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投稿者 : church 投稿日時: 2018-03-18 06:43:46 (55 ヒット)

本日の聖書  ローマの信徒への手紙5章8節

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

教題「私は愛されている」 牧師 新保雅雄

人はあるとき反抗期を迎える。誰しも経験があるのではないでしょうか。生まれて幼いとき、親のもとにあるとき、人生は親の考えに基づく。何事にも疑問をもたず、親を信頼している。

しかし、あるときから「俺はこうだ。」自己を主張したくなる。自我の目覚めである。親の言葉に生きることから、自分の言葉によって生きようとする。そして親への反抗、自分の世界にあこがれ、自由を求めて社会へ出る。人が知恵の実を食べたときである。

神が人を造り、生かし、養い、愛してくださる。何の不自由もない世界。しかし自己を出したくなる。ダメと言われるものは、非常に魅力的に見えてくる。

そして少年は青年になり大人になっていく。社会の厳しさを知る。こんなはずじゃなかった。そんな時、親の愛を思い出す。病気をして、うなされていた時、親は一晩中、寝ないでさすってくれた。その時は知らなかった、いま気がつく、愛されていたのである。

変われるものなら変わってやりたい、祈っていてくれた人がいる。でもその時は気がつかなかった。大人になった今、その事がわかる。わたしは、愛されていたのである。愛されていた時、愛を知ることが出来なかった。愛がない世界で愛を思い出す。

神から離れ旅をする時、そこにあるものは、孤独、挫折、騙し、裏切り、自己中心的な社会。その中に同化してしまう自分を悲しむ。

そしてたどり着いたのは、キリストの十字架の愛であった。神に敵対していた時でさえ、愛してくれていた。神の愛を知るとき、「わたしは一人で生きて来たのではない。多くの人々に支えられて生かされていたんだ。」このことを知る。ああ感謝、感謝!!


投稿者 : church 投稿日時: 2018-03-11 06:41:16 (83 ヒット)

本日の聖書  使徒言行録1:44〜47

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

教題「群れの共有」 牧師 新保雅雄

主イエスが、私たちの罪のために十字架によって死なれ、黄泉に降り、三日目に蘇られました。この神の子イエスによる罪の赦し、死から永遠の命への救いによって、多くのキリスト者が誕生しました。しかしまだまだキリスト者には、大きな迫害がありました。

ペテロ達使徒は、ユダヤ人に何度も捕らえられては牢に入れられ鞭打たれました。しかし、困難に合えば合うほど彼らの信仰は、固くなっていきます。

「世があなた方を憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしが世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネ15:18〜19) 

使徒たちは、この困難によって、主イエスが共におられる、という確信が増々強くなっていくのです。選ばれ集められた主の群れが、キリストの体なる教会になっていく時なのです。

「財産や持ち物を分け合う」それぞれに与えられた財や才能、知恵、力が、自分一人の為ではなく群れのために使われていく。

「毎日ひたすら心を一つにして祈る」主なる神は一人である。真理は一つである。そして祈りも一つになり群れも一つになる。

「一緒に食事をし神を讃美していた」教会の中だけではなく、人生の営みすべてを共有していく。共に泣き共に喜ぶ。

そして集められた「信者たちは皆一つになって」いくのである。

艱難辛苦にあるときこそ、一つになれる時である。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-03-04 06:45:39 (88 ヒット)

本日の聖書  コリントの信徒への手紙1:22〜24

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。

すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

教題「十字架を宣べるとき」 牧師 新保雅雄

パウロは、アジアからヨーロッパへかけて伝道の旅に出て行きます。その行き着いた先々でキリストの十字架を宣教してきました。

しかし、多くの人々はパウロの宣教を聞いて「頭のおかしなおじさん」としか見られませんでした。当然世の知恵で見る限り十字架とは死、すなわち命の終わりを意味するわけですから、その先にある復活の命は、到底理解ができなく、福音とは受け入れられません。

そこでパウロは、キリストの十字架を愚かとしか見ない人々に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものである」と言いました。

では十字架の言葉とはなんでしょうか? 「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、」(15:3、4)  

つまり自分自身の中にある罪の大きさを認めること、弱さを知ることである。そのときあのイエス・キリストの鞭打たれた一本々の傷の痛み、十字架に無残に釘で打ちつけられた醜さと苦しみが、わたしたちの「罪と弱さの姿」であることに気付かされるのです。十字架とは自分自身を飾らず、ありのままに自身の罪を認めることである。そのとき神の赦し、神の愛が見えてくるのです。

福音の宣教、キリストによる救いの証しは、不思議なしるしを見せびらかすことではなく、知恵をひけらかすわけでもなく、十字架の出来事を、伝道者がそのまま現すという方法で行われてきました。

それは、一見愚かなこと、つまらないことのように思えますが、本当は、イエスキリストの十字架の出来事の中にこそ、神の力、神の知恵、さらには神の愛が現されています。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-02-25 07:22:44 (89 ヒット)

本日の聖書  テトスへの手紙2:11〜14

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのためにご自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだったのです。」

宣教題「人世の価値」 牧師 新保雅雄

  人生の意味とは何でしょうか? 人生において何を望んでいるのでしょうか? あなたにとっての人生とは何でしょうか?

  もしも人生が利益だけの追求であれば、なりふり構わず貪欲に人を蹴落としてでも金儲けに励む人が、最も賞賛されるでしょう。

  あるいは人生が、肉の快楽を追求する為であるなら、麻薬や賭け事、酒に身を任せてしまえば満たされるでしょう。

  しかし私達は決してそうはしないんです。なぜなら人生とは、もっと他の価値あるものがあるということを知っているからなんです。

  知ってはいるが、欲望という肉の誘惑は、神と反対側に連れ戻そうと戦いを挑んできます。

  私の友人に麻薬やギャンブル、酒の中毒患者がいます。彼らは、こんなことで人生を終わらせたくないと心では思っています。でも肉体が求めてしまう。パウロが言うまさしく「世の奴隷」の姿です。

  自分の力ではどうしょうも出来ない。神はそのためにイエスキリストの命をわたし達に下さいました。なぜなら神の目に人は、命がけで救う価値ある者なのです。「わたしの目にあなたは価高く、尊く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与える。」イザヤ43:4 ですから私達も人生の重さを知らなければならない。

  あなたの救出の為に主イエスの十字架があることを知るなら、その恵みに感謝して人生を送りたい。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-02-18 07:07:14 (83 ヒット)

本日の聖書  ローマの信徒への手紙5:8,10

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今

は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

宣教題「今救いの中に」 牧師 新保雅雄

パウロは、この短い章の中に繰り返し何度も「キリストが私たちのために死んでくださった」と言われています。

それでは主イエスは、何のために死なれたのでしょうか? 

それは神様の愛をこの地上に現すためだったのです。神様に愛されていることを私たちが深く悟るためなのです。

なぜ愛をこの地上に示さなければならなかったのか?

それはこの世に愛がないからなのです。「あなたに愛はありますか?」と聞かれて、胸を張って「愛する妻や子供の為なら、私は命を捨ててもいい。」と答える方は、沢山いるでしょう。

そんなあなたに主イエスは言われます「愛してくれる人を愛したからとて、何が誇れるでしょうか。罪人でさえ自分の子供の為に命は惜しまない。そんなものは、当たり前の事だ。」

それでは主イエスは、どういう人たちの為に死なれたのでしょうか?

「不信心な者のために」 神さまなんか信じない。宗教は嫌いだ。神頼みはしない。自分自身しか信じない。

「罪人であった人の為に」 神さまから遠く離れている人。すなわち肉体の欲望のままに生きている人。

「敵であった人の為に」 神から離れるどころか、神に対して敵意を持っている人。キリストに攻撃を仕掛ける人。

これはわたし達の以前の姿ではないでしょうか。そんなときでさえ主イエスは、あなたの為に命をかけて愛されました。であるならイエスをわが主と仰ぐ今は、確実に救いの中にいることになるのではないか。栄光在主感謝。

 


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