本日の聖書 マタイによる福音書9章20節
「十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである」
宣教題「御手の中にある命」 牧師 新保雅雄
指導者が、主イエスにの前にひれ伏し、「私の娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。」と願い出ました。主イエスは、この父親の思いに動かされ、父親に付いて行きました。
そこへ行く途中、12年間、出血が続いている女性が近寄って来ました。当時、出血が続くことは、宗教的に汚れたことと見なされていました。そのため、この女性は、病気自体の苦しみに加え、宗教的、社会的に疎外される二重の苦しみを受けていたのです。
そのため、この女性は、正面から主イエスに願い出ることを避け、後ろからそっと、主イエスの服の房に触れました。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからです。
その事を知った主イエスは、この女性に言われました。
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
この女性の切実な思いを、主イエスは、これこそ信仰だ、この信仰によって、あなたは救われたと言われたのです。
この瞬間、この女性を長年苦しめた病が癒されました。そして、再び社会に、戻ることが出来たのです。
その後、主イエスは、指導者の家に着かれました。そして「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。すると少女は、まるで眠りから覚めたように、起き上がったのです。こうして、主イエスの御手を通して、少女に再び命が与えられました。
人目を避け主イエスに触れて癒された女性、公言して主イエスに触れられ生き返る少女、あなたの命は主の御手の中にある。
本日の聖書 マタイによる福音書9章17節
「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
宣教題「日々新しく」 牧師 新保雅雄
主イエスは、福音を、どう受け止めるべきか、二つの例を語られました。いずれも新しいものと、古いものとの関係が示されています。
一つは、古い服のどこかが破れてしまったために、継ぎを当てる時のことです。この場合に、わざわざ、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てると、新しい布切れがちじみ、服を引き裂き、破れがいっそうひどくなる。
つまり一度、洗濯して、服が濡れ、乾き始める時に、織りたての布切れは収縮の度合いが多いため、せっかく継ぎを当てても、回りの古い生地が引っ張られ、破れてしまうのです。
二つ目として、新しいぶどう酒を革袋に入れる時のことです。この場合も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、革袋が破れ、せっかく中に入れたぶどう酒も、革袋も、両方とも失われてしまうのです。新しいぶどう酒は、発酵力が強く膨張するから入れ物を引き裂いてしまうのです。
神の愛を信じる者は、古い生き方から解放され、新しい歩みへと招かれているのです。主イエスという新しい教えを、古い体質のままではなく、新しい体質に受け入れることが必要です。
古い体質のままで教えを受け入れようとすれば、弾力を失い、新しい教えを納められなくなるのです。無理に入れようとすると、袋が破けてしまうのです。ですから、主イエスの恵みと神の愛を、受け止めるためには、私たち自身も、新しく作り変えられることが必要なのです。
古い自身のままで主イエスの新しい教えを入れても、葛藤や迷いで自分自身が破けてしまう。ここに信仰のつまづきがあります。
本日の聖書 マタイによる福音書9章12節
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」
宣教題「あなたは招かれている」 牧師 新保雅
主イエスが、収税所の前を通り掛った時、マタイという人が収税所に座っていました。当時、徴税人は、人々から嫌われた存在でした。
徴税人が徴税する金額は、徴税人に任せられています。徴税人が、自分の思いで、多く徴税することも、少なく徴税することも出来たのです。そのため税金をごまかして徴収し、私腹を肥やしていました。徴税人は、人の弱みにつけ込んで儲けていたのです。
また、徴税人が嫌われる第二の理由としては、集めた税金はローマ帝国へ納められました。従って、ローマ帝国の手先であると見なされました。これらの点から、徴税人は、ユダヤ社会において嫌われ、神の救いに最も遠い存在と見なされていました。
そんな徴税人であるマタイに、主イエスは声を掛けたのです。そして「わたしに従いなさい」と言われました。
徴税人自身も、ユダヤ社会から嫌われる存在であることを自覚していたことでしょう。金儲けはできるが、それと引き換えに神から遠ざかっていくように思えた。同朋の友もいなかった。
「どうせ俺なんか神に愛されていない、」という思いを抱いていたマタイに、「わたしに従いなさい」と主イエスが声を掛けてくださった。するとマタイは、立ち上がり主イエスに従ったのです
「こんな自分でも受け入れられている」という思いをうけたのです。人は、自分を受け止め、受け入れ、話かけてくれる、また、話を聞いてくれる相手を必要としているのです。
マタイは、主イエスこそ、そういう方であると信じて、従ったのです。罪人や徴税人こそ、神の助けを必要としているではないかと、主イエスは言われているのです。まさにこのマタイこそ「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
本日の聖書 マタイによる福音書8章34節
「イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った」
宣教題「救いと犠牲」 牧師 新保雅雄
主イエスたち一行が、ガリラヤ湖の向こう岸、ガダラ人の地方に着いた時のことです。主イエスを迎えたのは、悪霊に取りつかれた二人だけでした。舟で渡る前は、主イエスたちは、大勢の群衆に取り囲まれていました。ところが渡った地方では歓迎されませんでした
出迎えたのは、墓場から出て来た、悪霊に取りつかれた二人でした。彼らは、非常に凶暴なので、墓場に隔離された状態になっていたのです。
悪霊たちは、豚の群れを指して、主イエスに、こう願い出ました。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」
主イエスは、この悪霊の願いを聞き入れられました。悪霊に向かって、主イエスは、「行け」と言われたので、悪霊たちは、抵抗することもなく、二人から出て、豚の中に入り、豚はみな、崖を下って湖になだれ込み、死んでしまったのです。
これを見ていた豚飼いたちは、町に行って、このことを知らせました。その知らせを聞いた町の人は、主イエスに、その地方から出て行ってもらいたいと言ったのです。
せっかく、主イエスは、悪霊を追い出し、町に平和をもたらしたのに、町の人たちは、主イエスを追い出そうとしているのです。
この町の人々は、悪霊に取りつかれ、苦しんでいる人がいても、悪霊を追い出し、その人を救おうという心を持っていません。隣人への愛よりも自分たちの利益が優先するのでした。
一方、主イエスは、苦しむ人を、ほうっておくことは、ありません。自己を犠牲にしてまでも私たちを救われる。
ここに神の愛があります。
本日の聖書 マタイによる福音書8章26節
「イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」
宣教題「主が共におられる」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちに向かって、ガリラヤ湖の向こう岸に行くように、指示されました。ここ湖畔には、主イエスによって病気を癒していただいた人々で溢れています。弟子たちにとってみれば、救い主の弟子として尊敬、歓迎され、ここは居心地の良い場所です。
ところが、主イエスは、こうした居心地の良い場所に、弟子たちが長く留まることを、許しませんでした。そして、弟子たちを追い立てるように、ここから向こう岸へ行くようにと言われました。
その時、律法学者が、主イエスに近付き言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」
主イエスは、答えました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
主イエスに従うことが、決して生易しいことでなく、寝る場所さえ無いほどの厳しさを覚悟しなければならないのだと、言われたのです。確かに、自分の心を、神に明け渡し、主イエスの導きに素直に従うことは、口で言うほど簡単なことではありません。
それでも、主イエスは、「わたしに従いなさい」、「向こう岸へ行きなさい」と、弟子たちに言われました。そして主イエスが舟に乗り込まれ弟子たちも従います。その時、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうです。弟子たちは、眠っている主イエスを起こすと訴えました。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」
主イエスは、起き上がって、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」そう言われ風と湖をお叱りになると、嵐は止み、すっかり凪になったのです。主イエスの一声で風が止み、穏やかさが戻って来たのです。あなたの人生の船には、主イエスが共におられるのです。