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投稿者 : church 投稿日時: 2019-09-22 07:25:46 (40 ヒット)

 本日の聖書 マルコによる福音書15章 節

「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」

宣教題「あなたの救いの為に生まれ〜」 牧師 新保雅雄

総督ピラトによって、主イエスは十字架に付けられることが決定しました。そして主イエスに対する陰湿な言動が始まったのです。

兵士たちが主イエスを、総督官邸の中に引いて行きました。兵士たちは、主イエスに向かって「ユダヤ人の王、万歳」と言って、主イエスを拝み、棒でたたき、唾を吐きかけるのです。

自身をつける十字架を死刑場まで運ぶことは、死刑囚の勤めです。しかし主イエスは、前夜から続く取調べと鞭打ちによって、十字架をかつげません。そのとき、ちょうど通りかかったシモンに十字架を担がせたのです。こうして主イエスは、午前9時に十字架にかけられました。罪状書きは「ユダヤ人の王」と記されました。

人々の主イエスに対する仕打ちは、とどまる所を知りません。通りがかった人々は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。 祭司長、律法学者たちも「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。 さらに、一緒に十字架に付けられた犯罪者までののしったのです。

主イエスは、十字架に踏み止まられました。決して、十字架から降りて自分を救おうとは、されなかったのです。  この主イエスの姿を、皆さんはどう思われるでしょうか。自身を救う為ではなく。人を救うために世に来られた、ここに主イエスの愛があります。

使徒信条では、この二つの言葉が続けて記されています。「おとめマリアから生まれ」「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」まるで、生まれたと思ったら、すぐに苦しみを受けたかのように思えてくる。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-09-15 07:32:28 (35 ヒット)

 本日の聖書 マルコによる福音書4章40節

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」

宣教題「人生の荒波」  牧師 新保雅雄

弟子たちは、舟でガリラヤ湖を対岸に漕ぎ出す。その途中で大きな嵐に遭遇する。たとえ、主イエスが共に乗っておられる舟であっても、激しい突風に吹き付けられ、高波が押し寄せてくることがあるのです。

洗礼を受けたから嵐は来ないのでしょうか。残念ながら信仰人生でも順風満帆に過ぎて行くとは限りません。人生の航海において、その半ばまで晴れ渡って、風も無く穏やかに進んでいた。しかし突然、空が曇り嵐になる。自分では、どうにも出来ない力に翻弄され、何も整えることが出来ず、ただ漂っているしか無い状態に置かれることもあるのです。

そんな時「私はクリスチャンだ。洗礼も受けている。なぜこんなにも苦難が襲うのか、神よ」と叫びたくなる。確かに同じ舟に乗っていてくださるイエスが、何もしてくださらないことに苛立つことがあるのです。

まるでこの弟子達の様に、いくら祈っても、主イエスに向かって「わたしがどうなっても良いのですか」と問い詰めたくなることもあるのです

ガリラヤ湖では、確かに、弟子たちは、起き上がった主イエスの一言によって、風が止み、すっかり凪になりました。しかし、時に私たちは、切実なる祈りにも拘わらず、さらに嵐の中に迷い込む経験をするのです。なぜなのでしょうか?

その時、主イエスは、弟子たちに向かって「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。弟子たちは、主イエスに従っているように見えて、実際には、心から信頼しきっていなかったのです。

舟に乗り漕ぎ出すとは、自分の命を神に献さげ任せることです。自分の手から離し切れなければ、嵐は静まらないのです。信頼することです。主イエスを口先だけで語っても、御言葉をお札のように貼っていても、何の効果もありません。自分の命を主に預けることです。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-09-01 07:09:12 (43 ヒット)

 本日の聖書 コリントの信徒への手紙第二11章29節

「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」

宣教題「十字架の痛みを知る」  牧師 新保雅雄

この手紙は、パウロが自身の開拓伝道によって開設した、ギリシャのコリントにある教会宛てに出した手紙です。パウロが留守の間に、偽使徒がやってきて異なった教えを語りました。救われる為には、主イエスへの信仰だけでなく、律法厳守も必要だというのです。

十字架によって罪から解放され、自由にされた兄姉が、再び奴隷にされようとしているのです。そして彼らは、神に選ばれた我々ユダヤ人こそ、最も偉いという横柄な態度を取りました。

コリント教会の信徒たちは、パウロの言葉よりも偽使徒の教えを信じようとしていました。そして彼らは、パウロを愚か者としたのです。危機感を抱いたパウロは、この手紙に「今度そちらに行ったら、容赦しません」13:3と書きしるし、彼らに注意と警告を呼びかけています。その中で今日の御言葉が語られています。

パウロにとって、コリント教会の兄弟姉妹が弱っていることは、他人事として見過ごすことが出来ません。兄弟姉妹が弱っているなら、自分自身も同じように、弱らざるを得ない。パウロは、コリントの兄弟姉妹を自分自身と同じであるといわれています。

本来の福音から離れて、つまずいている人のことも、パウロにとっては自分自身の痛みであり、決して他人事ではないのです。気が気で無く、何とかしたいと立ち上がりました。

何故なら、過去パウロ自身も同じように福音を迫害していた者だからです。しかし神の憐れみによって、救われた経験者だから放っておくことが出来ないのです。かつて自分が犯した過ちを、再び兄弟姉妹が繰り返すことの無いように、パウロは神の愛を語り続けました。コリントの兄弟の痛みは、パウロ自身にも同じ痛みなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-08-25 07:30:40 (57 ヒット)

 


本日の聖書  使徒言行録2章41〜42節

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

宣教題「キリストの教会とは」  牧師 新保雅雄

聖霊の降臨によってなされたペトロの説教によって、「三千人ほど」の人々が悔い改め、洗礼を受けて、新しくエルサレム教会の仲間に加えられました。そして本日の聖句は、その後、キリスト教会が、どのような信仰生活を送っていくのか、教会とは何か、が語られています。

「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)。ここに教会とは何か、教会とは何をするところなのか、教会の本質が記されています。

ではこの「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」とは、どういうことでしょうか。まず「使徒の教え」とは、私たちでいえば「御言葉と宣教」のことです。主イエスが地上で語られた福音、そして主が行われた恵み、その事実を証人が語る証です。中心は「十字架と復活」という救いの宣教でした。

そして「相互の交わり」とは、この御言葉を中心とした交わりです。そして「パンを裂くこと」、つまり聖餐のことです。そして心を一つにして祈る交わりの中に、主イエスは共にいると約束されました(マタイ18章19、20節)。そこがキリストが隣在される教会です。

教会とは、人間的な関係(肉的)での集まりではありません。それはどこまでもキリストを中心とした交わりなのです。ですからこの交わりは、一人一人が御言葉によって成長していくことなしには成り立ちません。礼拝によって一人一人が、信仰の成長を遂げていく必要があります。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2019-08-18 06:57:15 (61 ヒット)

 本日の聖書  使徒言行録6章1〜5節

「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

宣教題「弱者を受け入れる」  牧師 新保雅雄

本日の聖書箇所では、エルサレムに誕生した初代教会が異邦人伝道へ向かう出来事が記されている。異邦人伝道を行うギリシャ語を話すユダヤ人から、12使徒を補佐する7人が選ばれた。

ギリシャ語を話すユダヤ人とは、外国で生まれ育った国際的な教育を受けたユダヤ人、ヘレニストである。ユダヤで生まれ育ったヘブライ語を話すユダヤ人はヘブライストである。彼らは、言葉はもちろんのこと、文化風習や日常生活の習慣にも違いがあった。

特に律法に対する考えに大きな違いがあった。律法について、ヘレニストは、比較的ゆるく自由である。ヘブライストは、厳格に守ることが問われた。クリスチャンが増えていく中で、このような考えの違うグループによる対立が、次第に起こるようになる。

本日の箇所では、ヘレニストから具体的に、食事の配分について不公平だとする苦情が起こる。問題解決に対して使徒たちは、教会が成長していく中で、霊的な資質が低下したことにあると考え、

「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ことができるように、ヘレニストの中から7人の奉仕者を選び「食事の世話」をさせたのです。

ここに教会のあり方を見ることができます。それは「強い者が弱い者を受け入れる」ということなのです。教会は、絶えず霊的な成長を求めること、そして弱い人の意見を大事に聞き受け入れること

その為にあえて弱者を、その中心に置くことになる。


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