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投稿者 : church 投稿日時: 2011-11-27 07:07:17 (1947 ヒット)

聖書 マルコによる福音書10章51節

イエスは『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は『先生、目が見えるようになりたいのです。』と言った。」

宣教題 『あなたは神に何を望むのか』    

道端にバルティマイという盲人の物乞いが座っていました。彼は、主イエスが来られたと聞いて「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大声で叫び出しました。主イエスの弟子たちは、このバルティマイを叱り付けて黙らせようとしたのです。

バルティマイは、物乞い生活から抜け出たい、もう一度人生をやり直したいと思っていました。そこに主イエスが通りかかった、この時を逃してはいけない。だから大声で必死に求めたのです。しかし彼の心の思いは、弟子や群衆には伝わらなかったのです。

弟子達の目には、道端の物乞いが、施しの金銭を得るために、いつものように「わたしを憐れんでください」と叫んでいるようにしか思えなかったのです。心の痛みまでは見えなかったのです。

弟子達が、叱り付け黙らせようとしても、バルティマイは、されるほどに、ますます大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。彼の叫びは祈りとなり通じました。

主イエスは、立ち止まり「あの男を呼んで来なさい」と言われ、改めて「何をしてほしいのか」と尋ねました。他の物乞い達のように、金銭的なものを求めるのかどうか、改めて尋ねたのです。しかし彼は「目が見えるようになりたいのです」と答えたのです。

主イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言されました。するとバルティマイは、すぐ目が見えるようになったのです。彼は新しい人生を手に入れ希望が見えたのです。

彼に対する人々の思いは、金銭の大小が生きる為の救いでした。しかし神の憐れみは、自身の足で歩む新しい人生でした。私達は神に何を求めているでしょうか? 金銭それとも希望でしょうか。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-11-13 07:43:38 (1823 ヒット)

聖書 マルコによる福音書8章32、33節

すると、ペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。

宣教題 『救いとは肉との戦い』    

主イエスは、ご自分が「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、弟子たちに向かって、これから起きることを語り出しました。

そのときペトロが主イエスの話をさえぎり、わきへお連れして、いさめたのです「先生、死ぬなんてことをおっしゃるべきではありません。先生が殺されるなどと聞いたら、弟子たちは皆、離れて行ってしまいます」

ペトロがメシア(救い主キリスト)を、どう理解しているかが分かります。ペトロにとってのメシアは、どんな時も負けてはならない存在なのです。  

昔イスラエルのダビデ王が、敵との戦いで連戦連勝を続けたように、メシアは、勝利者でなくては困るのです。メシアが殺されては、いけないのです。これに対して主イエスは、「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とペトロを強く叱りつけました。

人を救おうとするとき、救いに来た人が強くなければ、救いを求めている人を救うことは出来ません。救いを求めている人より、救う人が弱ければ、命を任せることは、出来ないんじゃないでしょうか? しかし、主イエスは、それを「人間の思いだ」としかりつけたのです。

神の救いとは、人の思いを超えた先にあります。メシアである主イエスが、人の罪の身代わりとして、自分の命を犠牲として献げてくださる。このことによって、神は、人を罪から救おうとされているのです。

真の救いとは、肉による勝利ではない、ことが分かります。その肉の思いを捨て、神に従うときに本当の勝利、救いがあるのです。つまり救いとは肉の思いとの戦いでもあるのです。主イエスは言われます「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-11-06 07:37:42 (1907 ヒット)

聖書 マルコによる福音書8章25、26節

イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

宣教題 『あなたは、何が見えるのか』    

主イエスと弟子達は、ベトサイダという村に着きました。この村に目の見えない人がいました。友人が、彼を主イエスの所に連れてきたのです。そして主イエスが、彼の目に手を当てると、ぼんやり「人が見える」ようになりました。更に主イエスが手を当てると、今度は「何でもはっきり見えるようになった」のです。

それから主イエスは、弟子たちに「人々は、私のことを何者だと言っているか」と質問しました。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「預言者だ」という村の人々の声を報告しました。

主イエスは、弟子達にさらに質問されました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」今度は、弟子たち自身の思いを聞いたのです。ペトロが弟子を代表して「あなたは、メシアです」と答えました。メシアとは、救い主、キリストのことです。

そして、主イエスは、自分のことを誰にも話さないようにと、弟子たちに言われました。確かに、主イエスは、ペトロが答えた通りメシア、救い主です。しかし、どのようなメシア、救い主であるか、ペトロ達は、まだ理解出来ていないのです。

主イエスは言われます。まだ十字架の時が来ていない。だから「復活するまで誰にも話してはいけない」9:9 救いの為には、主イエスの十字架の死という、大きな犠牲があるのです。 

本当の救いとは、今ある目先の問題が、ただぼんやりと解決するだけではない。「今まで神が見えなかった人が、神が見えるようになること」そして神が見えるようになったとき「人生の希望の光を、はっきりと見れるようになる」ことなのです。その全てが十字架と復活によってなしえる。ここに救いがあるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2011-10-30 06:47:11 (1502 ヒット)

聖書 マルコによる福音書6章11〜13節

「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。

宣教題 『あなたの言動が世界を変える』    

主イエスと弟子たちは、福音伝道の旅を続けています。弟子達は主イエスより神の国の福音を聞き、病気の人を癒す奇跡をまじかで見て来ました。行うのは主イエスです。弟子達は、ただ付いて従うだけでした。それが今度は弟子たちが、自身で宣教し、また病気の人を癒すために、村々へ遣わされることになったのです。

この弟子の派遣を、私達に置き換えてみてください。聖書を読んでいる。宣教を毎週聞いている。しかし、そのことがどのくらい身に付いているのでしょうか。教会から送り出されて行く場所、すなわち各々の日常生活の場、学校や家庭、職場、そこで主イエスの教えを、いかに実践しているのかが問われているのです。

現実の社会では、必ずしも主イエスの教えを、そのままに実践することが難しいこともあります。それによって葛藤や挫折を味わうことも多いかも知れません。だからと言って「教会では信仰の顔、現実社会では肉の顔」と器用に人生を送るのはどうだろうか。

時に私たちは、信仰によって不器用にしか生きることの出来ない自分に苦しむ時があります。世では隅に追いやられて損をするかもしれません。しかし、不器用だって良いのです。人と違っていたって、人と同じように出来なくたって、損をしても良いのです。

主イエスは「富は天に積みなさい」と言われます。世で損をしているように見えるが、それが神から与えられた恵みです。大事なことは、私達が社会の隅っこに押しやられているように見えても、そのことに腐ってしまって、持ち味を失ってしまわないことです。この世では損をしているように見えることが、実は大きな恵みであり、この世を祝福の世界に変える力になるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2011-10-16 07:06:55 (1680 ヒット)

聖書 マルコによる福音書5章12〜13節(p69)

汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。

宣教題 『たった一人の救いの為に』    

主イエスと弟子達は、嵐のガリラヤ湖を渡りました。着いた所は、ゲラサ人の地方と呼ばれる地です。主イエス達が舟から上がると、汚れた霊に取りつかれた人がやって来ました。この人は墓場を住まいとし、暴れるので縛られていた鎖を引きちぎって来たのです

汚れた霊は、舟から降りたばかりの主イエスに「いと高き神の子イエス、苦しめないでほしい」と願いました。しかし、主イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」と汚れた霊を叱りました。

汚れた霊は、かなわないと見ると、山で餌を食べていた2千匹の「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願ったのです。主イエスが赦され、汚れた霊は豚の中に入り、群れは一斉に崖を下って湖になだれ込み、全てが溺れ死んでしまったのです。

しかし主イエスが、この人を汚れた霊から救ったにも拘わらず、この地に喜ぶ人はいませんでした。そればかりか主イエスに向かって「この地方から出て行ってもらいたい」と追い出したのです。

嵐の荒波を越えて、この地に渡って来たのです。しかし主イエスが行ったことは、一人の男を癒すことだけだったのです。しかも、人から嫌われ見放されて墓場で暴れ騒ぎ続けていた男なのです。

主イエスは、激しい嵐を越えて命がけで渡って来られたのです。それも、たった一人の救いの為に。 ここに、神の愛があります。

人はこの人を嫌い恐れます。しかし主イエスは、この人を命を懸けて愛します。憎むのは人ではなく汚れた霊です。主イエスは彼の心の叫びを聞かれたのです。


 


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