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投稿者 : church 投稿日時: 2020-08-09 07:19:22 (472 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書9章17節


「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

宣教題「日々新しく」   牧師 新保雅雄

主イエスは、福音を、どう受け止めるべきか、二つの例を語られました。いずれも新しいものと、古いものとの関係を言われています。

一つは、古い服が破れてしまったために、継ぎを当てる時のことです。この場合、わざわざ織りたての新しい布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てますと、新しい布切れがちじみ、服を引き裂き、破れがいっそうひどくなると主イエスは言われます。

一度、洗濯して服が濡れ、乾き始める時に、織りたての布切れは収縮が大きいため、せっかく継ぎを当てても、回りの古い生地が引っ張られ、破れてしまうのです。

二つ目として、新しいぶどう酒を革袋に入れる時のことを語られました。この場合にも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れますと、革袋が破れ、せっかく中に入れたぶどう酒も、流れ出てしまうのです。 

結果として革袋もぶどう酒も、両方とも失われてしまうのです。新しいぶどう酒は、発酵力が強く膨張する為、割れてしまうのです

神の愛を信じる者は、古い生き方から解放され、新しい歩みへと導びかれているのです。主イエスという新しいぶどう酒を受け入れることで、私たち自身が、新しい革袋に作り変えられるのです。

しかし、気が付かない内に、古い革袋は、弾力を失い、新しいぶどう酒を中に納められなくなるのです。無理に入れようとすると、袋が破けてしまうのです。ですから、主イエスの恵みと神の愛を、日々新たな思いで受け止めるためには、私たち自身も、日々新しく作り変えられることが必要なのです。

古い自身のままで主イエスの新しい教えを入れても、葛藤や迷いで自分自身が破けてしまうのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-08-02 07:44:10 (485 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書9章12節


「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」

宣教題「あなたは招かれている」   牧師 新保雅雄

主イエスが、収税所の前を通り掛った時、マタイという人が収税所に座っていました。当時、徴税人は、人々から嫌われた存在でした。 

徴税人が徴税する金額は、徴税人に任せられていました。徴税人が、自分の考えで、多く集めることも、少なく集めることも出来たのです。そのため税金を水増しして徴収し、私腹を肥やしていました。徴税人は、人の弱みにつけ込んで儲けている様に思われました。

また、徴税人が嫌われる第二の理由としては、集めた税金はローマ帝国へ納められました。従って、ローマ帝国の手先であると見なされました。これらの点から、徴税人は、ユダヤ社会において、忌み嫌われ、神の救いに最も遠い存在と見なされていました。

そんな徴税人であるマタイに、主イエスは声を掛けてくださいました。そして「わたしに従いなさい」と言われたのです。

徴税人自身も、忌み嫌われ、救いに最も遠い存在であることを自覚していたことでしょう。金儲けはできるが、そのかわり神からさらに遠ざかっていくように思えた。同朋の友もいなかった。

「どうせ俺なんか神に愛されていない、」という思いを抱いていたマタイに、「わたしに従いなさい」と主イエスが声を掛けてくださった。するとマタイは、立ち上がり主イエスに従ったのです

主イエスの一言は、金に執着する自分を解き放ってくれたのです。

「こんな自分でも受け入れられている」 人は、自分を受け止め、受け入れ、話かけてくれる、また、話を聞いてくれる相手を必要としているのです。孤独からの救い。

マタイは、主イエスこそ、そういう方であると信じて、従ったのです。罪人や徴税人こそ、神の助けを必要としているではないかと、主イエスは言われているのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」


投稿者 : church 投稿日時: 2020-07-26 00:23:05 (481 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書8章34節

「イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った」

宣教題「犠牲」   牧師 新保雅雄

主イエスたち一行が、ガリラヤ湖の向こう岸、ガダラ人の地方に着いた時のことです。主イエスを迎えたのは、悪霊に取りつかれた二人だけです。舟で渡る前は、主イエスたちは、大勢の群衆に取り囲まれていました。ところが渡った岸では、歓迎されませんでした。

主イエスを出迎えたのは、墓場から出て来た、悪霊に取りつかれた二人でした。彼らは、非常に凶暴なので、墓場に隔離された状態になっていたのです。

悪霊たちは、餌をあさっていた豚の群れを指して、主イエスに、こう願い出ました。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ。」

主イエスは、この悪霊の願いを聞き入れられました。そして、悪霊に向かって、主イエスは、「行け」と言われたので、悪霊たちは、抵抗することもなく、二人から出て、豚の中に入り、豚はみな、崖を下って湖になだれ込み、死んでしまったのです。

これを見ていた豚飼いたちは、町に行って、このことを知らせました。このいきさつを知った町の人は、主イエスに、この地から出て行ってもらいたいと言ったのです。せっかく、主イエスは、悪霊を追い出し、町に平和をもたらしたのです。それなのに、町の人たちは、主イエスを追い出そうとしているのです。

この町の人々は、悪霊に取りつかれ、苦しんでいる人がいても、犠牲を払ってでも、何とか悪霊を追い出し、その人を救おうという心を持っていません。自分たちの利益が優先するのでした。

一方、主イエスは、苦しむ人をほうっておくことはされません。自己を犠牲にしてまでも私たちを救われる。ここに神の愛があります。 


投稿者 : church 投稿日時: 2020-07-18 23:37:40 (523 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書8章26節


「イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」

宣教題「船出」   牧師 新保雅雄

主イエスは、弟子たちに向かって、ガリラヤ湖の向こう岸に行くように、命じられました。ここには、主イエスによって病気を癒していただいた人々で溢れています。弟子たちにとってみれば、ここは居心地の良い場所です。ちょうど教会のような所です。

ところが、主イエスは、こうした居心地の良い場所に、弟子たちが留まることを、お許しになられませんでした。そして、弟子たちを追い立てるように、向こう岸へ行くようにと言われたのです。

その時、律法学者が、主イエスに近付き言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」

対して、主イエスは、答えました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

主イエスに従うことが、決して生易しいことでなく、寝る場所さえ無いほどの厳しさを覚悟しなければならないのだと、言われたのです。確かに、自分の思いを、神に明け渡し、主イエスの導きに素直に従うことは、口で言うほどには、簡単なことではありません。

それでも、主イエスは、「わたしに従いなさい」、「向こう岸へ行きなさい」と、弟子たちに言われます。そして主イエスが舟に乗り込まれ弟子たちも従いました。その時、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうです。弟子たちは、眠っている主イエスを起こすと訴えました。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」

主イエスは、起き上がって、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」そう言われ風と湖をお叱りになると、嵐は止み、すっかり凪になったのです。主イエスの一声で風が止み、穏やかさが戻って来たのです。あなたの人生の船には、主イエスが共におられるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-07-12 07:32:44 (533 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書8章17節

「彼は わたしたちの患(わずら)いを負い、

わたしたちの病を担った」

宣教題「苦しみの主」  牧師 新保雅雄

主イエスが、ペトロの家に行った時のことです。ペトロの、しゅうとめが、熱を出して寝込んでいました。主イエスは、しゅうとめの手に触れられると、熱が去って、起き上がることが出来るようになり、しゅうとめは、主イエス達一行をもてなし始めたのです。

その日の夕方、うわさを聞きつけた人々が、悪霊に取りつかれた人を大勢、主イエスのもとに連れて来ました。主イエスは、同じく言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒されました。

病気が全て、悪霊に因るのではありませんが、悪霊に対して、無頓着であってはなりません。目には見えなくとも、確かに存在するからです。  

この悪魔は、手を変え、品を変え、神から、私たちを引き離そうとします。つまり祈ることを止めさせ、教会や信仰を批判し、神の力を否定し、救いなどはないと言う。肉に頼るべきとする思いを助長させるのです。

主イエスの病人への癒し、一見、ご自身は、いささかも傷付くことなく、痛むこともなく、悪霊を追い出し人を癒す神の子、救い主イエス・キリストの姿が示されているように思われます。

しかし、マタイは、苦難の僕として、人を救う主イエスの姿をイザヤ書から引用して明らかにしています。それは、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」主イエスの姿です。

実に、主イエスは、人の病、患い、痛みを、自らの身に引き受けてくださいました。自らが代わりに、その痛みを引き受けてくださることで人を癒されたのです。病の中に苦しむ人の苦しみは、主イエスはご存じである。

 ここに、神の愛があります。それは十字架による身代わりの死で示された愛です。


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