本日の聖書 ヨハネによる福音書21:4、12
「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子達は、それがイエスだとは分からなかった。イエスは、「さあ来て、朝の食事をしなさい。」と言われた。弟子達はだれも、「あなたはどなたですか。」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」
宣教題 「主イエスを感じる」 牧師 新保雅雄
主イエスの十字架の死からしばらくして、ペテロとほかの6人の弟子たちは、昔のように故郷のガリラヤ湖で漁に出ていました。この時のペテロは、とても傷ついていました。主イエスが捕らえられた時、大祭司の屋敷で「イエスなど知らない」と3回も否定してしまったことを、ペテロは思い出していました。
そんな状態ですから、漁のほうもうまくいくはずはありません。一晩中何度も網を下ろしてみるが、魚は一匹も取れないのです。これはペテロ達の、このときの心の様子を、そのままに現しています。
今、彼らは主を無くし、これからの自分の人生を不安の中で生きています。神を知るクリスチャンであっても、時として生きることに不安や恐れを持つ事があります。生きる望みを無くし、孤独の中に陥る事があります。
彼らは、夜通し漁をしましたが、魚は一匹も取れませんでした。疲れもピークになり、夜も明けてきたので、もうしまいにしようかと思っていた時、声をかけてきた人がいます。
その人は、言いました「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」彼らは、言われるまま網を打ってみました。すると驚くほど沢山の魚が取れ、網が引き上げられないほどでした。
彼らに笑顔が戻りました。その声は、主イエスだったのです。彼らは、「主が共にいてくださる」という喜びを心の中から感じていました。自分の思いで生きている時、主イエスが見えませんでした。
しかし、主イエスの御声に聞き従う時、平安と祝福を取り戻したのです。悲しい時、迷う時こそ、主イエスの御声をを感じて下さい。
本日の聖書 ヨハネによる福音書20:1
天使たちは、墓の外にいるマリアに向かって、「なぜ泣いているのか」と尋ねました。すると、マリアは、こう答えたのです。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
宣教題 『永遠の命の旅』 牧師 新保雅雄
イースターの出来事は、日曜日の朝早くに始まりました。まだ夜が明け切っていない暗いうちに、マグダラのマリアは、主イエスが葬られた墓へと向かいました。この墓には、入り口を塞ぐための石が置かれている筈でした。ところが、ある筈の石が、取りのけられていたのです。そして、墓の中に主イエスの遺体はありませんでした。
捜していた主イエスは、墓の外でマリアの後ろに立っていました。しかし、マリアは、それが主イエスだとは分かりませんでした。マリアは、主イエスは十字架にかかり死んでしまい、もはや生きてはいないと思っていたからです。それでマリアは、後ろに立っておられるのが、主イエスだとは分からなかったのです。
そんなマリアに主イエスは、こう言われました。「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」 既に主イエスは、死から復活して、マリアの後ろに立っておられます。しかし、マリアは、死の世界の中に、主イエスを捜しているのです。過去にとどまっているのです
その時、主イエスが、「マリア」と呼び掛けられました。この時、初めて、この声に、マリアは、ようやく主イエスだと分かりました。
ともすると、私たちは、マリアが墓の中に目を向けていたように、過ぎ去った過去にばかり、自分の思いを向けることがあります。
主イエスの十字架の死と復活は、私たちを過去から未来へ、死から生へと招いてくださるのです。人は死で終わるのではない。私達の命の旅は、天の国へと続いているのです。ですからいつまでも過去にとらわれて、クヨクヨしてはいけません。主イエスの復活を信じて、主イエスと共に歩みたい。永遠の命の旅は、まだ始まったばかりです。
本日の聖書 ヨハネによる福音書 10章4
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
宣教題 『主の御声を聞く』 牧師 新保雅雄
イスラエルでは、「羊の囲い」と言われる共同の羊舎があり、羊飼い達は、夕方になり遊牧が終わると、自分の羊たちを連れて羊舎に入る。そこでは異なる羊飼いの羊達が、一緒になって夜を過ごす。
翌朝、羊飼いが自分の羊たちの名を呼ぶと、その飼い主の羊が彼の後に従って付いて行く。決して他の羊飼いには、ついて行かない。羊は、自分の飼い主の声を聞き分けられるのです。
この羊飼いと羊の関係は、神とわたし達の関係に似ています。神の守りと深い愛の関係。羊飼いが遊牧に出かけるとき、石投げ器を持っていく。イスラエルには、番犬が居ないため、羊を守るのは羊飼いなのです。その為の石投げ器を必ず持っていくのです。
イスラエルの羊は、ほとんどが羊毛に使われます。その為、羊と羊飼いは、一生涯一緒に暮らします。羊は、家畜ではなく家族なのです。だから一匹づつ名前がつけられ、羊飼いはその名前で羊を呼ぶ。
羊飼いは遊牧に行くとき、その先頭を歩き安全を確かめる。羊は、それに従って付いていく。イスラエルの山には、狼がいて羊の隙を狙っているからです。羊は、自身を守る牙も爪も持たない。だから羊飼いに絶対の信頼を持っている。自分の命を預けているのです。
わたし達も世の悪魔から自身を守るものを何も持っていない。悪魔は実に上手に人をだます。時に神のように近づき甘い声で誘惑する。もしあなたが、神の声を聞き分けられなければ、危険である。
主イエスは、あなたの為なら自身の命もおしまない。今日もあなたに向かって、あなたの名前を呼ばれておられる。主イエスについていくなら、あなたも神の家族です。どうか、主イエスの御声が聞き分けられますように・・・・
本日の聖書 ヨハネによる福音書9:38〜39
彼が「主よ、信じます」と言って、ひざまづくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
宣教題 『神を知るとは自分を知ること』 牧師 新保雅雄
生まれついての盲人が、主イエスに癒されて目が見えるようになった。そのことを知ったファリサイ派の人が、真意を確かめる為、癒された人に「どうして見えるようになったのか」と尋ねた。彼は、自分が生まれつきの盲人であること、そして癒されたことの一部始終をお証しする
しかしファリサイ派の人々は、信じようとはせず、彼の両親を呼び出し、同じ事を尋ねた。両親は「彼が生まれつきの盲人であることは知っているが、誰が、どうやって息子を癒したのか分かりません。これ以上のことは、直接本人に聞いてください。」と言ってお証ししなかった。両親は、ユダヤ人社会からの締め出しを恐れていたからである。
ファリサイ派の人々は、再度、癒された盲人を尋問した。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が、罪ある人間だと知っているのだ」圧力をかける。しかし彼はファリサイ派の圧力に屈しない。前回以上に「あの方が、神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と力強くお証しした。
ファリサイ派の人々は「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い彼を外に追い出した。結果的に彼は、ユダ人社会から罪人として追放されていく。しかし彼は、真実を語ることによって、神が見え、神と出会うのです。
社会の中で、主イエスをお証しする生活をおくる時、社会は、あなたを受け入れないかもしれない。その証しのために不利益をこうむったとしたら、それはイエス・キリストに、より近づいたことになるのです。
あなたにイエス・キリストは言われる。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
本日の聖書 ヨハネによる福音書2章9節
「世話役はぶどう酒に変わった味見をした。このぶどう酒がどこからきたのか、水をくんだ召し使い達は知っていたが、世話役は知らなかった」
宣教題 『栄光と信じる力』 牧師 新保雅雄
主イエスは、5人の弟子を選び、ガリラヤから神の国の伝道活動を始められました。途中カナで結婚式に招かれました。この結婚式には、主イエスの母マリアもお手伝いの為にきていました。
当時の結婚式は、一週間近くも宴会が続きます。その間、料理やぶどう酒は、相当な量が必要です。主催者は、充分に用意をしていましたが、宴会途中でぶどう酒が無くなってしまいました。
そこで母マリアが主イエスに「ぶどう酒が無くなりました」と相談しました。主イエス様は、召し使いに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。水は清めに使う水がめに注がれました。
何も知らない世話役が味見をすると、良質のぶどう酒なので、宴会の後半に上等のぶどう酒をだした花婿をほめました。通常は、初めに良いぶどう酒をだして酔いが回った頃に、安物を出すからです。
この奇跡を知っているのは、新郎新婦や世話役でもなくお客様でもない、主イエスから指示され働いた召し使い達です。「このぶどう酒がどこからきたのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」神の祝福は、主イエスの働きをする者達の上に大胆に現されるのです
そして「その栄光を現された。それで弟子達はイエスを信じた。」祝福を頂いた新郎新婦が信じたのではない。そこに招かれた者が信じたのでもない。「弟子達が信じた。」のです。
神様の救いを受ける人は、必ずしも、奇跡を行って貰った人たちだけじゃないのです。「指示され水をくんだ召し使い達」「選ばれ付いて行く弟子達」に神の栄光は現され、信じる力が与えられるのです。