本日の聖書 マタイによる福音書24章29〜30節
「その苦難の日々の後、たちまち 太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
宣教題 「世に心を奪われてはいけない」 牧師 新保雅雄
「世の終わり」、「人生の終わり」、私たちは、あまり考えたくない言葉です。いつか必ず訪れる。しかし何か恐ろしく思え考えたくない。今朝、前回に続いて主イエスは、この終末を語られています。
マタイ福音書は、「読者は悟れ」と言われるように、終末の重要性を強く言われています。旧約の時代、ダニエルの預言通り起こったこと、更にこれから起こるエルサレムの滅亡を見て、「世の終わり」についてよく考え、そして備えていなさい。ともいわれています。
創世記19章には、ソドムとゴモラの町の滅亡について書かれています。神は、罪の町ソドムを滅ぼす前に、そこに住んでいたアブラハムの甥っ子であるロトのことを心に留め、御使いをロトに遣わし、家族を連れてソドムの町から逃げていくように命じました。
今朝、主イエスは私たちにもロトと同じように、神のない世界から「命がけで逃れなさい」と言われるのです。この世に執着して、この世と共に滅びてしまってはいけない。私たちを招いておられる神のもとに逃れるのです。それは神と共にある生活を送ることです。
「そのとき、人の子の徴が天に現れる。天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、天使たちを遣わす。天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」キリストの再臨です。
神を信じない人にとって世の終わり、人生の終わりは、不安と恐れでしかない。しかし、神を信じる者にとっては、キリスト・イエスが御国へ導くために迎えに来て下さる。栄光の時、喜びの時となるのです。
本日の聖書 創世記26章1〜33(中心19〜22)
19:イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、20:ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。21:イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。22:イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。
宣教題 「井戸掘りイサクここで生きる」 北村紀一
このゲラルには父アブラハムが掘った井戸があり、そこから水を得て、家畜に飲ませ、また畑を耕しました。主の祝福がイサクと共にあったので、収穫は多く、イサクは豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになりました。
すると、その土地の人々は「よそ者」の繁栄を見てイサクを妬みます。イサクが労苦して井戸を掘ると水がわき出ましたが、ゲラルの羊飼いたちは「その水は我々のものだ」と主張してきました。そんなことが何度か続きましたが、イサクは無条件で明け渡し、自分たちは場所を移動します。
この行為だけみると、なんだか弱々しいし、自分の権利を守ろうとしない意志のないような行為に見えます。しかし信仰の目から見れば、イサクの行為こそ「柔和な人」の生き方なのです。柔和とは「神さまに身を委ねる」ことです。
従ってイサクは「力づく」や「権利」で思いを遂げようとはせず、神様が「この地をあなたとあなたの子孫に与える」と言われたその約束を信じ、周りの人たちと争いなく生活出来る「広い場所」が必ず与えられるはずだと「強い意志」をもっていました。温和で大人しいのではなく、強い意志があったのです。
与えられた使命や目標に向かうには、「強い意志」が必要です。どのような時も主に心を向けようとする「意志」が必要なのです。イサクは「主に委ねる」以外に道はないという信仰が主に祝福されて、イスラエルの民の繁栄のために「広い場所」を与えられたのです。つまり、信仰によって自分の「居場所」が与えられたのです。誰でも入ることのできるこの「広い場所」は主が共におられるので、たとえ艱難辛苦の中にあっても、そのままで「平安」が共にある「場所」なのです。
本日の聖書 マタイによる福音書24章11〜14節
偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。
宣教題 「世の終わりまで共にいる」 牧師 新保雅雄
弟子たちは主イエスに尋ねました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 エルサレム神殿は、約40年後の紀元70年ころに、ローマ帝国によって崩壊します。
ここで主イエスが言われる「終わり」というのは、地球が終わる、宇宙が終わるという物質的なことの破壊というよりも、神の裁きとしてのこの世の終わり、ということを言われていわれています。その引き合いとしてエルサレム神殿を出されているのです。
地球の生命や人類が自然に滅びるというよりももっと前に、人間の罪に対する神の裁きによって終わりが来るということです。
そのときに何が起きるか、主イエスは言われます「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。
この「耐え忍ぶ」という意味は、「歯を食いしばり、がんばって努力して我慢して忍耐しなさい」ということではありません。主イエスは言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:20)
神は、何もかも滅ぼすために世の終わりを来させるのではない。主と共に生きる者たちを、神の国へと招くためなのです。愛が冷えた世界でも、主イエスの愛に支えられて生きることができるのです。その忍耐の行き着く先は、神の御国です。
本日の聖書 マタイによる福音書23章23章37節
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった
宣教題 「何度も集められる」 牧師 新保雅雄
めんどり(母鳥)は、自分の子供、ひよこに危険が迫ると、集め翼の下にかくまい守ります。同じように、主イエスは人々を集め守ろうとしてこられました。しかし人々は応じなかったのです。
多くの群衆が主イエスの周りに集まってきました。しかしその群衆は、病が癒され、願いがかなえられると去っていく。主イエスを救い主キリストとして受け入れたのではなく、願いがかなえられることが目的だったのです。そしてこの後、主イエスは人々に見捨てられて、十字架へとかけられていきます。
主イエスは、御言葉をもって宣教活動をされました。めんどりがヒナを翼の下に集めるように、人々を神のもとに集めようとされたのです。しかし「エルサレムよ、お前たちは応じようとしなかった」。
その結果。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」
ヒナはめんどりの保護があって、はじめて平安のうちに過ごすことができます。しかしそのめんどりの保護を離れてしまったら、どうなるのか。狼の餌食になってしまう。狼はひよこが迷い出るのを、静かに待っているのです。そこに悪魔の姿があります
主イエスは,愛をもって人々を招いて来られました。しかし十字架という死刑台で終わろうとしている。人々が応じなかったのです
しかしそれでも主イエスは、あきらめにならない。十字架の死、そして復活を経て、主イエスは、聖霊としてふたたび私たちを集め守ろうとされています。あなたの祈りに応えてくださるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書23章25、26節
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
宣教題 「偽善者であると気づく」 牧師 新保雅雄
「あなたの隣人を自身のように愛しなさい」と主イエスは言われる。自分を愛してくれる人を愛することはできそうです。しかし自分を憎む者、あるいはその人を愛したからといって、一文の得にもならない人を、「自分自身のように愛する」などということができるでしょうか? できないのです。そうすると「クリスチャンは偽善者だ」などと言われたりする。弱い自分に悩み葛藤する。
それなら「どっちみち人を愛することができないのなら、最初から神なんか信じなければいいじゃあないか。教会なんか行ったって意味がないじゃないか」と居直るのでしょうか。
どうせ出来ないなら、肉の思いのままに生きる、そのほうが自分に正直で、裏表がなくて、「偽善者」と言われることもない。俺は正直もんだ。 決してそうではありません。主イエスは言われます「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)。
自分の力では何も善いことが出来ない、何をやっても偽善にしかならない。自分も神の御子を十字架につけてしまった一人だと気がついた弟子たちに、復活の主イエスが近づいてきてくださったのです。そしてそこから再び、新しい人生が始まったのです。それが復活の主と共に歩む人生です。
私たちも、「自分の力では、まともに歩めない偽善者である」と気がつくことです。出来ないからと居直るのではなく、出来ないがそうありたい。あきらめず希望を持つことです。主イエスは、そんなあなたを決して見捨てることはありません。