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投稿者 : church 投稿日時: 2013-04-07 07:08:27 (1653 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章47節

天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」


宣教題 「神は、全ての魚を集める」  牧師 新保雅雄     

きょうのたとえ話は、「天の国は次のようにたとえられる」ということで始まり、海に網が打たれるたとえになっています。

47節「いろいろな魚を集める」、ここは原文では「いろいろな魚」ではなくて、「すべての種類の魚」となっているのです。そこに天の国、神様の世界、神様の救いの世界のすばらしさが、あらわれているのです。

海に網が投げられる。その網の中に入っていた魚とは、神の網によってとらえられ、教会へと導かれた人々のことを指しています。そして、その網の中には、すべての種類の魚が入っていたのです。

教会にもいろいろな人が導かれます。世間の人から見れば、「教会とは、聖人君主のような、真面目で善人な、心の清らかな人の集まりだ。」と思っている人がいます。そう思う人が教会に来て、がっかりする場合が時々あります。「なんだ教会も世間と同じですね。」というのです。

主イエスが言われるように、この網は、「あらゆる種類の魚」が捕らえられているのです。伝道とは神の行う業です。ですから、神様がいろいろな人々をとらえてくるのです。神様は、「この人は教会にとって大切だから捕まえて網の中に入れよう。」「この人は教会にふさわしくないから、網の中に入れない。」などと人を選んでいません。差別しないのです。すべての人に網をかけ、導こうとされているのです。

ですから教会にも、この世と同じように、あらゆる種類の人がいるのです。全ての人が導かれてくるのです。だから、教会は清廉潔白、聖人君主の集まりではありません。そういう意味では、世間と同じです。だから「こんな私でも救われる」のです。

今日あなたは神の網によって導かれました。是非、主イエスの恵みのすばらしさを信仰によって体験してください。




 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-31 06:51:52 (1620 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書20:1

「天使たちは、墓の外にいるマリアに向かって、「なぜ泣いているのか」と尋ねました。すると、マリアは、こう答えたのです。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」


宣教題 『死から生へ』     牧師 新保 雅雄               

イースターは、日曜日の朝早くに始まりました。この日、まだ夜が明け切っていない暗いうちに、マグダラのマリアは、主イエスが葬られた墓へと向かったのです。この墓には、入り口を塞ぐための石が置かれている筈でした。ところが、ある筈の石が、動かされていました。そして、墓の中に主イエスの遺体はありませんでした。

マリアは主イエスを捜しました。何と主イエスは墓の外で、マリアの後ろに立っていました。しかしマリアは、それが主イエスだとは分かりませんでした。マリアは、既に主イエスは死んでいて、もはや生きてはいないと思い込んでいました。それで、マリアは、後ろに立っておられるのが、主イエスだとは分からなかったのです。

そんなマリアに、主イエスは、声をかけられました。 「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 既に、主イエスは死から復活して、マリアの後ろに立っておられます。しかし、マリアは、死の世界の中に、主イエスを捜していたのです。過去の中に、主イエスを捜そうとしているのです。

その時、主イエスが、「マリア」と呼び掛けられました。この時、この声にマリアは、生きておられる主イエスを見つけたのです。

ともすると、私たちは、マリアが墓の方向ばかりを見ていたように、過ぎ去った時にばかり、自分の思いを向けがちになることがあります。

しかし、主イエスは、私たちを、過去から未来、死から生へと招いてくださるのです。人が死で終わることなく、天の国へと続く道を、主イエスと共に歩むようにと、復活の中から、私たちを招いてくださるのです。




 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-24 03:53:17 (1386 ヒット)

本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章4節

「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」


宣教題 「十字架によって」  北村紀一               

  十字架とは、犯罪人を磔にして死刑にするための道具です。そんな絶望的で恐ろしいもの、目をそむけたくなるもの、縁起でもないものを、キリスト教会は一番大事な「救い」の象徴にしています。

この十字架によってつまづく人は、そんな縁起の悪いものを象徴にしていること自体がありえないのです。だから、そんな十字架にかけられたイエス様が救い主だとは考えられないわけです。それゆえ十字架上のイエス様を平気で馬鹿にし、罵り、辱めます。

イエス様は、目の見えない人の目を開け、孤独な人の友となり、分け隔てなく、どの人も神さまにとって大事な存在である一人の人として関わられました。イエス様にふれた人は、本物の愛にふれて、人間らしい心を取り戻していきました。

しかし、自分の思い通りにいかないとダメな人によって、捕えられ、不公平な裁判にかけられ、ムチ打たれ、十字架にかけられて殺されてしまったのです。それでも、イエス様は十字架上で、「父よ、この人たちを赦してください。何をしているのかわからないのです。」と、御自身を十字架にかける者の為に祈るのです。

イエス様にふれた人は、自分こそ十字架にかからなければならない者であることを知るのですが、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」ペトロの手紙一2:24と言われているように、イエス様が自分の身代わりとなって十字架にかかられたことを知るのです。これが十字架の意味です。

私たちは、こんな自分のために犠牲になってくれる人(救い主)がいることで、本当の愛を知るのです。十字架は絶望(暗闇)を希望(光)に変えられ、目線が変えられ、生き方が変えられ、本当に頼るべき御方を知って、共に生きる者へと変えられるのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-17 06:23:37 (1647 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章44〜46節

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。" 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

宣教題 「全てを献げる」              

ここには二つの天の国の例えが語られている。最初の天の国は「畑に隠された宝のようなものだ」です。畑で宝を発見した最初の人は、それを全部自分のものとしようとする。それで、宝を再び土の中に埋め戻し、何食わぬ顔して一旦帰る。その後、自分の財産をすべて処分して、その畑ごとそっくり買ってしまう。

次の天の国は「良い真珠を捜している商人のようなものだ」です。この真珠の商人は、良い真珠を探し歩いていました。そしてついに最高の真珠を見つけたのです。そこで彼は、持ち物を全て売り払って、その最高の真珠を買ったのです。

両方に共通しているのは、「全財産を売り払って買う」ということです。「天の国」とは、そのようなものであると主イエスは言われています。天の国とは、イエス・キリストのことを言われています。

イエス・キリストの愛を知るとき、あの社会という大きな畑のような所で、宝物を見つけた時のように、あの商人が最高の真珠を見つけた時のように、今あるものを、全て捨て去ってでも手に入れたい。

そんな祝福の、何ものにも代え難い天の国、イエス・キリストの愛。

信仰というのは「差し出す」ことではなく、「いただく」ことであると思っていないでしょうか。私たちが主イエスを信じるとき、私というものを神様にお献げすることから始まるのです。

つまり「自己を捨てる」ことなのです。私を献げること、信頼して委ねること、天の国とは、この信頼関係で出来上がっているのです。


 




 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-03 07:19:31 (1518 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書 13章29節

主人は言った「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」


宣教題  「あなたは大切な一本の麦」             

畑に良い種が蒔かれました。その夜、闇に紛れて悪魔がやってきて、毒麦の種を蒔いていきました。時が立ち、両方とも成長する。やがて穂がつき始める。そこで初めて、毒麦が混ざって生えていたことに気がつく。農夫達は、大変だ、すぐ抜かなくてはならない。世の常識で考えれば、毒麦が生えている、と分かった時点で抜きとるでしょう。

「毒麦」、これを食べると食中毒をおこす恐ろしいものです。当時は、死ぬ者もいたことでしょう。農夫は、主人に言います。「今すぐに毒麦を抜きに行きましょうか」。ところが、この主人は、「毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜くかもしれない。だから毒麦を抜かないで、そのままにしておきなさい。」こう言うのです。

この「主人」とは、神様のことです。なぜこの主人は、毒麦だと分かった時点で、毒麦を抜かないのでしょうか? 早く抜かなければ、他の良い麦の生長にも悪い影響を与えます。それに毒のある麦ですから、わかった時点で、早く引き抜かなければなりません。しかし神様は、抜かないで、刈り入れのときまで、そのままにしておけと言うのです。

ここに「神様の愛」があります。毒麦を抜くときに、間違って良い麦も一緒に抜かれてしまうかもしれない。たった1本の麦さえも、誤って抜かれてしまうことがあってはならない。私たち一人一人は、神さまにとって、大切な1本の良い麦なのです。しかし農夫は、良い麦を守るには、多少の犠牲があっても、今のうちに抜いてしまおう。そう思ったのです。

1本でも間違って抜くことがないように。待ってくださる神の愛。今私たちには、困難や試練もあるかもしれない。あるいは毒麦に毒されているかもしれない。しかし、愛されているのです。神さまは、確かに愛する良い種を蒔かれたのです。そのことを信じてください。その時が来れば、あなたは必ず神の御国へと救われます。

 


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