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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2019-02-03 06:40:50 (28 ヒット)

 


本日の聖書  ヨハネによる福音書9:38〜39

彼が「主よ、信じます」と言って、ひざまづくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

宣教題「神を知るとは自分を知ること」 牧師 新保雅雄

生まれついての盲人が、主イエスに癒されて目が見えるようになった。そのことを知ったファリサイ派の人が、真意を確かめる為、癒された人に「どうして見えるようになったのか」と尋ねた。彼は、自分が生まれつきの盲人であること、そして癒されたことの一部始終をお証しする。

しかしファリサイ派の人々は、信じようとはせず、彼の両親を呼び出し、同じ事を尋ねた。両親は「彼が生まれつきの盲人であることは知っているが、誰が、どうやって息子を癒したのか分かりません。これ以上のことは、直接本人に聞いてください。」と言ってお証ししなかった。両親は、ユダヤ人社会からの締め出しを恐れていたからである。

ファリサイ派の人々は、再度、癒された盲人を尋問した。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が、罪ある人間だと知っているのだ」と圧力をかける。しかし彼はファリサイ派の圧力に屈しない。前回以上に「あの方が、神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と力強く神の力によるとお証しした。

ファリサイ派の人々は「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い彼を外に追い出した。結果的に彼は、ユダヤ人社会から罪人として追放されていく。しかし彼は、どんな迫害よりも真実を語ることによって、神が見え、神と出会うのです。

社会の中で、主イエスをお証しする生活をおくる時、社会は、あなたを受け入れないかもしれない。その証しのために不利益をこうむったとしたら、それはイエス・キリストに、より近づいたことになるのです。

あなたにイエス・キリストは言われる。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」


投稿者 : church 投稿日時: 2019-01-27 07:28:42 (39 ヒット)

 


本日の聖書  マルコによる福音書14:18

「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」

宣教題「裏切りと救い」 牧師 新保雅雄

「最後の晩餐」の席で主イエスは言われました。「あなたがたのうちの一人で、一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」この時12弟子の誰もが「自分は裏切りはしない」とは思えませんでした。「もしかして自分が裏切るかもしれない」と心の中で不安がよぎる。それゆえ「まさかわたしのことでは」と、代わる代わる主イエスに尋ねたのです。

楽しい晩餐の席は、一転して緊迫した雰囲気になりました。続けて主イエスは言います。「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」裏切り者は誰なのか。ここで名前は出ません。主イエスを裏切る者の名前が伏せられることで、どの弟子にも主イエスを裏切る心があるということが、あらわになっていきます。

裏切りのユダ以外の弟子たちも、主イエスが捕らえられて行く中で逃げました。この後の22節でペトロは、主イエスのことを3回知らないと裏切りました。同じく弟子達も関係を否定するのです。

主イエスから「生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われるのは、決してユダだけではありません。他の弟子たち全員、また私たちも同じ言葉を聞くべき者なのです。

「生まれなかった方がよかった」最悪な言葉です。しかし、この主イエスの厳しい言葉に、自分を置く時にこそ、救いがもたらされるのです。全人類が主イエスを裏切る。だから全人類への救いがあるのです。いざとなったら逃げ出してしまう。それが私たちの本当の姿なのです。はっきりと心の中がえぐり出されるのです。

自分の罪の大さを知るとき、主イエスの十字架が、自分にとって価値のあるもの、救いという大きな恵みにつながります。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-01-20 08:24:17 (32 ヒット)

 


本日の聖書  マルコによる福音書6:50〜51

皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが船に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。

宣教題「恐れるな私がいる」 牧師 新保雅雄

主イエスは、弟子たちだけを舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸ベトサイダへ向かわせました。弟子たちを乗せた舟は、湖の中ほどまで進んでいきました。穏やかで順調な進みでした。ところが急に逆風が吹いて来ました。舟は風と波を受け、立ち往生してしまったのです。舟に乗り込んでいた弟子たちは、ペトロを初めとして、以前は漁師をしていた者が何人もいましたが、そんな彼らでも激しい逆風と荒波に打ち勝つことが出来なかったのです。

弟子たちは、一晩中、逆風に悩まされ、一向に進むことが出来ずにいたのです。そしてとうとう夜が明ける頃になりました。その時、主イエスは、湖の上を歩いて、弟子たちの所へと向かわれたのです

ところが弟子たちは、湖の上を歩いて来るのが、主イエスだとは分かりませんでした。それより幽霊だと思い、おびえていたのです。

その時、主イエスは、弟子たちに向かって、こう言われました。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

私たちの人生も、弟子たちの舟旅のように、度々、逆風が吹くことがあります。途中まで順調に見えた人生が、まるで逆風が吹き付けてきたように、急に進まなくなり、いくら漕いでも、前に進まなくなることがあります。そんな時、私たちは、進むべき方向や、方法が間違っているのではないかと思い戸惑います。そして、「こんな筈では無かった」と焦り、疲れ、取り乱します。そしてどうしょうもなく人生半ばで、なげだし諦めてしまう。

そんな時、祈って下さい。主イエスは言われます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」世の中の声に振り回され神の声が聞こえ無かったのです。そんなあなたに主イエスは声をかけておられます。すべてを主イエスに委ねてみてはどうでしょうか。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-01-13 06:51:17 (49 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書2:30〜31

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

宣教題「あなたの救いを見た」 牧師 新保雅雄

主イエスが、ベツレヘムでお生まれになってから、40日ほど経った時のことです。クリスマスから数えれば、2月上旬ごろです。

律法によると、男の子を産んだ時には、40日間は、清めの期間とされ、神殿に詣でることが、禁じられていました。 この期間が過ぎたので、早速、マリアとヨセフは、幼子である主イエスを連れて、エルサレム神殿に行きました。 

こうして、マリアたちが、神殿の境内に入っていくと、ちょうど、シメオンという人が、神殿の境内に入って来ました。このシメオンは、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊がとどまっていた」と言われている人です。

このシメオンは、かつて、神が遣わす救い主に会うまでは、決して死なないというお告げを受けていました。 このお告げをシメオンが聞いてから、どれほどの歳月が経ったことでしょう。毎日毎日、この日を待ち続けたことでしょう。そして、遂に、この日、神の導き、引き合わせによって、エルサレム神殿の境内で、シメオンは、待ち望んでいた救い主イエスに、出会ったのです。

この瞬間のために、シメオンは人生を歩んで来ました。実に、救い主と会うことこそ、シメオンにとって、人生の目的となっていたのです。

シメオンだけでなく、本当は、全ての人にとって、救い主と出会うことは、人生の究極の目的となるのでは、ないでしょうか。そして、今や目的を果たしたシメオンは、心から、神を賛美して歌い出しました。 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」人は主と出会うときに、すべての恐れ、疑いから解放される。救いの完成が近いことに、喜びを見出す。死への恐れが消え去るときである。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-01-06 06:10:51 (48 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書11:28〜30

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

宣教題「疲れた者、休ませてあげよう」 牧師 新保雅雄

主イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」現代社会、多くの人が疲れを覚え、重荷を負って苦しんでいるのではないでしょうか。

例えば生活への不安、職場や学校での人間関係の難しさ、家庭内の問題、夫婦、嫁姑、親子関係の悩み、将来への不安もあります。健康の不安、そして死への不安。多くの重荷を負い、心が疲れます。

では主イエスは、どのようにして私たちを休ませ、重荷を取り除いてくださるのでしょうか? 28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」。そして29節「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」

「軛」というのは、牛の首にあてる木です。牛の首に軛を付けて荷物を引かせたり、土を耕したりさせました。つまり、牛を農作業で働かせるための自由を奪う道具です。

私たちは「この世の軛」を首に掛けられて自由を奪われているから、苦しんだり、悩んだり、心が疲れたり、重荷を負ったりするのです。「休む」とは、そういうこの世の重荷、この世のくびき、自分にかけられたくびきが、なくなることが、休まることではないか。そう思うのです。 

ところが、この世のくびきを首にかける代わりに、主イエスのくびきを首にかけなさいと言われるのです。軛がなくなるのではなく、新たに主イエスの軛をかける。とは何故なのでしょうか?


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