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投稿者 : church 投稿日時: 2016-07-10 06:38:04 (854 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書10章16節

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように、賢く、鳩のように素直になりなさい。」

宣教題「鳩のように、蛇のように」   牧師 新保雅雄

主イエスは、ご自分が選ばれた12弟子を、福音伝道に遣わすに当たり、様々な注意を与えられました。福音伝道は、決して簡単ではありません。弟子達を待ち受けているのは「狼の群れに羊を送り込むようなもの」なのです。では何故そのような中に、弟子たちを遣わすのでしょうか。

弟子たちを派遣するきっかけとなったのは、「群衆が飼う者のいない羊のようであった」からなのです。飼う者がいない羊は、狼や猛獣の餌食になっているのです。そこから一人でも多くの羊を救うためなのです。

だからそこへ遣わされる弟子達も、狼や猛獣の群れの中に入っていくことになるのです。しかも彼ら自身も弱い羊なのです。だからこそ主イエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われている。

では蛇のように賢くとは何か。このあと主イエスは「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と言われます。ここに蛇の賢さがあります。蛇が危険を察知して逃げていくように、逃げることも賢さなのです。相手が嫌がり敵対しているのに、何とかねじ伏せようとする。自分の行っていることは正義、真理なのだ。それではダメなのです。

主イエスの教えは、本当に素晴らしい。だから誰もが喜んでそれを受け入れてくれるはずだ。それはとても素晴らしい考えかたです。しかし、実際に福音伝道を行うとき、そう簡単ではないことに気づくでしょう。

当時、主イエスに対する熱狂的な信仰が群衆の中にありました。しかし、それ以上に、主イエスに対する反感も多々ありました。信仰が熱すぎるあまり、福音伝道が行き過ぎてしまう、そして余計に反感を高めてしまう。だからこそ弟子たちには、「蛇のように賢く、鳩のように素直になる」ことが求められているのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-07-03 06:51:39 (824 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書10章1節

「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。」

宣教題「主は弟子を選ぶ」   牧師 新保雅雄

ここには、12使徒の名前が記されています。最初の4人、ペトロと、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ、彼らはもと漁師です。マタイは、ローマに仕える徴税人でした。シモンは、ローマ帝国からの独立をねらう過激な政治団体、熱心党の党員です。本来、彼らは一緒に活動が出来ないような人たちの集まりなのです。

主イエスによる12使徒の選び方には、ただ一点重要な意味があります。それは自分ではなく主を誇る者であるということです。この世の地位や肩書き、能力に選ばれる基準があるのではありません。むしろ、何もない救いを求める飢え渇きにこそ、選びの基準があるようです。

つまり自らの能力や実績や成果を誇ることの出来ない者であること、だからこそ神の恵みによって自分が生かされ、用いられていることを知っている。このことが弟子には欠かせないのです。

主イエスは、こうして選んだ12人を福音宣教の旅へと派遣されました。そして金銭も下着も、履物も杖も一切持たずに行くようにと指示されたのです。使徒たちは不安だったことでしょう。しかし、派遣された現場で使徒たちは、不思議にも必要なものを備えてくださる主の導きを経験するのです。

何も持ち得ない時、不安がつのります。しかし、それだからこそ神に心から真剣に依り頼むことができるのです。逆に沢山のものを持ち得ているとき、少なからず自分の力、能力に過信してしまいます。その時、神に何を願い祈るのでしょうか。

私たちも12使徒のように、たとえ身支度が十分で無いと感じる中にあっても備えて下さる主に依り頼みながら証し人でありたい。自分の力では、どうも出来ないとき、その時こそ祈りの時であり、奇跡に出会うときです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-06-26 06:39:44 (813 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書9章37,38節

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

宣教題「神のご奉仕」   牧師 新保雅雄

「収穫」とは、終わりの日、裁きの時のことです。つまり主イエスによって人が救われる時のことを言います。そして「収穫は多いが、働き手が少ない」ということは、福音を必要としている人、救われるべき人は多いが、こうした人々が救われるために、神様の手足として働く人が少ないということです。

教会の働き、奉仕において、時に人手不足を実感することがあります。そんな時に、教会奉仕の忙しさに疲れて来ると「何故、自分だけ、こんなことをしなければならないのか。あいつは何にもしない。」と人の批判や愚痴を言いたくなる心が、湧き上がってくるときがあります。

主イエスは、言われます。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」願うとは、神に祈ることです。

つまり、人の批判をしたり愚痴を言う前に、まず神に祈ることの方を優先するべきだと言われるのです。愚痴るより、まず祈ることです。

神は必要とあらば、御子イエスさえ、惜しまず十字架の死に渡してまでも、私たちを救おうとされる方です。そうであれば、なおさら神は、私たちに必要なものは、ご存じであり、必要な時に惜しまず与えてくださるのです。

そうであるならば、主イエスを信じ、必要なことは、ひたすら神に祈ることです。もともとこの働き事態が、神のためのものなのですから。そして神が、私たちを用いて救いの働きをさせておられるのです。

神の働きのために神と共に働くこと、この幸福感を体と心で手に入れてください。愚痴りたくなったら、まず祈ってみて下さい。必ず、答えが得られるはずです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-06-19 07:49:19 (811 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書9章20節

「イエスが二人の目に触り、あなたがたの信じているとおりになるようにと言われると、二人は目が見えるようになった。 」

宣教題「信じたとおりになる」   牧師 新保雅雄

本日の聖書は、主イエスに関わりを持った人々が登場致します。ある人は、主イエスに助けを求め、また、他の人は、悪口を浴びせました。主イエスに好意を持つ者もあれば、敵意を持つ者もいます。世には、好意と敵意が渦巻いているのです。

まず、主イエスは、二人の盲人を癒します。彼らは、主イエスに助けを求め、家まで付いて行きます。そこで主イエスは、ようやく、彼らに向き合ってくれました。そして、「わたしにできると信じるのか」と言われたのです。

彼らは「はい、主よ」と答えました。 すると主イエスは、彼らの目に触れ 「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われ、癒されたのです。信仰が問われているのです。誰のせいでもなく、自分がどう信じているかで、その結果が決まるのです。

しかし目の前に、主イエスを通して、神の奇跡が現れたにも関わらず、ファリサイ派の人々は、それを認めることができないのです。

神の御国の価値観は、この世の価値観と大きく異なることがあります。 恵みとは何なのか? ということについては、大きく価値観が異なっているのです。

二人の盲人は、目が不自由な中で、苦労も多かったことでしょう。しかし、主イエスに憐れみを請うことが出来た点では、恵まれた人々だったのです。一方、ファリサイ派の人々は、手を差し出せば、受け取ることの出来る神の恵みを、かたくなにこばんだのです。

自らの欠けに気が付かない人、気が付いても認めない人は、残念ながら、神の愛を受け取ることが出来ません。苦しみながら、「わたしを憐れんでください」と叫んだとき、憐れみを受けるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2016-06-12 08:45:17 (888 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書9章20節

「十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである」

宣教題「御手の中にある命」  牧師 新保雅雄

指導者が、主イエスにの前にひれ伏し、「私の娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。」と願い出ました。主イエスは、この父親の思いに動かされ、父親に付いて行きました。

そこへ行く途中、12年間、出血が続いている女性が近寄って来ました。当時、出血が続くことは、宗教的に汚れたことと見なされていました。そのため、この女性は、病気自体の苦しみに加え、宗教的、社会的に疎外される二重の苦しみを受けていたのです。

そのため、この女性は、正面から主イエスに願い出ることを避け、後ろからそっと、主イエスの服の房に触れました。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからです。

その事を知った主イエスは、この女性に言われました。

「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

この女性の切実な思いを、主イエスは、これこそ信仰だ、この信仰によって、あなたは救われたと言われたのです。

この瞬間、この女性を長年苦しめた病が癒されました。そして、再び社会に、戻ることが出来たのです。

その後、主イエスは、指導者の家に着かれました。そして「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。すると少女は、まるで眠りから覚めたように、起き上がったのです。こうして、主イエスの御手を通して、少女に再び命が与えられました。


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