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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2018-06-03 05:54:21 (33 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書4章18,19節

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

宣教題「主よ、憐れんで下さい」 牧師 新保雅雄

主イエスは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた。その後荒野での40日間に渡る悪魔の誘惑を終えられ、ガリラヤ地方で神の御国について宣教されていました。そして故郷のナザレにおいても会堂で神の御国について教えられました。

その第一声は、旧約聖書のイザヤ書を朗読され、このイザヤ書の預言が実現する。と言われた。その内容とは、「旧約聖書で約束されている救い主は私である。世からの解放、神への回復、欲望からの自由をもたらすために今日私はここに来たのだ。この預言の言葉は、私によって成就(実現)するのだ。」というものでした。

主イエスが使わされた人々は「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人、」などであり、社会的な成功者や地位を持った人、不自由を感じない恵まれた人ではありませんでした。世の中の見方で「成功」「満足」している人たちに、主イエスの救いは、なかなか信じにくく、また必要性を感じにくいものでした。かえって自分達の生活に主イエスの教えは、不自由を感じるものであり腹立たしくさえ思うのです。

皆さんは、自分自身を「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」の問いかけにうなずけるでしょうか?

「こんなどうしょうもない私です。主よ私を憐れんでください。」と言えた時、主イエスの救いは、あなたのすぐ近くにあります。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-27 20:40:23 (35 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書15章5節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

宣教題「生きた木につながる」 牧師 新保雅雄

本来人間とは、私たちが想像する以上に、すばらしい能力と可能性に満ちた、栄光の冠をかぶるすばらしい存在であると伝えています。(詩篇8:6〜9)

しかしまた神から離れた人間は、弱く醜く、知恵を誇り偶像を追い求める存在であるとも伝えています。(ローマ1:21〜23)

つまり人間は神の作り上げた最高の尊い作品であるにもかかわらず、愛に満ちた神の秩序を破壊し堕落したものである、というのが事実なんです。

主イエスは、人間の中にある二面性をブドウの木と枝の喩えで教えられました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)。

もし1本の枝が木につながっていれば、その枝はただの木の棒と違って生きている証しとしての芽をつけ実を結びます。さらにその実は、さらなる命を宿し次の命につなげていきます。本来枝は大変大きな能力を持っている

しかし木につながっていない枝(棒)だけでは、せっかく大きな能力を持っていても、いづれ腐って土になるだけなんです。命の実りを付けることは、不可能なことなんです。結局、生きていけない。

この枝と同様に私たちにも、本来大きな能力が与えられています。それを発揮できるのは、命の源である神と信仰で結ばれることで初めて可能になるんです。枝は自分の力だけでは、必ずや決定的な死という限界にぶつかるんです。神につながっていない人間は、結局腐り堕落して滅びという土くれに向かって行かざるを得ません。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-20 06:59:15 (38 ヒット)

 


本日の聖書  ヨハネによる福音書7章37〜39節

「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」

宣教題「渇いている者私のもとに来なさい」 牧師 新保雅雄

ヨハネによる福音書は、聖霊について、それを象徴的に「水」にたとえている。水は生き物にとって必要不可欠なものです。水はすべての細胞の中にあり、生命の機能を維持するために必要です。

どんな生き物であろうと水が断たれたとき、渇きを覚え、水分の補給を必要とします。このような体の渇きは私たちも経験したことのあるものですが、同時に、この渇きは、人間の心、人格、魂においてもしばしば起こると聖書は語られます。

私たちの霊的な渇きは、何を注ぐことで癒されるのか。それはイエス・キリストにしか満たすことのできないものです。しかし、これを満たそうと人間は、様々なものに、その解決を求めます。  

このような霊的な渇きを癒すために、私たちは偶像を拝み、また自分の欲求のままに振舞います。そして失敗し、前以上に深い渇きに陥ります。そしてまた罪を重ねていくことがあります。

それは悲しいことでありますが世の人々は、その渇きを癒すためにありとあらゆる他の代用物を求めることで、渇きを癒そうと必死なんです。知らないということは悲しいことです。

今朝、キリストにある生涯こそが唯一つの満ち足りた生涯であることを知り、主こそ私たちの真の食べ物、飲み物であり、日々私たちに命を与え、力を与えて下さることに感謝したい。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-13 05:24:04 (43 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書20章31節

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

宣教題「あなたの心をご存知です」  牧師 新保雅雄

弟子のトマスは、主イエスの復活を最後まで信じる事はできなかった。実証主義者と言われ不信仰的に見られています。

「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(1:25〜29)

トマスの心をご存知である主イエスは、トマスに語られました。この御言葉の主題は「見ないで信じる人は幸いである」ということです。この御言葉は、トマスに語られていると同時に、わたし達に向かって語られているメッセージです。トマスの思いはわたし達の思いに最も近いからです。

復活の主イエスは、当時の何人かの弟子達に現れました。しかし、現在まで多くのクリスチャンの前には現れていません。でもこんなにもクリスチャンが多くいるのです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

あなたに必要なメッセージは御言葉の中にあります。トマスの疑問に答えられたように、あなたへも答えを用意しておられます。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-13 05:22:32 (36 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書2章19〜21節

「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。』と言った。イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。」

宣教題「神の宿る宮」   牧師 新保雅雄

ユダヤ人にとって最も大切な過越しの祭りが近づいてきた。地方からも外国からも沢山の人々が、ここエルサレムの神殿へと集まる。

主イエスもペテロ達弟子を引き連れエルサレムの神殿に上られた。そこで見たものは、神に献げる献げ物を売る商人、神殿に献げるお金を両替する両替商の群れであった。そしてそれを買い求め満足する人々、それを受け取り祝福があると説教する祭司達。

その様子をしばらく見ていた主イエスは、商人達の屋台をひっくり返し、お金を撒き散らし、売られている動物を逃がした。

そして「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と叫ばれた。

物やお金を献げることで満足する人々。またそれを公然と当たり前に教える祭司達。健康を手に入れるために、罪の赦しを得るために、永遠の命の保証を確保する為に、そして今年こそは経済の向上を願う。そのために遠くから来て物、金を惜しげもなく献げる。満足を買う者。満足を売る者。でごった返している。

この情景は、私達の周りにも腐るほどある宗教と、それに群がる人々の関係に少しも変わらない。神の家が世俗的な宗教になり下がってしまっている。こんなに献げた。じゃ神は何をしてくれる?  

まさしく神殿の崩壊である。主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われました。ユダヤ人たちは「この神殿を建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。」彼らは、目の前にある見える建物としての神殿を思い描いている。しかし主イエスは、心の中にある神の宿る宮としての神殿を言われている。三日で建て直すと言われた神殿とは、十字架による死からの三日目の復活のキリストのことである。


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