「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
宣教題 「用いて増える神の賜物」 牧師 新保雅雄
私たちが、主イエスからいただいているタラントン。英語で「タレント」です。一般的に「才能」という意味に使われています。勉学の才能、音楽の才能、スポーツの才能、仕事の才能などがあります。
自身の努力でいろいろな才能が備わります。しかしここではそういう才能も努力も、また神から頂いた恵みであり、神の賜物なのです。
そして重要なのは、いただく賜物が多いか少ないか、ということではなく、与えられた賜物を使って商売したのかどうかということ、つまりそれをどのように用いたのかどうかが問われています。
このたとえ話の中で注目することは、主人から預かったものを使ったけれども損をした人が、いないことです。使ったが、使ったタラントンを必ず倍に増やしている。もうけているのです。
神の与える賜物は、用いれば必ず増えるということです。頂いた賜物は、持ち得ない人に分けることです。頂いている能力を教会のために使うことです。教会の英語の教師、手話の教師、聖書教育の教師、あるいは食事の奉仕、この能力は神からいただいた賜物です。
教会の伝道も同じです。私たちは、弱い者です。しかし、私達に下さる神の賜物は、私たちの想像を超えて、いく倍にも実を結ぶことができるものなのです。あなたの賜物を信じて用いて下さい。
本日の聖書 マタイによる福音書25章3,4,5〜10節
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
宣教題 「信仰の備え」 牧師 新保雅雄
10人のおとめが、花婿の到着を待っていました。夜に到着する予定です。おとめはランプを持って花婿の到着を待っていました。
ところが花婿の到着が遅れたのです。そのため10人のうち半分の5人のおとめのランプの油が無くなりかけてしまいました。彼女たちは「愚かなおとめ」と言われています。
他の5人は、予備の油を壺に入れて持っていたのです。彼女たちは「賢いおとめ」といわれています。
13節、「だから目を覚ましていなさい」と主イエスは言われる。
「賢いおとめ」も「愚かなおとめ」も共に眠ってしまった。その点では違いがありません。ではどこが違うのでしょうか。
「油」を用意していたかどうかです。ではその「油」とは何か。油を用意しておくとはどういうことでしょうか。
「油」とは、神さまの下さる賜物のことをあらわしています。
燃えつきない油、用意されていた油とは、主の下さる油のことです。
燃えつきそうになっていた油とは、人間の用意した油のことです。
どちらのおとめも同じように眠りこんでしまいました。天の国に入れていただく資格がないのに、キリストが下さる油によって天の国に入れていただいたおとめ、「信仰の備え」が問われているのです。
人は弱いものです。あのゲッセマネで寝てしまった弟子たち、そして私たちも、信仰の火が消えそうな時、主イエスに祈り求めて、すがるのです。主イエスに油をいただくのです。
本日の聖書 創世記32:23〜33(中心32)
「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿(もも)を痛めて足を引きずっていた。」創世記 32:32
宣教題 「太陽は昇った」 北村紀一
ヤコブは兄のエサウが本来受けるべき祝福を策略によって騙し取りました。そのことで、エサウに恨まれて命を狙われ、エサウから逃げながら、長い間生活してきました。ところが、ヤコブはエサウと再会する時が来たのです。今までの経緯から、ヤコブにとっては喜ばしい再会ではなく、兄をだまして逃げたのですから、命の危険を感じる恐ろしい再会だったのです。
ヤコブは今までエサウを避けて何とかうまく人生をやりくりしてきました。
しかし、ヤコブにとっては人生の中で一番大きな課題であり、問題の中心であったエサウとの関係は何一つ解決されていなかったのです。ヤコブにとって人生の大きな課題はエサウとの和解でした。
「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』」創世記 32:25〜27
ヤコブは神様の祝福の約束を知っていました。つまり自分が神の民であることを知っていたのです。だからこそ、かじりついてでも神様の祝福を求めたのです。子どもの特権というのは、親に求める事ができるということです。
そうして得た祝福でしたが、ヤコブに与えられた祝福は、「腿の関節が外れたこと」でした。彼は足を引きずらなければ歩けない状態になってしまったのです。走る事はできません。つまり、逃げる事はできません。今まで色んな策略と智恵によって富と財産を築いてきました。ヤコブは頭の良い人でしたので、今回も、もし何かあったら頭を働かせて何とかその場を切り抜けようと思っていたことでしょう。
しかし神様は、ヤコブに対して人間の智恵に頼ることではなくて、ただ主にのみ頼るように求められました。そしてヤコブは弱さを知ることで、主に頼る者となっていきました。大事なことに気付いたヤコブの上に太陽が昇ったのでした。ここからヤコブはイスラエル(主により頼む者)として歩き始めるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書24章36、42節
その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
宣教題 「目を覚ましていなさい」 牧師 新保雅雄
いつ終わりが来るのか、いつ主イエスが再臨されるか分からない。「だから目を覚ましていなさい」42節と言われるのです。いつお迎えが来てもいいように、目を覚ましていなさいと言われる。
では「目を覚ましている」とは、どういうことでしょうか?
43節、家の主人が泥棒がいつ来るのか知っていたら、みすみす家に入らせないだろう。45節、悪いしもべは、主人はまだ帰ってこないと思って、飲み食いして大騒ぎをしていた。ところが主人は思いがけないときに帰ってきて、その悪い僕を罰する。だから「目を覚ましていなさい」と言われる。
そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも信仰者として立派な行いをしている。」ということになるのでしょうか?
その答えは、主イエスは、ゲツセマネの園で、弟子たちに言われた中にあります。「わたしが向こうへいっている間、ここに座っていなさい」(マタイ26:36)。そうして少し離れた場所に行って、主イエスは神さまに祈りました。そして弟子たちのところに戻ってみると、弟子たちはみな眠っていました。そんなことが3度あり、主イエスは言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。」まさにその時が来たのです。しかし弟子たちは眠ってしまう。弟子たちは神の裁きを受けたのでしょうか?
決してそうではない。弟子たちは裁きを受けませんでした。では誰が裁きを受けたのでしょうか? それは主イエス御自身でした。ここにキリストの愛があります。主イエスは、私たちの肉の弱さをご存知です。主イエスは十字架で死んで三日目に復活されたとき、見捨てて逃げた弟子たちを赦し、再び招かれたのです。
本日の聖書 マタイによる福音書24章35節
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
宣教題 「新しい天と地」 牧師 新保雅雄
主イエスは言われる「天地は滅びる」。これは地球や太陽、宇宙が、その物質的な寿命を迎えて何億年か後に滅びるということではありません。ここでは、天地を創造された神が、この天地を滅ぼされるという、神の行為、御計画を言われています。
「天」というのは、「天の国」父なる神のおられるところです。
「地」というのは、私たちが生きている「この世」のことです。
主イエスが「天地は滅びる」といわれた時、それは、「天の国もこの世も滅びる」ということです。しかし、「天地が滅びる」ということは、何かすべてが消滅してしまうことではありません。むしろ希望のときです。
私たちの罪が、神と私たちとを隔(へだ)てていました。その神と私たちを隔てた罪という壁が、主イエスの十字架によって取り除かれました。いままで行きたくても行けない神の国と、この世がつながるための壁が十字架によって崩壊するのです。
そのことがまさに今、完成する時であると主イエスは言われます。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
(ヨハネ黙示録21:12,4)
人間の罪にまみれた世界と、父なる神の天の国とに分かれているのではない。まさに神が人と共に住む新しい世界パラダイスである。
「我ら神と共にあり。インマネール。」