本日の聖書 ゼカリヤ書9章9〜10節
「シオンの娘よ。大いに踊れ。娘エルサレムの娘よ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられる者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子である子ろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」
宣教題 「まことの王さまはろばに乗って」 北村紀一
この聖書の預言は成就しました。救い主であるまことの王が来られたわけですが、その王は「ろば」に乗ってくると言うのです。でも、なぜ見栄えのいい馬ではなく、「ろば」なのでしょうか。
ろばは、主に乗り物・荷物運びとして用いられ、身近で親しまれている温厚な動物です。ちなみに馬には「競馬」とか「馬力」という言葉があるように、「速さ」や「力」の象徴というイメージがあります。つまり、ゼカリヤの預言は、意外なことだけど、やがて来る王(救い主)は、軍事力のような力で抑圧する、力で支配するお方ではなくて、平和の象徴である「ろば」に乗って「神さまの愛」をともなってきて下さるお方だ、ということを意味しています。
当時は、力ある王たちが、馬に乗って登場しては、いつしか別の力ある王によって滅ぼされるということが繰り返されてきました。結局その戦いの狭間にあって、弱者は踏みつけられるということに変わりありませんでした。そんな力の支配には救いはないのです。それでも、救いにならない力に頼ろうとすることを繰り返すのが私たちの姿として浮き彫りになっています。
だからイエス様が、ろばでエルサレムに入場したとき、民衆は「ホサナ、地には平和、神に栄光」と、賛美したのに、イエス様の進む道が「十字架の道」であることがわかると多くの人が幻滅し、自分の弱さを受け容れられずに、イエス様を十字架につけろと叫ぶわけです。
だからこそイエス様は、力ではなく愛によって生きる十字架の道を示されました。本当の平和をもたらすために、ろばにのって来られたのです。救いは神さまにしかありません。神さまが与えてくださった本当の救い主、ろばに乗って来られた救い主を心に迎え入れましょう。そうすることで、一人一人が大事な存在として、本当の生きる意味と価値を見出し、満ち足りたいのちを生きる状態へと戻されるのです。
そして、まことの平和は現実の只中で成就します。それは、あなた自身の弱さや不完全さに向き合うことの中にこそ、他者の弱さや不完全さを赦そうとする営みの中にこそ、イエスさまは、ろばに乗って来て下さるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書18章21、22
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
宣教題 『主はなぜ赦すのか』 牧師 新保雅雄
ペトロは、主イエスに尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
対して主イエスの答えは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」それは驚くべき答えでした。
「七の七十倍」とは、実に490回です。主イエスは、「490回」という回数のことを言われたのではありません。これは「無限に」赦すということを言われています。ここで注意したいのは、七の七十倍という回数、過ちを犯した人を何度も赦すという、回数の多さを教えている、たとえ話ではないということです。
ここで大切なことは、「何回まで赦すのか」ということではなく、「なぜ赦すのか」ということが重要なのです。そのことを教えるために、主イエスは、ある王様が、家来たちに貸していたお金の決済をしようとした。というたとえ話をされました。
「ある王が」家来たちに貸したお金の決済をしようとした。ある家来は1万タラントンの借金をしていた。しかし王は「あわれに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」のです。
この借金を帳消しにされた家来は、今度は自分が百デナリオンを貸している仲間に出会いました。その仲間は「どうか待ってくれ、返すから」とひれ伏し願いました。ところがこの家来は、この仲間を牢に入れてしまったのです。
そのことを知った王は、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなったか。」と大変怒った。そして免除した彼の負債を帳消しにして、彼が借金を返済するまで牢役人に引き渡してしまった。私たちも赦された者なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書18章18〜20節
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
宣教題 「心を一つにする」 牧師 新保雅雄
私達は「神は、どんな願いでも聞いて下さるのだろうか?」と、そちらのほうばかりに思いが向いてしまう。しかし今朝の御言葉に「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」という前提が付いていることを、忘れないようにして下さい。
この「心を一つにする」という言葉は、ギリシャ語では「シュンフォーノー」という動詞です。これは「音と音が調和して共に鳴ること共鳴」という意味です。特に楽器の演奏で、それぞれの楽器が調和して一つの音楽を作ることを言います。そしてこれが英語ではシンフォニー、「交響曲」という言葉になるのです。
交響曲は、バイオリンやチェロなどの弦楽器や、フルートやトランペット、クラリネットやホルンなど木管楽器、金管楽器、そして打楽器など、実にたくさんの様々な楽器によって成り立っています。
それぞれの楽器が、それぞれ勝手に音を出したり勝手なリズムで演奏したりすれば、それはうるさいだけの騒音です。しかし指揮者のもとで演奏されたとき、それは一つの美しい音楽となります。
主イエスが「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」と言われたとき、それは「シンフォニー」なのです。私達は、心を一つにして祈り合っているでしょうか。教会が「心を一つにして」、まさにオーケストラがシンフォニーを奏でるように調和し共鳴して、神に向かって祈っているでしょうか。まさに教会の祈りについて言われています。
本日の聖書 マタイによる福音書18章15節
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」
宣教題 「1人1人がキリストの体」 牧師 新保雅雄
今朝の聖書の御言葉には「教会」という言葉が出てきます。つまり、「教会」の中で起きる出来事であるということです。そして教会の中でも「罪を犯す」ということが起きるのです。
なぜならば、教会は主イエスによって「罪を赦された人」の集まりであって、「罪を犯さなくなった人」の集まりではありません。完全な人の集まりではなく「赦された罪人」の集まりです。
ですから教会の中でも問題が起こってきます。私たちは肉の体を持つ以上、罪を犯さなくなったのではありません。だから、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という事が起きるのです。
そんなわたし達に主イエスは、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と言われる。世では普通そんなことをしません。しかし主イエスは、そのように言われるのです。これはいったいなぜでしょうか?
人は自分の立場というものがある。どんなに自分が間違っていると思っても、見栄や体裁のために素直に、謝れないときがある。更に、皆の前で罪を指摘されたら、誰だって意固地になるでしょう。
だから主イエスは、「行って二人だけの所で忠告しなさい」と教えられるのです。教会員みんなの前で忠告しない。相手を切り捨てるのではなく得るためです。心を開き過ちに気がつくように。
主イエスが続けて「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言われる。すなわち、本当の兄弟姉妹になるということです。1人1人がキリストの体である。
本日の聖書 コヘレトの言葉3章1〜11節
「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時/保つ時、放つ時、裂く時、縫う時/黙する時、語る時、愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
宣教題 「すべてのことに時がある」 北村 紀一
コヘレトは、それぞれのことにはそれぞれの時が定められており、すべてのことは、「時」というものに支配されていると言います。時が来なければ種をまいても実らないし、時が来なければ花を咲かせることもありません。
私たちが生きる上で、豊かに充実して生きるためには「その時」を知る必要があります。「定められた時」は実に「神の時」であり、それを知ることは「人の子の務め」(10節)なのです。しかし、それを見極めても、なお、人はその時のすべてを知ることはできないけれども、人には「永遠を思う心」(信仰)が与えられており、「神はすべてを時宜にかなうようにされている」のです(11節)。
では私たちは、「神の時」を知るものとして生きるにはどうすればよいのでしょうか。それは、「喜び楽しんで一生を送ること」だとコヘレトは言います。これは、神さまを思わないで好き勝手にすることとは違って、神さまの支配の中にあることを認識した上で、神さまに信頼して、神さまに感謝して生きる時に、目が開かれて神さまの恵みの中に生かされている喜びを知ることができるのです。自分の無力と神さまの永遠を知る時でもあります。
さらに、ここで興味深いのは、その楽しみは労苦の反対側にあるのではなく、労苦の中にこそあって、労苦によって得られるものだと言うことです。これが、コヘレトが伝える「信仰の知恵」です。
そして、それは「神を畏れ敬う」(14節)ことから生まれてくる、と言います。それが、「定められた時」を生きる人間の定めだというのです。私たちは「神の時」を見る証人として、労苦を喜び、主にこそより頼むべき者として、神が与えてくださる祝福・恵みの中で生きていきたいものです。