまない。今日もあなたに向かって、あなたの名前を呼ばれておられる。主イエスについていくなら、あなたも神の家族です。どうか、主イエスの御声が聞き分けられますように・・・・ 


投稿者 : church 投稿日時: 2019-02-17 07:40:28 (27 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書2章9節

「世話役はぶどう酒に変わった味見をした。このぶどう酒がどこからきたのか、水をくんだ召し使い達は知っていたが、世話役は知らなかった」

宣教題「奇跡と信じる力」 牧師 新保雅雄

主イエスは、5人の弟子を選び、ガリラヤから神の国の伝道活動を始められました。伝道の途中カナで結婚式に招かれました。この結婚式には、主イエスの母マリアもお手伝いの為にきていました。

当時の結婚式は、一週間近くも宴会が続きます。その間、料理やぶどう酒は、相当な量が必要です。主催者は、充分に用意をしていましたが、宴会途中でぶどう酒が無くなってしまいました。

そこで母マリアが主イエスに「ぶどう酒が無くなりました」と相談しました。主イエス様は、召し使いに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。水は清めに使う水がめに注がれました。

何も知らない世話役が味見をすると、良質のぶどう酒なので、宴会の後半に上等のぶどう酒をだした花婿をほめました。通常は、初めに良いぶどう酒をだして酔いが回った頃に、安物を出すからです。

この奇跡を知っているのは、新郎新婦や世話役でもなくお客様でもない、主イエスから指示され働いた召し使い達です。「このぶどう酒がどこからきたのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」神の祝福は、主イエスの働きをする者達の上に大胆に現されるのです

そして「その栄光を現された。それで弟子達はイエスを信じた。」祝福を頂いた新郎新婦が信じたのではない。そこに招かれた者が信じたのでもない。「弟子達が信じた。」のです。

神様の救いを受ける人は、必ずしも、奇跡を行って貰った人たちだけじゃないのです。「指示され水をくんだ召し使い達」「選ばれ従って行く弟子達」に神の栄光は現され、信じる力が与えられるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-02-10 07:32:17 (31 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書4:23

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」

宣教題「ありのままの告白」 牧師 新保雅雄

主イエスは、弟子達とガリラヤへ向かう途中、サマリアのシカルを通りかかりました。 弟子たちは、食べ物を買うために町に行き、主イエスだけが、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸に一人残りました。

そこへサマリア人女性が、井戸の水をくみに来ました。正午ごろは、一日の内で最も暑い時です。通常は、この暑い時間帯を避け、朝か夕方の涼しい時に井戸の水をくみに来るものです。しかしこの女性は、人のいない時に水をくみに来たのです。つまり彼女には、人目を避けなければならない理由があったのです。

主イエスは、この女性と言葉を交わして、私が誰だか知っているならば、「あなたの方から、私に頼み、私は、あなたに生きた水を与えただろう」「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

サマリアの女性は、主イエスが言われる、生きた水を求めました。すると主イエスは、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。そこで、この女性は、人目を避けなければならない自分の罪深さ、過去に5人の夫がいた。現在も結婚していない男性と同棲している。人目を避ける闇を「ありのまま」に告白したのです。

ここに主イエスの言われる「霊と真理をもって神を礼拝する者」の姿があります。「霊をもって礼拝する」とは、聖霊に導かれて礼拝すること、「真理をもって礼拝する」とは、神の御前に、私たちが「ありのまま」を告白することです。

サマリアの女性が、主イエスに自分自身を「ありのままに告白」したように、神の御前に、私たちが素直になって、正直にありのままの姿をさらけ出すとき、本当の救いがおとづれるのです。 


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