メインメニュー
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

住所変更のお知らせ
新住所
板橋区仲町23−17
東武東上線 
中板橋駅徒歩12分
連絡先
090-8801-0111
(新保牧師携帯)
アクセスカウンタ
今日 : 9797
昨日 : 188188188
総計 : 245483245483245483245483245483245483
投稿者 : church 投稿日時: 2017-08-27 08:38:52 (45 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書5章3節

「心の貧しい人々は、幸いである。

天の国はその人たちのものである。」

宣教題「天国は心の貧しい人のもの」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、山上で、「幸い」についてお教えになられました。

  ここで、「もし○○出来るならば、幸いになれます」などと言っておられるのでは、ありません。既に今ある状態に対して、「あなたは幸いだ」と、主イエスは断言しておられるのです。

  3節、4節にある最初の二つの「幸い」は、貧しい人、悲しむ人、この世的な判断からすれば、決して「幸い」とは言えない状態にある人々を指して言われています。この世の常識や価値観に、対抗するかのように主イエスは、「幸いだ」と繰り返していきます。

  まず、最初に「心の貧しい人々」が挙げられています。主イエスが言われている「心の貧しい人々」というのは、直訳すれば、「霊において貧しい人々」のことです。つまり、信仰的に飢え渇いている人のことです。言い換えれば、それは、神の助けを求めている人、神の助け無しには、もう生きて行くことが出来ないほどに、深い苦しみの中に疲れを覚えている人のことです。

  こうした人に向かって主イエスは、「天の国はあなたがたのものだ」と言われています。つまり「心の貧しい人々」こそが、天の国では、最も中心的な存在であり、あなたたちのためにこそ、天の国はあるのだと、主イエスは、言っておられるのです。

  病院が、病気に苦しむ人のためにあるように、天の国は、神の助けを求めている人のためにこそあるのです。病気の人は自力で努力で修行で、何かが出来ることで、癒されるのではありません。

  自分ではどうにも出来ずに、神の助けを祈り願う。私たちは、神の助けを切実に求め、思わず「ああ、神様」と祈らずにはおられない状態に置かれることがある、それこそが、「心の貧しい」状態です。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-08-20 07:16:25 (50 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書4章18〜20節

イエスは、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

宣教題「神の御声を聞き分ける」  牧師 新保雅雄

  主イエスの弟子となった最初の4人は、皆ガリラヤ湖の漁師でした。彼らは、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時に、声を掛けられ、弟子となりました。自分の方から、主イエスに向かって、「私を弟子にしてください」と弟子入りを申し出たのではありません。皆主イエスの方から声を掛けられて、弟子になったのです。全ては、この主イエスの導きの声から始まったのです。

  こうして主イエスの招きに応えて、最初の4人の弟子が誕生しました。この4人に共通することは、漁師という仕事中に主イエスから声を掛けられたこと、祈って求めたのではないにも拘らず、誰一人として、躊躇することなく、すぐに主イエスに従ったことです

  網も舟も父親も残して、彼らは主イエスに従いました。これは、神の働き無しには起こりえない出来事です。何故なら主イエスは、まだ何一つ、実績を上げておられないからです。病気の人を癒すこと、神のみ国を教えることも、まだ行ってない、無名の時なのです。

  ですから主イエスが何者であるのか、まだ誰にも分からない段階で、シモンたちは主イエスに従って行くのです。神が彼らの心を動かしてくださったからこそ、主イエスに従うことが出来たのです。

  神は、主イエスを通して、私たち一人一人に呼び掛けられます。たとえ私たちに、主イエスの声が聞こえなくても、ここに集められているということが、既に主イエスの呼び掛けを受けているのです。

  私たちは、すぐに主イエスに従うことが、出来ないでいるかも知れません。でも、それはそれでいいんです。今日も主イエスは、繰り返し私たちに呼び掛けてくださるからです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-08-13 06:44:27 (46 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書4章16節

「暗闇に住む民は 大きな光を見、

死の陰の地に住む者に 光が射し込んだ」

宣教題「暗闇に光が射し込んだ」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、私たちを罪から救うために、十字架で犠牲になってくださいました。何の罪も犯さなかったにも拘らず、暗闇と無縁であったにも拘らず、敢えて暗闇の中に飛び込んで来てくださいました。私たちの罪を身代わりとして、十字架で死んでくださったのです。ここに、神の愛があります。

  この世には、様々な光があります。ギラギラ脂ぎった光、金と欲にまみれた光もあります。また人を貫く心を閉ざさせる冷たい光、人を監視する批判する光もあります。

  しかし主イエスのもたらす光は、神の愛に溢れた、柔らかな光です。この光の方に、向き直り、体と心に、主イエスの光を浴びるときこそ救いの始まりの時です。主イエスのもたらす光に向き直ることこそが、文字通り「悔い改める」ことなのです。

  せっかく主イエスによって、救いの光が射し込んでいるのに、この光に背を向けてしまえば、その人は、光を受け取ることが出来ません。相変わらず、闇の中であえぐ生活を続けることになるのです

  確かに、この世には、暗闇を思わせる事件や出来事が、あちこちで起こります。でも、そんな中にも主イエスの光は射し込んでいます。

  この光の方に向き直り、心を開いて、主イエスを受け入れることで、私たちは、心を温められ、励まされ支えられるのです。

  悔い改めて主イエスの光を浴びるとき、今まで隠されていた自分の罪を明らかにされることで、痛みや葛藤を伴うことになるかも知れません。しかし、この悔い改めの痛みこそが、あなたを新しく変えていく産みの痛みであり救いの始まりです。全てを委ねて下さい。


投稿者 : church 投稿日時: 2017-07-23 06:52:11 (51 ヒット)

本日の聖書   マタイによる福音書27章39,40節

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」

宣教題「十字架に向かい合う」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入られました。十字架に付けられる5日前のことです。その時、人々は、「なつめやし」を切って道に敷き(21章8節)、主イエスをメシア、キリストとして、たたえ喜んで迎え入れたのです。

  ところが、数日の間に状況は一変してしまいます。ユダヤ教指導者、祭司長たちのたくらみによって、主イエスは、神を冒涜したとして、十字架に付けられることになったのです。

  通りがかりの人々も、祭司長たちも、さらに一緒に十字架に付けられた強盗たちさえも、寄ってたかって、主イエスを小馬鹿にし、「神の子なら自分を救ってみろ」と挑発したのです。あの荒野での悪魔の誘惑の時の悪魔の言葉を思い出します。

  主イエスの十字架は、全ての人の罪を露わにしました。その罪は、主イエスの身に全てを負わせることになりました。そして、主イエスは、十字架での死を迎えられました。それは、全ての人の罪を身に負った身代わりとしての犠牲の死でした。

  人は、自分の罪を明らかにされ、自ら、その罪と向かい合い、これを認めること無しには、救いに至ることは出来ません。主イエスの十字架を自分の罪の結果だと悔い改め、受け入れるならば、私たちは罪を清められ、赦され、救われるのです。十字架に大胆に近づく者には、主イエスを通して、神の救いが与えられるのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2017-07-16 08:06:22 (75 ヒット)

本日の聖書    マタイによる福音書27章21節

「そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。」

宣教題「身代わりになられた主」  牧師 新保雅雄

  主イエスは、夜中に捕らえられ、大祭司カイアファの屋敷でユダヤ側の裁判を受け、夜明けになると、祭司長たちによって、総督ピラトの前に連れて来られました。祭司長たちは、神を冒涜したという理由で、主イエスを死刑にしようと決めていました。

  当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたので、実際に死刑を執行する権限は、ローマ帝国から派遣されていた総督が持っていました。そこで祭司長たちは、総督ピラトに訴え出たのです。

  ピラトは、人々が主イエスを自分に引き渡したのが、ねたみのためであると知っていました(18節)そこでピラトは、祭りの時に、民衆の希望する囚人に恩赦を与えて、釈放する慣習を利用して、主イエスを釈放しようと考えたのです。

  悪名高き囚人バラバ・イエスと、主イエスのどちらを釈放して欲しいのかと、群集に尋ねたのです。通常であれば、誰が考えても、罪の無い主イエスが釈放されることを選ぶ筈です。そうすれば、人々の願い通りに主イエスを釈放したのだとユダヤ側に言えるのです。

  しかし、扇動された群衆は、バラバの代わりに主イエスが十字架に付けられることを願ったのです。このことによって、主イエスの十字架の意味が明らかになったのです。正しい方である主イエスが、罪ある者、死刑にされても致し方ない者の身代わりとして、十字架に付けられたことを現すのです。

  罪ある私たちを救うために、十字架で犠牲となってくださったのです。ここに、神の愛があります。人を罪から救い出すためには、ご自分の大切な独り子である主イエスを犠牲にすることも厭わない、大きな神の愛があるのです。


« 1 2 3 (4) 5 6 7 ... 62 »