本日の聖書 マタイによる福音書5章14節
「あなたがたは世の光である。
山の上にある町は、隠れることが出来ない。」
宣教題「地の塩、世の光」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われました。
主イエスは、何か条件を付けて、「もし、○○ができるならば、地の塩、世の光になれる」だからなれるように頑張りなさい、と言われたのではないのです。
また、特に選ばれた人、才能をもった人にだけ言われた訳でもないのです。今のままの「あなたが、地の塩であり、世の光なのだ」と言われているのです。
ここに、神の恵みによる幸いがあります。「神が、一方的に、恵みによって、私たちを選んでくださり、地の塩、世の光としてくださった。だから、相応しく生きよう」これが、選ばれた者に期待された生き方なのです。
救いも同じです。「何かが出来たから救われたのでは、ありません。」「救われたから神の言われるような人生を生きよう。」なのです。(出エジプト)
光は自分を照らすのではないのです。
世の光としての私たちは、自分自身に光が当たることを望んではいけません。世の光としての私たちは、あくまでも、人々を照らすことや社会を照らすことが大切です。 ですから、世の光としての私たちは、この世に仕えることが求められています。その時、光が光らしく輝くのです。また塩も自分自身のためにあるのではなく、腐敗を防ぐために清めに使われるのです。
地の塩も世の光も、自分のためにではなく、人のためにこそ存在します。だからこそ、私たちは、礼拝の場から、地の塩として、また、世の光として、それぞれの働きの場へと派遣されるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書5章7節
「憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受ける。」
宣教題「憐れみ深い人」 牧師 新保雅雄
主イエスは、全部で9回「幸い」を語られました。その5番目の「幸い」では、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」と言われています。ここで言われている「憐れみ深い」とは、聖書においては、神や主イエスについて用いられることの多い言葉です。
私たちを救うために、御子イエスを十字架で犠牲にされた神の愛、これが「憐れみ深い」ということです。すなわち艱難辛苦に遭っている人々を、ご自分の全身全霊が痛むほどに受け止めてくださる主イエスの愛、これこそが「憐れみ深い」という表現に相応しい姿なのです。
私たちを、憐れんでくださる神は、私たちを罪から救い出すために、具体的な行動として、御子イエスを救い主として、この世にお送り下さり、私たちの罪のために、御子イエスを十字架で犠牲にすることで、私たちの罪の代償とされたのです。ここに「憐れみ深い神の愛」があります。
艱難辛苦の中にある人について見聞きした時に、「ああ、可哀想に」と思って涙を流しても、それで終わるなら、それは「憐れみ深い」とは言えないのです。
心に思ったことが行動に出るとき、それが憐れみ深いというのです。具体的な形で、何かせずにはいられないほど、思いが高まる姿こそ、憐れみ深いという言葉に相応しいのです。
「可愛そうに」言葉でいうのは簡単です。しかし、その時何が出来るか、そこに本当の「憐れみ深い」があるのです。
「憐れみ深い人々は、憐れみを受ける」のです。隣人にいつも自分のことのように関心を持って接するとき、あなたも同じ関心を持たれます。憐れみを持つ人は、自分が苦しいとき、憐れみを受けます。
本日の聖書 マタイによる福音書5章5、6節
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え乾く人たちは、幸いである、その人たちは満たされる。」
宣教題「柔和な人」 牧師 新保雅雄
主イエスは、「山上の説教」で「幸い」について宣教されました。本日の聖書箇所には、全部で9回「幸い」を語られた。その中で、3番目と4番目の「幸い」を通して、主イエスの御心を学びたいと思います。
主イエスは、「柔和な人々は、幸いである」と語られています。一般的には、「柔和である」ということは、温和で、穏やかであることを意味します。つまり相手を、にこやかに受け止め、微笑みながら話を聞いてくれる人の姿が思い浮かびます。あるいは、その人と話をしているだけで、心が穏やかに安らいでくる人を思います。
確かに、主イエスが、ここで言われている「柔和である」ということは
この温和で、穏やかな笑顔を持つ人の姿を意味しているのでしょう。しかし、それに加えて、もう少し深い意味があります。
主イエスの言われる「柔和である」ということを知る上で参考になるのは、マタイ11章29、28節にあります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われています。その中に「私は柔和なもの」がでてきます。
つまり「柔和である」ということが、ただ単に温和で穏やかで優しいということだけではなく、神、主イエスとの関係にあることが分かります。
柔和であることは、一般的な意味での、人としての優しさや、笑顔の姿にとどまらず、神との関係において言えることなのです。神への信仰という関係なくして、柔和な幸せはないということです。
柔和とは、腹の中は黒いのに、ただ外面をニコニコ作ることではなく、心の中から出ることであり、神に従う厳しさも持ち得るときに、柔和が幸せになるのです。
「暗闇に住む民は 大きな光を見、
死の陰の地に住む者に 光が射し込んだ」
宣教題「光が射し込んだ」 牧師 新保雅雄
主イエスは、私たちを罪から救うために、十字架で犠牲になってくださいました。何の罪も犯さなかったにも拘らず、暗闇と無縁であったにも拘らず、敢えて暗闇の中に飛び込んで来てくださいました。私たちの罪を身代わりとして、十字架で死んでくださったのです。ここに、神の愛があります。
この世には、様々な光があります。ギラギラ脂ぎった光、金と欲にまみれた光もあります。また人を貫く心を閉ざさせる冷たい光、人を監視する批判する光もあります。
しかし主イエスのもたらす光は、神の愛に溢れた、柔らかな光です。この光の方に、向き直り、体と心に、主イエスの光を浴びるときことこそ救いの始まりの時です。主イエスのもたらす光に向き直ることこそが、文字通り「悔い改める」ことなのです。
せっかく主イエスによって、救いの光が射し込んでいるのに、この光に背を向けてしまえば、その人は、光を受け取ることが出来ません。相変わらず、闇の中であえぐ生活を続けることになるのです
確かに、この世には、暗闇を思わせる事件や出来事が、あちこちで起こります。でも、そんな中にも主イエスの光は射し込んでいます。
この光の方に向き直り、心を開いて、主イエスを受け入れることで、私たちは、心を温められ、励まされ支えられるのです。
悔い改めて主イエスの光を浴びるとき、今まで隠されていた自分の罪を明らかにされることで、痛みや葛藤を伴うことになるかも知れません。しかし、この悔い改めの痛みこそが、あなたを新しく変えていく産みの痛みであり救いの始まりです。全てを委ねて下さい。
皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが船に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
宣教題「恐れるな私がいる」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちだけを舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸ベトサイダへ向かわせました。弟子たちを乗せた舟は、湖の中ほどまで進んでいきました。穏やかで順調な進みでした。ところが急に逆風が吹いて来ました。舟は風と波を受け、立ち往生してしまったのです。舟に乗り込んでいた弟子たちは、ペトロを初めとして、以前は漁師をしていた者が何人もいましたが、そんな彼らでも激しい逆風と荒波に打ち勝つことが出来なかったのです。
弟子たちは、一晩中、逆風に悩まされ、一向に進むことが出来ずにいたのです。そしてとうとう夜が明ける頃になりました。その時、主イエスは、湖の上を歩いて、弟子たちの所へと向かわれたのです
ところが弟子たちは、湖の上を歩いて来るのが、主イエスだとは分かりませんでした。それより幽霊だと思い、おびえていたのです。
その時、主イエスは、弟子たちに向かって、こう言われました。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
私たちの人生も、弟子たちの舟旅のように、度々、逆風が吹くことがあります。途中まで順調に見えた人生が、まるで逆風が吹き付けてきたように、急に進まなくなり、いくら漕いでも、前に進まなくなることがあります。そんな時、私たちは、進むべき方向や、方法が間違っているのではないかと思い戸惑います。そして、「こんな筈では無かった」と焦り、疲れ、取り乱します。そしてどうしょうもなく人生半ばで、なげだし諦めてしまう。
そんな時、祈って下さい。主イエスは言われます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」世の中の声に振り回され神の声が聞こえ無かったのです。そんなあなたに主イエスは声をかけておられます。すべてを主イエスに委ねてみてはどうでしょうか。