本日の聖書 ヨハネの黙示録1章9〜20節
「あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」20節
宣教題 「与えられた使命」 北村 紀一
ヨハネは、イエス様こそ救い主であると証したことでパトモス島に流刑の身となりました。誰が見ても絶望的な状況です。しかし、神様の恵みは、どこであっても豊かに注がれています。神様がいるところは天国なのです。
イエス様を信じる人は、暗闇の只中に光を見ます。神さまの光はどこにでも注がれます。つらい状態にあるヨハネに、起こったこと、見たことを巻物に書き記して7つの教会に送るように言われました。ヨハネが見たことは、栄光の主が、七つの星である私たちクリスチャンと七つの金の燭台に象徴された教会を、右の手に握っておられることです。
「神様の右手」は「神様の支配と権威」を表すことばとして旧約聖書の詩編などで用いられています。イエス様の右の手に私たちが握りしめられていると言うのは、神様の支配と権威の中で私たちは守られ、そして導かれていることを表しています。私たちは、イエス様の右の手にしっかり握られているのです。
続いて、「七つの星と七つの金の燭台」から、「私たちの役割」について学ぶことができます。星も燭台(ロウソク立て)も昼間は役に立ちません。昼は星を見ることが出来ませんし、明るいところでロウソクに火を灯す人もいません。しかし、暗くなると星は輝きを増していきます。ロウソクも昼ではなく暗いところに必要な物です。暗ければ暗いほど、明るい光が必要です。
私たち一人ひとりと教会の役割も同じです。暗闇を照らす光として用いられます。平和で明るい世界では、光の存在は目立たないかも知れません。しかし、闇が来るとイエス様によって、教会が暗闇の中で輝き出すのです。絶望で覆われていたとしても、イエス様を信じる人は、ヨハネのように命と希望の光は消えません。なぜなら、主の右の手は、私たちを離さないからです。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ヨハネによる福音書16章33節
本日の聖書 マタイによる福音書20章31〜34節
群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
宣教題 「何をしてほしいのか」 牧師 新保雅雄
道ばたに座っていた二人の盲人が、突然叫び声を挙げました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください!」二人の盲人は、今、目の前を主イエスが通りかかろうとしているのを知った。
この時を逃してはならない、絶対に主イエスに会いたい、弟子たちが制止しようが、「なんとしてでも主イエスにお会いしたい」必死に神を求める思いがわき上がり、それが叫び声となったのです。
主イエスは立ち止まり、彼らに言われた。「何をしてほしいのか」彼らは叫んだ「主よ、目を開けていただきたいのです!」二人は金品を欲したのではない。神でなければ出来ないことを求めました。
彼らは、目が見えないことによって、どんなに苦労を重ねてきたことでしょうか。目が見えない為に、毎日道ばたに座って、通りすがりの人に物乞いをして、生きて行かなければならなかった。人からの憐れみは今日を生きる生活費です。しかし神の憐れみは、御国へ続く生きる命、明日への希望です。
主イエスは、彼らを深く憐れみました。そして二人の目に触れられた。すると二人は、目が見えるようになりました。主イエスが、二人の病、重荷を代わりに負ってくださったのです。
主イエスは、いつも私たちの心の扉をたたいておられます。しかし気がつかないのです。私たちはあまりにも、この世のことに、とらわれてしまっているからです。教会で心落ち着かせて、神の御声を聞いて見て下さい。兄姉に平安がありますように、お祈り致します。
本日の聖書 ヨハネによる福音書8章1〜11節
イエスはオリーブ山へ行かれた。 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
宣教題 「わたしもあなたを罪に定めない」 北村 紀一
イエス様は、あなたの罪を赦すために十字架に架かられました。私たちの過去も現在もこれからも起こすであろう罪をすべて負ってくださったのです。そのことによって、わたしたちは、神様に赦されているのです。感謝しても、しきれないほどの恵みです。
罪を犯して幸せな人は一人もいません。罪を犯すとき、一番傷ついているのは自分自身であり、さらに周りの人をも巻き込んで苦しみが増すわけです。姦通とは、夫婦の関係を裏切り、信頼関係を裏切ることです。これは幸せでしょうか。そのように罪は自分自身の心も、相手の心も深く傷つけてしまいます。ところが罪のない人は一人もいません。それで、イエス様に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われたとき、自分はその女性となんら変わらない罪人であることに気付かされます。
「幸せ」とは、神様に信頼して生きること。神様の愛を知り、神様を愛し、自分を愛し、人を愛して、共に生きることです。「幸せ」という目的に向かうことが一番幸せな生き方です。それを忘れると、「ゆるすか、ゆるさないか」だけに焦点があたり、「幸せ」という目的が見えなくなります。神様と人との関係を壊すこと、それが罪なのです。だから私たちは、「幸せ」という目的に向かうための「ゆるし」が必要です。イエス様は、神様と人との関係を修復するために十字架を背負い、あなたの罪は赦されている、と教えてくださったのです。
「ゆるす」ということは、あなたと一緒にいるということ。神様はわたしたちと一緒にいるために、わたしたちを「ゆるす」のです。インマヌエルとは、神様が一緒にいてくださるということです。人を裁くとは、切り捨てること。石を投げることは、あなたにいなくなってほしいと切り捨てることです。「裁き」は関係を切り捨てるけど、「赦し」は関係を繋ぎます。神様はわたしたちと共にいてくださる。イエス様の十字架によって、あなたの罪は赦されている。ゆえに「わたしもあなたを罪に定めない」とイエス様は言われるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書20章26〜28節
しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。
宣教題 「いつも仕える心でいなさい」 牧師 新保雅雄
「ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスさまのところに来て、ひれ伏して、何かを願おうとした」20節。
ヤコブとヨハネ兄弟の母、そしてヤコブとヨハネ本人、さらには他の弟子たちも、主イエスが高い地位につかれる。キリストとして、ローマ帝国からの解放と独立、そして世界を治めるような支配者になられると信じていることが、この聖句からうかがえます。
そして、自分たちはそういう偉大な主イエスの側近であるのだと思っているのです。つまり、「主イエスが偉い地位、王座に着いたときには、自分たちもそれと並ぶ地位につくことができる。偉い人になれる。あやかれる。」そう思っていたということです。
人は、偉くなりたい、認められたい、人々の上に立ち自分の思い通りに動せる地位につきたい。そういう思いが弟子たちにありました。そして、ヤコブとヨハネの母が、主イエスに息子達のことを頼みました。そのことを知った他の弟子たちは、腹を立てたのです。
そんな弟子たちに主イエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」 と言われました。
「偉くなりたいのなら、しばらく辛抱して、人々に仕えなさい。修行しなさい。そうすれば偉くなれる。」そういうことではありません。「偉くなりたいと思うなら、偉くなりたいという思いを捨て、一心に仕えなさい。そうすれば神が祝福される」ということです。
つまり偉くなりたいなら「偉くなりたい」という思いを捨てること。それは主イエス自身が歩まれた十字架の死で現されます。
本日の聖書 マタイによる福音書20章7〜11節
彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。
宣教題 『あなたも、ぶどう園に行きなさい』 牧師 新保雅雄
このたとえ話を読んで、あなたは、この中の誰でしょうか?
朝一番に雇われた人、午前9時に雇われた人、あるいは昼の12時、午後の3時、それとも、夕方5時になって雇われて、1時間しか働かなかった人、誰でしょうか?
「わたしは朝一番から働いた者だ」と思うのなら、神様を不公平だと非難したくなるでしょう。あるいは、9時や12時に雇われた者も、夕方5時になって雇われて1時間しか働かなかった者が、自分と同じ賃金をもらったということについて不満を持つでしょう。
しかし自分が、だれも雇ってくれる人がおらず、夕方5時になってやっと主人に雇われて、1時間しか働かなかった者だとしたらどうでしょうか?賃金以上の喜びです。早くから1日の賃金を約束された人を、横目に見ながら不安の中1日待ち続けたのですから。
だれも雇ってくれる者がおらず、夕方まで広場に立ち続けた。こんな時間まで待っても無駄だと思いながらも、腹をすかした家族が待つ家へ、手ぶらで帰ることもできない。途方に暮れて立ち続けていた、この最後の者が自分自身だと知った時、この「ぶどう園の労働者」のたとえ話が理解できるのです。
罪を悔い改め神を受け入れるのに、遅すぎると言うことはありません。信仰の世界とはこういう世界なのです。神を信じられない自分を責めなくてもいいのです。人生の日没までには、必ず神があなたを導かれます。