本日の聖書 イザヤ書40章29〜31節
「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
宣教題 「主に望みをおく人」 北村紀一
このイザヤ40章を書き記した時代は、希望を持つことが困難な時代でした。バビロンとの戦いに敗れ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。この時の預言者も同じように捕囚の身でした。バビロンにおける捕囚生活が50年も続いたので、神様は自分たちのことを忘れたのではないか、神様の目には自分たちの苦しみが見えていないのではないか、と、絶望的になっていました。どこを見ても捕囚から解放されるという保証が見当たらなかったからです。先が見えない、希望を持てないということはとてもつらいことです。
しかし、主に望みをおく人は、その厳しい現実の中で、聖書を通して静かな神の御声を聴き取りました。私たちの人生にもまた厳しい時があります。しかし、それでも神様を信じて下さい。さまざまな雑音が、絶望的に鳴り響く中にいるときは、本当に聞き取りにくいかもしれません。それでも、その時こそ、あなたに語りかける静かなみ言葉に耳を傾けて下さい。求め続けて下さい。
大事なことは、人間により頼まないこと。主にだけより頼むこと。主に期待し続けることです。その祈りが、直ぐに効果を生まなかったとしても、目の前のことだけに惑わされないで、静かに主の最善を信じ、待ち続けることが大切です。
つまり、委ねきることです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」と言います。この御言葉にある“新たな力”を与えられるのは主である神様です。主に望みをおく人には、疲れている時、弱っている時、苦しい時、悩んでいる時、必ず必要な力が与えられることを教えられるのです。
「鷲のように翼を張って上る」のは、鷲は翼を伸ばすと2〜3メートルになりますが、大きな羽(自分の力)でばたばたしたら、すぐに疲れてしまいます。自分では羽を動かさないで羽を広げて、上って来る風を掴んで上昇します。私たちも、どんなに現実が困難であっても、疲れきったような状態でも、主にこそより頼み、すべてをお任せして、その現実に立ち向かうのです。惑わされやすい弱い私たちですから、信仰による翼を思いっきり広げられるよう、いつも、主に望みをおくことができるように祈り求めていきましょう。
本日の聖書 ヨシュア記6:1〜2節
「エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。そのとき、主はヨシュアに言われた。『見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」
宣教題 「信仰の戦い」 北村 紀一
イスラエルがエリコの町を占領するときのことです。ここで注目すべきは、イスラエルに力があったから占領できたのではなく、先立って共におられた主が戦われていたから、約束の地であるエリコを陥落できたということです。
ヨシュアは2人の偵察隊をエリコに送りました。40年前、モーセ率いるイスラエルがこの地に入ろうとしたときは12人の偵察隊を送りましたが、その時は、10人が「エリコに勝てない。住民は強く、町は城壁に囲まれ、しかも彼らは我々よりも強い」と報告したのです。見た目に惑わされて、主を見なかったイスラエルは神さまにそむいて約束の地に背を向けてしまったのでした。そのためにイスラエルは40年も荒野を彷徨ことになったのです。
何を頼りにして生きるのか。どこに目を向けて生きるのかで、私たちは約束の地に入るのか、それとも荒野を彷徨のかに分かれてしまいます。
偵察隊の2人は、エリコで遊女ラハブに助けられて、無事に戻り、ヨシュアに報告しました。「強そうに見えるエリコの人々は、恐怖に襲われ、すっかりおじけづいていました。」これはイスラエルが強い国だからではなく、先立って導いておられる主に対してです。それで、エリコはイスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしていました。つまり、エリコは神さまに対して壁をつくっていたのです。私たちが神様を知らなかったとき、神様に心を閉ざして、頼りにならないものを頼りにして生きていた姿がここにあります。互いに不信感を持ち、心を硬く閉ざして、隣人との関係を持つことに対して恐れを持っている姿です。
どんなに強固な壁を造っても、神さまにとっては全く意味がありません。なぜならば神さまは私たちのすべてをご存じであり、私たちが本来あるべき姿に戻るために内側から働かれるからです。神さまは、私たちを滅ぼすためではなく、生かすために先立って戦われるのです。ですから、目の前にどんなに大きな壁があっても惑わされないように、私たちは神さまにこそ目を向けるべきなのです。
ただ、神さまに信頼して従うとき、私たちは約束の地へと導かれます。
本日の聖書 マタイによる福音書11:3、4
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。イエスはお答えになった。行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」
宣教題 「キリストの御言葉を下さい」 牧師 新保雅雄
バプテスマのヨハネは、今、牢に囚われています。牢の中で主イエスの噂を聞きました。そこで自分の弟子を主イエスに尋ねさせました「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」「来るべき方」とは、キリストのことです
これに対して主イエスは、ヨハネの弟子たちの質問には、直接的には、お答えにならずに、こう言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」でした。
それではヨハネの弟子たちは、何を見聞きしたのでしょうか。主イエスは貧しい者たち、人に見下されている者たち、無価値な者たちに語っておられた福音の言葉なのです。
ヨハネは、その主イエスの福音の言葉、救いの奇跡を一度も見聞きできなかったのです。自分が捕らえられるまで、主イエスは福音伝道を行われなかったからです。だから今、牢の中で苦しみ、叫んでいるのです。救い主イエスが語る、神の言葉を求めているのです。
そして主イエスは、ご自身が行った奇跡、癒し、語られた福音の数々を語られました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」この祝福の福音を、死に直面しているヨハネに送られたのです。
私たちの人生にも、苦難が押し寄せるときがあります。そんな時に心から信頼できているでしょうか。信仰が揺らぐ時がないでしょうか。時として自身の信仰の弱さを思いやられる時があります。そのようなときこそ、キリスト・イエスの御言葉が必要なのです。
祝バプテスマ!
中島準一兄、森啓太郎兄、おめでとうございます。
ここに来るまで、いろいろありましたが、まずはひとまず安心しました。主にある兄弟姉妹とともに、心からお祝いいたします。
バプテスマは、ここで完成、終わりではありあせん。ここからが神の子としての新しい人生の出発点なのです。つまり卒業式ではなく、入学式です。ですから、これからいろいろな試練も喜びも、また葛藤することもあるでしょう。
バプテスマを受けたからと言って、まったく罪のない、誘惑に負けない自分になるのではありません。どんな試練の波が襲ってきたとしても、神があなたを守ってくださるのです。あなたは、もう一人ではなく、神があなたと共におられるのです
今は、まだ実感が持てないでしょうが、ある時、確信が持てるようになります。自分自身も驚くような確信です。本日は、水によるバプテスマですが、いずれ聖霊によるバプテスマが、あなたに降ります。どうか信じて、クリスチャン人生を楽しんでください。離れず繋がっていれば、必ず祝福が訪れます。
本日の中心聖句 ルカによる福音書15章20節
宣教題 『我が家へ帰ろう』 牧師 新保雅雄
「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
放蕩の限りをし尽くし、全財産を使いはたした息子が、ぼろぼろになって、父親の元に帰ってきました。すると、まだ遠く離れているのに、父親は彼を見つけ憐れに思い、走り寄って迎え入れ、何も聞かず、只思いっきり抱き締めたのです。ここに、神の愛が示されています。天の父は、立ち帰る者に何も言わず、無条件で迎え入れてくださるのです。今日、二人の兄弟が、我が屋に帰ってきました。
お帰りなさい。 ああ感謝、感謝・・・
本日の聖書 マタイによる福音書10:32
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」
宣教題 「信仰を言い現す」 牧師 新保雅雄
主イエスは、12弟子を福音伝道に遣わすに当たり、改めて弟子たちに覚悟して行くように語りました。
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」
これは、主イエスの弟子だということで、歓迎されるのではなく、むしろ、社会では、嫌がられることの方が多いとうことなのです。
たとえ厳しい状況が待っていたとしても、自分は主イエスの仲間だと言い表すならば、主イエスもまた、天の父の前で、その人のことを、ご自分の仲間である、と言い表してくださるというのです。
どうでしょうか? 私たちは、どんな状況にあっても、「わたしはクリスチャンです」と、はっきり信仰を表すこと事が、出来ているでしょうか。自分の都合のいい時、悪い時で使い分けしていないでしょうか。
続いて主イエスは、こう言われます。
「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
この現世ですべてが終わる、その後は何も無い、と考える人にとっては、主イエスの言われることは、理解出来ないでしょう。その人にとっては、終わりの日のことよりも、今現世で、いかに要領良く生きるか、義よりも利益を優先することに何の疑いも持たない。
しかし、天の国があり、終わりの日の裁きがあるならば、主イエスのこの言葉は、私たちのこの世でのクリスチャン人生に、大きな勇気を与えてくれるでしょう。