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新住所
板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2013-08-11 04:19:54 (1234 ヒット)

本日の聖書 ダニエル書2章44節
「この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。」


宣教題 「すべての王の主」    北村 紀一

私たちは、主の十字架によって、神さまの愛を知りました。私たちが、何かすぐれているから救われているわけではなくて、無に等しいにも関わらず、それでも愛される神様を知って、賛美せずにはいられない者とされたのです。だから、私たちは神様によって生かされていることを忘れてはならないのです。

神さまを忘れたイスラエルはどうなったでしょうか。国は滅ぼされ、枯れた骨のようになりました。しかし、神さまは私たちをほうっておかれる御方ではありません。だから、イスラエルを再び起すわけです。神さまを知ることは、どんな状況にあっても、腐らずに信仰に生きることが、大事だと学ぶことができます。

イスラエルはバビロンに捕囚されました。その中にダニエルたちもいました。しかし、どのような状況の中でもダニエルは主に信頼していました。だから、捕囚の場所でも主を仰ぎ見つつ、誠実に生きたのです。祝福されたダニエルは、信頼されて、バビロンでも、主に信頼し、主に仕えるように誠実に生きました。

今日の箇所は、ネブカドネツァル王の夢を解く話です。王は夢で示されたことが気になって仕方ないので、取り巻きの賢者に夢の説明を求めました。しかし、誰も解き明かしがができません。それで怒ったネブカドネツァル王は、賢者を八つ裂きにして殺すと宣言しました。そんな時でも、主に信頼するダニエルは思慮に満ち、自分を頼りにはせず、主に頼り、友と一体となって主に祈ったのです。

神さまは、ダニエルの祈りを聞かれたので、ダニエルは幻を通して神さまのご計画が示されたことを理解しました。主のご計画によって人の支配が続いた後に、人の支配する世界は滅びて、神さまの支配する国が興るというものです。その支配は永遠です。足元にあった石によって、神の国がはじまるのです。その石は、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石です。」と言われているイエス様によってです。ダニエルに示された夢が、希望となって私たちに成就するのです。
  

神さまの救いのご計画を知った私たちの戦いは、いかなる時も主に信頼し、主の正しい知恵を求めて、共に祈り、誠実に生きることを求め続けることなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-08-04 06:43:30 (1331 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書16章11節
「パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」


宣教題 「パン種に注意しなさい」  牧師 新保雅雄

主イエスは弟子たちに言いました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」。弟子たちは、パンを持ってこなかったことについて、主イエスが怒っているのだと誤解したのです。

弟子たちは、パンのことにばかり気を取られていました。そんな弟子たちに、再度主イエスは、「パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。」と言われました。

人は、何度も主イエスによって助けられ、守られてきたのに、また同じ心配をし、同じ不安に心を騒がしてしまうのです。

「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」とは、神の御子であり救い主である主イエスが来たのに、それが神から遣わされたキリストだとは認めない、という意味があります。

「パン種」とは、現代のようにイースト菌というような便利なものがなかった時代に、パンを発酵させるためのものです。パンを作ったときに生地の一部取っておき、次にパンを造るときに混ぜて発酵させる。

パン粉にわずかなパン種を混ぜると、それが発酵してパン生地が大きくふくらみます。このことから、わずかな量が混ぜられても、その後大きく全く違ったものになってしまうのです。
 
ファリサイ派とサドカイ派の人々は、主イエスをキリスト、救い主として認めない。これは今は小さなことかもしれない。しかしそれが人生を大きく変えてしまうのです。まったくつまらない人生になってしまうのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-07-28 06:47:22 (1387 ヒット)

本日の聖書 エゼキエル書37章1〜3a節
主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それが甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」

宣教題 「枯れた骨が生き返る」   北村 紀一

神様がエゼキエルをこの枯れた骨の谷に導いたのは、1つの問いを投げかけるためでした。『これらの骨は生き返ることができるか』と言う問いです。

命の気配さえ全く感じない、枯れた骨の山が、もう一度生き返り、生き生きした命を再び得ることができるのか、絶望に覆われているこの谷で、人々が笑ったり、喜んだり、愛し合ったり、語り合ったり、命溢れる声が、もう一度響くことはあるのか、エゼキエルは神様からそういう問いかけを受けたのです。

私たちは、この問いにどう答えるのでしょうか。「そんなことはあるはずがない、無理でしょ、まして枯れた骨が再び命を得て生き返るなんてあり得ない」、私たちの知識や、常識や、経験から導き出される答えは、そんな感じです。

しかし、神様からの問いかけに対するエゼキエルの答えは違っていました。彼は、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えたのです。

「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えたエゼキエルに、神様は「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい」とおっしゃいました。エゼキエルは、神さまに言われた通り、枯れた骨の群れに向って、「おまえたちは生き返る」と伝えました。彼の言葉を聞いている者など一人もいない、枯れた骨だけがころがっているこの谷は、まったく聴く耳がないし、反応もない。それは、壁に向って語りかけるような、まことに虚しいことのように思います。

けれども、その虚しさに耐えてみ言葉を語っていると、命のかけらもまったくない死と絶望に支配されていたはずのこの谷に、不思議なことが起ったのです。
   

私たちも、「枯れた骨」の時があります。それでも主が見捨てずにいてくださるのです。主は私たちに愛を注ぎ、いつも語りかけてくださいます。だから主にこそ心を向け、主に信頼しましょう。人間の知識や常識では、とうてい考えることも期待することもできない枯れた骨の復活は、主によって体験できるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-07-21 06:15:46 (1433 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書16章1〜4節
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」


宣教題 「天からのしるし」   牧師 新保雅雄 

ファリサイ派とサドカイ派は、ユダヤ教を代表する宗教指導者たちです。お互いに聖書の解釈に違いがあり、普段は仲が悪く対立していました。しかし、ここではお互い協力しあって、主イエスを試そうとして「天からのしるしを見せてほしい」と問いかけています。天からのしるしとは、主イエスが神から遣わされた証拠のことです

ここに来るまで主イエスは、5千人の人の空腹を満たし、また体の不自由な人や病気で苦しむ人、悪靈に憑かれた人を癒してきました。この奇跡が主イエスが天から遣わされた、しるしなのです。

しかし彼らからすれば、どんな奇跡を見せられても、それは天からのしるしとは認めたくないでしょう。それどころか益々、主イエスを落とし込める口実を探すでしょう。そして彼らは言うでしょう。何々をしたら、しるし、証拠を見せたら神の子と認めてやろう。

私たちも彼らと同じようなことを、主イエスに対して思っていないでしょうか。私の願い事を叶えて欲しい。叶えられたら神と心から信じられる。すなわち神かどうかは、私が判断する。どこかで私たちも「天からのしるし」を求める人になっていないでしょうか。

そんな人たちに主イエスは言われました。あなた達は、明日の天気が見分けられるのに、どうして私が神から遣わされたしるしであることが見分けられないのか。私自身が神から遣わされた。わたしが行う奇跡、私の語る言葉の中にこそ、神のしるしがあるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-07-14 06:12:51 (1470 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書15章32〜33節


宣教題「恵みを忘れる弟子達」  牧師 新保雅雄 

今朝の聖書個所、少し前に宣教を聞いたように思います。14章13節「5千人に食べ物を与える」という同じような出来事がありました。そしてまた同じような出来事が起きる。何故でしょうか。

主イエスは言われました「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」相談を受けた弟子は、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」と答えました。

その時、気がつくのです。少し前に五千人の人々の空腹を満たしたことを弟子は忘れてしまったんでしょうか? 五つのパンと二匹の魚しかなかった時(14章)、主イエスの御手を通る時に奇跡がおこり、大勢の群衆の空腹を満たしたのです。

私たちも、この時の弟子たちのように、主イエスによって祝福をいただき、恵と救いを経験したのに、大きな奇跡も経験したのに、御言葉に感動し涙を流したこともあるのに。しかし、また同じような困難に出会ったとき、その恵の経験を忘れてしまう。そして悩みの中に落ち込んでいく。

私たちは、主イエスに頼り、信頼することを、何度も何度も忘れてしまうのです。しかし主イエスは、弟子たちを非難しませんでした。神様の恵みを忘れてしまう、不信仰な弟子たちであるが、主イエスは決して見捨てませんでした。そして、前回と同じように、感謝の祈りをして、人々を再び満たしたのです。ここに神様の大きな愛があります。


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