本日の聖書 マタイによる福音書8章17節
「彼は わたしたちの患(わずら)いを負い、わたしたちの病を担った」
宣教題「苦難の身代わりの主」 牧師 新保雅雄
主イエスが、ペトロの家に行った時のことです。ペトロの、しゅうとめが、熱を出して寝込んでいました。主イエスは、しゅうとめの手に触れられると、熱が去って、起き上がることが出来るようになり、しゅうとめは、主イエス達一行をもてなし始めたのです。
その日の夕方、うわさを聞きつけた人々が、悪霊に取りつかれた人を大勢、主イエスのもとに連れて来た。主イエスは、姑をいやしたと同じく言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒されました。悪霊は、私たちを神から引き離そうといつも狙っています。
病気が全て、悪霊に因るのではありませんが、悪霊に対して、無頓着であってはなりません。目には見えなくとも、確かに存在するからです。
この悪霊の力は、手を変え、品を変え、神から、私たちを引き離そうとします。また、祈ることを止めさせ、教会や信仰を批判し、神の力を否定する、そして礼拝から遠ざけ肉の思いを助長させるのです。
主イエスの病人への癒し、一見、ご自身は、いささかも傷付くことなく、痛むこともなく、悪霊を追い出し人を癒す神の子、救い主イエス・キリストの姿が示されているように思われます。
しかし、マタイは、苦難の僕として、人を救う主イエスの姿をイザヤ書から引用して明らかにしています。それは、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」主イエスの姿です。
実に、主イエスは、人の病、患い、痛みを、自らの身に引き受けてくださいました。自らが代わりに、その痛みを引き受けてくださることで人を癒されるのです。今病の中に苦しむ人の苦しみは、主イエスはご存じである。身に引き受けられたからです。
ここに、神の愛があります。それは十字架による身代わりの死で示された愛です。
本日の聖書 マタイによる福音書8章8節
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕は癒されます。」
宣教題「信じたとおりになる」 牧師 新保雅雄
ガリラヤ湖の北岸カファルナウムに、主イエスが入られると、百人隊長が主イエスに近付いて来て熱心に願いました。
「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」
主イエスは、言われました。「わたしが行って、癒してあげよう。」
ところが、百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と答えたのです。百人隊長は、自分自身が異邦人であることを意識して、主イエスに家に来ていただくことを断ったのです。
百人隊長は、自らの百人隊長としての経験から語りました。部下の兵士に向かって、「行け」と言えば行き、「来い」と言えば来るのです。また、「これをしろ」と言えば、そのとおりにするのです。百人隊長としての権威が、彼に託されているからです。百人隊長は、主イエスの言葉には権威があり、その言葉が、言葉どおりに実現することを、百人隊長は知っていたのでしょう。主イエスは、この百人隊長に感心して言われました。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
これは私たちへの警笛でもあります。私たちは、救われている恵みに無頓着になり、恵みを感謝する素直な心を失っていないでしょうか。主イエスは、再び百人隊長に向かって言われました。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
ちょうどその時、百人隊長の僕の病気は癒されました。百人隊長が主イエスの言葉を信じた時、僕は癒されたのです。主イエスの御言葉なは、癒しの力と愛と権威があるのです
本日の聖書 マタイによる福音書8章3節
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、皮膚病は清くなった。」
宣教題「愛に触れる」 牧師 新保雅雄
主イエスが、「山上の説教」を終えて山を下りると、一人の重い皮膚病の人が近寄って来ました。そして、こう言いました。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」
これは、何とも遠慮がちな奥ゆかしい、願い事です。もっとストレートに、「主よ、今すぐ、憐れんでください。助けてください。清めてください。苦しいのです。お願いです。」と言って、すがりついても良かったのにと思ってしまいます。
しかし、この言い方にこそ、この人が長年味わって来た苦しみの深さを見ることが出来るのです。この病の苦しみが深過ぎて、この人は、ちょっと遠まわしな言い方になってしまったのです。
当時、重い皮膚病(ハンセン病)は、「病気の苦しみ」と「社会的に阻害される苦しみ」との、二重の苦しみを負わされる病なのです。
この人は、是が非でも清めて欲しいと、願っていたことでしょう。「助けて欲しい」と大声で叫びたくなる気持ちだったでしょう。この病が癒されれば、社会に復帰することが出来る。また、家族や友人の温かいぬくもりに、触れることが出来る。
それにも拘らず、この人は、切実な思いを、真っ直ぐに伝えることが出来ませんでした。人から受け入れてもらえない、ぬくもりから疎外される経験が、積み重なると、人は言葉さえも奪われるのです。
主イエスは、この人に手を差し伸べ、この人に触れ、言いました。「よろしい。清くなれ」この人の深い苦しみが伝わったのです。すると、御言葉と共に、たちまち重い皮膚病は癒され、この人は清くなったのです。主イエスを通して愛が形となって触れた瞬間です。
本日の聖書 マタイによる福音書7章25節
「雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」
あ宣教題「あなたの人生の土台は?」 牧師 新保雅雄
「耳のある者は聞きなさい」(13:9)主イエスは教えを熱心に聞きなさい。たいへん重要なことと言われる。
しかし、聞くだけで終わることなく、それを人生に実践することがあって初めて、それが信仰になるのです。
主イエスは、このことを教える為に、家を建てた二人の人をたとえで語られました。家を何処に建てるかということは、その人の生活の基盤を、何処に何の上に建てているのか。
ここに登場する二人の人は、対照的な場所に家を建てました。一人は、岩の上に自分の家を建てました。がっしりした、堅固な土台の上に家を建てました。ところが、もう一人の人は、砂の上に家を建てました。
しばらくして二つの家を、嵐が襲います。雨が降り、川があふれ、風が、家を目掛けて吹き付けて来たのです。岩の上に建てられた家の方は、岩を土台としているので、激しい雨風に襲われても、倒れることは、ありませんでした。一方、砂の上に建てられた家は、当然のように倒れて、その倒れ方はひどいものでした。
人生の荒波や嵐に襲われた試練の時こそ、何を人生の土台として歩んでいるのかが問われます。それは、普段、意識していないことであるかも知れません。しかし艱難辛苦、試練の時、何に人生の基礎を置き、何を支えに生きているのかが露わになるのです。
私たちは、何に基礎を置き、何を支えに生きているのでしょうか。イザという時に、私たちは、何に頼るのでしょうか。聖書の言葉でしょうか。それとも、この世の知恵や知識や経験、自分の力、能力でしょうか。艱難の嵐に合う時、あなたの土台があらわにされます
本日の聖書 マタイによる福音書7章21節
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
宣教題「主の御心、愛に生きる」 牧師 新保雅雄
主イエスを救い主として信じ教えを守ったとしても、必ずしも全員が天の国に入ることが出来るのでは無い、「神の御心を行う者だけが天の国に入るのだ。」と主イエスは言われます。
(22節)「かの日」すなわち終わりの日、裁きの時、世の人生が終わるとき。主イエスによって一人一人が、天の国に入ることが出来るかどうか、最終的に選別されます。
この時、大勢のクリスチャンがが、主イエスに向かって「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。」
こうして、彼らは、自分たちの信仰生活における実績を持ち出して、天の国へ入る権利を訴えます。
しかし主イエスは、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われます。
何故、彼らは、これほどまでに厳しく言われなければ、ならないのでしょうか? それは、彼らが天の父の「御心を行わなかった」からです。いくら実績を積み上げても、神の御心とは、異なることをしていたのです。世の自分の思いに従って行動していたのです。
残念ながら、クリスチャンとはこうあるべきだ。という、愛よりも出来るか出来ないかを問うクリスチャンが実に多い。
では天の父の御心とは何でしょうか?それは、「隣人への愛」です。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(7:12)これは、「自分自身のように隣人を愛しなさい」ということです。