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新住所
板橋区仲町23−17
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中板橋駅徒歩12分
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2012-12-16 06:28:17 (1462 ヒット)

本日の聖書 ルカによる福音書2:6,7

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み。布にくるんで飼い葉桶に寝かした。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」


宣教題 「あなたの心に主は来られる」  牧師 新保雅雄

救い主イエス・キリストは、生まれてすぐに、布にくるまれで飼い葉桶に寝かせられました。飼い葉桶とは、家畜の馬や牛のえさ箱のことです。くさく、寒く、不潔な場所です。決して、生まれたばかりの赤ん坊にとって、祝福を受ける場所ではありません。

神の子なら豪華な神殿で、やわらかい毛布に包まれて生まれる。しかし、御子イエス・キリストは、飼い葉桶の中に生まれた。なぜなら「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。

当時、ユダヤの人々は、住民登録をせよというローマ皇帝の命令によって、それぞれ自分の属する町へ帰って行きました。マリアも夫のヨセフと共に、ベツレヘムの町へ向かったのです。

ところが、ベツレヘムの町の宿屋は、何処も一杯で、マリアたちが泊まる場所は、ありませんでした。誰も、自分の場所を、主イエスに用意することが出来ませんでした。

そのため、マリアは、仕方なく家畜小屋で子どもを産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。マリアにとって、これは、初めての出産だったのです。それが家畜小屋から始まるのです。

今夕、私たちは、御子イエスの泊まる場所を、用意しているでしょうか。御子イエスのために、お迎えできる場所を用意している。と胸を張って言うことが出来るのでしょうか。

私達は、あまりにも世のことに心とられ、自分のことだけで精いっぱいで、神の恵みさえも見えなくなっている。2千年前のイブの夜も「マリアたちの泊まる場所がなかった」 どうか今宵、静かなイブの中で改めて自分自身を省みてください。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-12-09 06:34:17 (1183 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12:34

「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」


宣教題 「言葉はあなたの心を現す」   牧師 新保雅雄

主イエスは、悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人を癒されました。しかしファリサイ派の人々は、その癒された出来事を、主イエスが悪魔に連なるものであるかのように言い立てたのです。

なぜファリサイ派の人々は、ハンディを持った人が癒されたのに、それをすなおに認めることは出来ないのでしょうか。主イエスが、どんなにいい出来事を起したとしても、あらを見つけようとするでしょう。なぜならファリサイ派の人々の心には、主イエスに対する殺意があったからです。心の中にあるのもが言葉となって口から出たのです。

主イエスは、いわれました。「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」と言われたのです。木というのは、心のことであり、実というのは、言葉のことを指しています。

つまり、「心が良ければ、その口から出て来る言葉も良いし、心が悪ければ、その口から出て来る言葉も悪い。心の良し悪しは、その語る言葉で分かる。」と言われているのです。 

果たして、私たちの心には、何があるのでしょうか。「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和 」な心でしょうか。(ガラテヤ5:22)それとも、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」な心でしょうか。(同5:20)

「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」改めて、言葉の重みを考えさせられます。言葉をいくら着飾ったとしても、メッキはすぐ剥げてきます。まず心を神に開くことです。そして内から変えていただくことです。心が美しいならば、見える外側も魅力ある人になるでしょう。そのためには、大胆に神へ心を開いてください。開くとは、本当のあなたを正直に告白することです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-12-02 07:03:02 (1448 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12:20、21

「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」


宣教題  「主に望みをかける」    牧師 新保雅雄

主イエスは、ファリサイ派の人々が、自分に殺意を抱いたことを知ると、争いを避けるように、その場を立ち去られました。ファリサイ派の人々との論争に時を使うよりも、傷付き苦しんでいる人々を救うことにこそ、時を用いようとされたのです。

そんな主イエスの後を追うように、大勢の群衆が付いて行きました。すると、主イエスは、彼らに病気を癒したことを言い触らさないように、と口止めされたのです。

主イエスは、以前にも重い皮膚病の人を癒された時に「だれにも話さないように気をつけなさい」(8:4)と口止めされたのです。

主イエスは有名になりたい訳でも、人から、ほめられ尊敬されたいわけでもありません。ただ、ひたすら、苦しむ人々を救うことに専念されたいのです。だからこそ、御自分のことを言い触らさないようにと、口止めされたのです。

また、人々の病を癒す奇跡だけが、主イエスに託された務めでは、ありません。むしろ、神に背き、神を忘れ、自分の都合ばかりを優先する人々に、神がおられること、そして神は一人一人を愛しておられることを伝え、一人でも多くの人が、神に立ち帰るようになることこそが、神から主イエスに託された最も大きな務めでした。

だからこそ、主イエスは、「人を癒す奇跡を行う人」というイメージだけが、先行して一人歩きすることを避けるために、御自分のことを言い触らさないようにと戒められたのでした。

マタイによる福音書は、このような主イエスへの希望を、預言者イザヤの言葉(イザヤ書42章1〜4節)を引用して明らかにしています。(マタイ12章18〜21節


 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-11-25 06:16:11 (1429 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12:7

もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。


宣教題 「裁きではなく憐れみの心を」   牧師 新保雅雄

安息日に、主イエスと弟子たちは、麦畑を通られました。その時、空腹であったので、麦の穂を摘んで食べました。その様子を見ていたファリサイ派の人々は「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と主イエスを批判しました。

ファリサイ派の人々は、麦の穂を摘むことは「収穫という労働」になるので、安息日には禁じられているというのです。対して主イエスは、こう言われました。かつてダビデ王が、自分も供の者たちも空腹であった時に、祭司のほかには食べてはならない、供えのパンを食べたこと、さらに安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないではないか。

主イエスの弟子たちは、祭司が神殿に仕えるように、キリストに仕え福音に生きる人々に救いをもたらせるのであるから、祭司に認められていることが、弟子たちにも認められて当然であるという。

さらに「わたしが求めるものは憐れみであって、いけにえではない」あなた方ファリサイ派の人々が、主イエスの弟子たちを非難するのは、憐れみの心が無いからだと言われました。

時に、信仰への熱心さ、真面目さから、原理原則論が信仰のすべてであるような、信仰とはこうあるべきだ。このことが弱い者を非難していくということにつながっていく。教会が弱い人への優しさや配慮を失い、憐れみを捨て、人を裁くことに熱心になっていく。

勿論、原理原則は重要です。しかし、白か黒かで人を縛るのではなく、出来ない人を受け入れることが大切なのです。世間で落ちこぼれて宗教の門をたたいたのに、そこでも落ちこぼれていく人は、いったい何に、すがればいいのでしょうか。少なくとも落ちこぼれを非難するのが宗教ではないはずです。


投稿者 : church 投稿日時: 2012-11-18 06:39:04 (1633 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書11:28〜30

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


宣教題 「休ませてあげよう」   牧師 新保雅雄

私たちは人生を生きる中で、疲れて何も出来そうにないときがあります。こんなに一生懸命に努力しているのに「こんな筈ではなかった、どこで間違えたのか」と、思わず愚痴りたくなる時があります。

いつも時間に追われ、仕事にも追い掛け回され、また家庭に帰っても沢山の問題が、私たちの背中に覆いかぶさって来るようです。口から出て来る言葉が、「疲れた」とか、「休みたい」という言葉ばかりであることに気が付く。ここから逃げ出したい、そう思う。

そんな私たちに主イエスは、言われる、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」では主イエスは、どのようにして私たちを休ませ、重荷を取り除いてくださるのでしょうか? 29節「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われる

「軛」とは、牛の首にあてる木です。この軛を引いて荷物を引かせたり、土を耕したりするのです。つまり、牛の自由を奪い働かせるための道具です。私たちも「この世の軛」を首に掛けられて自由を奪われているから、苦しんだり、悩んだり、心が疲れたり、重荷を負ったりするのです。「休む」とは、そういうこの世の重荷という「軛」が、なくなること、自由になることが休まることなのです。

しかし主イエスは、この世の軛の代わりに、私の軛を首にかけなさいと言われます。軛がなくなるのではなく、新たに主イエスの軛を追いなさいとは、何なのでしょうか? それが十字架の愛なのです。あなたを世の束縛から解放するために、主イエスは十字架にかかり、あなたに自由を与えてくださるのです。軛という愛なのです。

 どうか人生に疲れ一杯ゞになったら、主イエスのもとへ。

 


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