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投稿者 : church 投稿日時: 2012-04-08 16:17:25 (1511 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書20:1 

天使たちは、墓の外にいるマリアに向かって、「なぜ泣いているのか」と尋ねました。すると、マリアは、こう答えたのです。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

宣教題 『永遠の命の旅』   牧師 新保雅雄

イースターの出来事は、日曜日の朝早くに始まりました。まだ夜が明け切っていない暗いうちに、マグダラのマリアは、主イエスが葬られた墓へと向かいました。この墓には、入り口を塞ぐための石が置かれている筈でした。ところが、ある筈の石が、取りのけられていたのです。そして、墓の中に主イエスの遺体はありませんでした。

捜していた主イエスは、墓の外でマリアの後ろに立っていました。しかし、マリアは、それが主イエスだとは分かりませんでした。マリアは、主イエスは十字架にかかり死んでしまい、もはや生きてはいないと思っていたからです。それでマリアは、後ろに立っておられるのが、主イエスだとは分からなかったのです。

そんなマリアに主イエスは、こう言われました。「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」 既に主イエスは、死から復活して、マリアの後ろに立っておられます。しかし、マリアは、死の世界の中に、主イエスを捜しているのです。過去にとどまっているのです

その時、主イエスが、「マリア」と呼び掛けられました。この時、初めて、この声に、マリアは、ようやく主イエスだと分かりました。

ともすると、私たちは、マリアが墓の中に目を向けていたように、過ぎ去った過去にばかり、自分の思いを向けることがあります。

主イエスの十字架の死と復活は、私たちを過去から未来へ、死から生へと招いてくださるのです。人は死で終わるのではない。私達の命の旅は、天の国へと続いているのです。ですからいつまでも過去にとらわれて、クヨクヨしてはいけません。主イエスの復活を信じて、主イエスと共に歩みたい。永遠の命の旅は、まだ始まったばかりです。


投稿者 : church 投稿日時: 2012-04-01 07:04:52 (1668 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書 10章4

自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。

宣教題 『主の御声を聞く』   牧師 新保雅雄

イスラエルでは、「羊の囲い」と言われる共同の羊舎があり、羊飼い達は、夕方になり遊牧が終わると、自分の羊たちを連れて羊舎に入る。そこでは異なる羊飼いの羊達が、一緒になって夜を過ごす。

翌朝、羊飼いが自分の羊たちの名を呼ぶと、その飼い主の羊が彼の後に従って付いて行く。決して他の羊飼いには、ついて行かない。羊は、自分の飼い主の声を聞き分けられるのです。

この羊飼いと羊の関係は、神とわたし達の関係に似ています。神の守りと深い愛の関係。羊飼いが遊牧に出かけるとき、石投げ器を持っていく。イスラエルには、番犬が居ないため、羊を守るのは羊飼いなのです。その為の石投げ器を必ず持っていくのです。

イスラエルの羊は、ほとんどが羊毛に使われます。その為、羊と羊飼いは、一生涯一緒に暮らします。羊は、家畜ではなく家族なのです。だから一匹づつ名前がつけられ、羊飼いはその名前で羊を呼ぶ。

羊飼いは遊牧に行くとき、その先頭を歩き安全を確かめる。羊は、それに従って付いていく。イスラエルの山には、狼がいて羊の隙を狙っているからです。羊は、自身を守る牙も爪も持たない。だから羊飼いに絶対の信頼を持っている。自分の命を預けているのです。

わたし達も世の悪魔から自身を守るものを何も持っていない。悪魔は実に上手に人をだます。時に神のように近づき甘い声で誘惑する。もしあなたが、神の声を聞き分けられなければ、危険である。

主イエスは、あなたの為なら自身の命もおしまない。今日もあなたに向かって、あなたの名前を呼ばれておられる。主イエスについていくなら、あなたも神の家族です。どうか、主イエスの御声が聞き分けられますように・・・・ 


 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-03-25 07:23:48 (1658 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書9:38〜39 

彼が「主よ、信じます」と言って、ひざまづくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

宣教題 『神を知るとは自分を知ること』  牧師 新保雅雄

生まれついての盲人が、主イエスに癒されて目が見えるようになった。そのことを知ったファリサイ派の人が、真意を確かめる為、癒された人に「どうして見えるようになったのか」と尋ねた。彼は、自分が生まれつきの盲人であること、そして癒されたことの一部始終をお証しする

しかしファリサイ派の人々は、信じようとはせず、彼の両親を呼び出し、同じ事を尋ねた。両親は「彼が生まれつきの盲人であることは知っているが、誰が、どうやって息子を癒したのか分かりません。これ以上のことは、直接本人に聞いてください。」と言ってお証ししなかった。両親は、ユダヤ人社会からの締め出しを恐れていたからである。

ファリサイ派の人々は、再度、癒された盲人を尋問した。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が、罪ある人間だと知っているのだ」圧力をかける。しかし彼はファリサイ派の圧力に屈しない。前回以上に「あの方が、神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と力強くお証しした。

ファリサイ派の人々は「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い彼を外に追い出した。結果的に彼は、ユダ人社会から罪人として追放されていく。しかし彼は、真実を語ることによって、神が見え、神と出会うのです。

社会の中で、主イエスをお証しする生活をおくる時、社会は、あなたを受け入れないかもしれない。その証しのために不利益をこうむったとしたら、それはイエス・キリストに、より近づいたことになるのです。

あなたにイエス・キリストは言われる。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」


 


 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-03-11 05:42:15 (1745 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書2章9節 

「世話役はぶどう酒に変わった味見をした。このぶどう酒がどこからきたのか、水をくんだ召し使い達は知っていたが、世話役は知らなかった」

宣教題 『栄光と信じる力』   牧師 新保雅雄

主イエスは、5人の弟子を選び、ガリラヤから神の国の伝道活動を始められました。途中カナで結婚式に招かれました。この結婚式には、主イエスの母マリアもお手伝いの為にきていました。

当時の結婚式は、一週間近くも宴会が続きます。その間、料理やぶどう酒は、相当な量が必要です。主催者は、充分に用意をしていましたが、宴会途中でぶどう酒が無くなってしまいました。

そこで母マリアが主イエスに「ぶどう酒が無くなりました」と相談しました。主イエス様は、召し使いに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。水は清めに使う水がめに注がれました。

何も知らない世話役が味見をすると、良質のぶどう酒なので、宴会の後半に上等のぶどう酒をだした花婿をほめました。通常は、初めに良いぶどう酒をだして酔いが回った頃に、安物を出すからです。

この奇跡を知っているのは、新郎新婦や世話役でもなくお客様でもない、主イエスから指示され働いた召し使い達です。「このぶどう酒がどこからきたのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」神の祝福は、主イエスの働きをする者達の上に大胆に現されるのです

そして「その栄光を現された。それで弟子達はイエスを信じた。」祝福を頂いた新郎新婦が信じたのではない。そこに招かれた者が信じたのでもない。「弟子達が信じた。」のです。

神様の救いを受ける人は、必ずしも、奇跡を行って貰った人たちだけじゃないのです。「指示され水をくんだ召し使い達」「選ばれ付いて行く弟子達」に神の栄光は現され、信じる力が与えられるのです。


 


 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-03-04 05:53:45 (1761 ヒット)

本日の聖書  ヨハネによる福音書4:23

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」

宣教題 「ありのままの告白」   牧師 新保雅雄

主イエスは、弟子達とガリラヤへ向かう途中、サマリアのシカルを通りかかりました。 弟子たちは、食べ物を買うために町に行き、主イエスだけが、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸に一人残りました。

そこへサマリア人女性が、井戸の水をくみに来ました。正午ごろは、一日の内で最も暑い時です。通常は、この暑い時間帯を避け、朝か夕方の涼しい時に井戸の水をくみに来るものです。しかしこの女性は、人のいない時に水をくみに来たのです。つまり彼女には、人目を避けなければならない理由があったのです。

主イエスは、この女性と言葉を交わして、私が誰だか知っているならば、「あなたの方から、私に頼み、私は、あなたに生きた水を与えただろう」「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

サマリアの女性は、主イエスが言われる、生きた水を求めました。すると主イエスは、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。そこで、この女性は、人目を避けなければならない自分の罪深さ、過去に5人の夫がいた。現在も結婚していない男性と同棲している。人目を避ける闇を「ありのまま」に告白したのです。

ここに主イエスの言われる「霊と真理をもって神を礼拝する者」の姿があります。「霊をもって礼拝する」とは、聖霊に導かれて礼拝すること、「真理をもって礼拝する」とは、神の御前に、私たちが「ありのまま」を告白することです。

サマリアの女性が、主イエスに自分自身を「ありのままに告白」したように、神の御前に、私たちが素直になって、正直にありのままの姿をさらけ出すとき、本当の救いが訪れるのです。 


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