本日の聖書 マタイによる福音書10章 28節
「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」
宣教題「何を恐れるのか」 牧師 新保雅雄
主イエスは、12弟子を福音伝道へ送り出すに当たり、「人々を恐れてはならない」(26節)、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)、「だから、恐れるな」(31節)と何回も「恐れるな」と繰り返し言われました。
親しい人や教会に来会する人に、神様のお話をすることは、そう難しいことではありません。しかし、こちらから出かけて行って、理解のない人や、初めての人に、神様のお話をすることって、大変勇気のいることです。主イエスに派遣される弟子たちも、おそらく心の中は、大変不安であり「恐れ」があったろうと思います。
それでは一体、私たちは、何を「恐れて」不安になるのでしょうか。世間体でしょうか、自分の評判でしょうか、人から文句を言われることでしょうか。あるいは批判を浴びること、恥ずかしさでしょうか。確かに宗教というだけで、嫌な目で見られることがあります。
心では愛する父なる神のお話をしたい。本当の心の安らぎ癒しを、多くの人にも味わってほしい。一緒に祈ろう。心ではそう願うのです。しかし肉体的な思い、社会的な思いが、不安や恐れを覚える。
そんな不安でいっぱいな弟子たちに、主イエスは「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」と言われるのです。
神との関係においては、愛することと、恐れることの両面が大切です。神への恐れの無い愛は、かえって神との関係を歪めてしまいます。神を恐れる者は、他の何者をも恐れる必要がありません。ですから、体しか殺すことの出来ない者に、魂までも売り渡しては、ならないと言われているのです。
本日の聖書 マタイによる福音書10章 16節
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように、賢く、鳩のように素直になりなさい。」
宣教題「鳩のように、蛇のように」 牧師 新保雅雄
主イエスは、ご自分が選ばれた12弟子を、福音伝道に遣わすに当たり、様々な注意を与えられました。福音伝道は、決して簡単ではありません。弟子達を待ち受けているのは「狼の群れに羊を送り込むようなもの」なのです。では何故そのような中に、弟子たちを遣わすのでしょうか。
弟子たちを派遣するきっかけとなったのは、「群衆が飼う者のいない羊のようであった」からなのです。飼う者がいない羊は、狼や猛獣の餌食になっているのです。そこから一人でも多くの羊を救うためなのです。
だからそこへ遣わされる弟子達も、狼や猛獣の群れの中に入っていくことになるのです。しかも彼ら自身も弱い羊なのです。だからこそ主イエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われている。
では蛇のように賢くとは何か。このあと主イエスは「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と言われます。ここに蛇の賢さがあります。蛇が危険を察知して逃げていくように、逃げることも賢さなのです。相手が嫌がり敵対しているのに、何とかねじ伏せようとする。自分の行っていることは正義、真理なのだ。それではダメなのです。
主イエスの教えは、本当に素晴らしい。だから誰もが喜んでそれを受け入れてくれるはずだ。それはとても素晴らしい考えかたです。しかし、実際に福音伝道を行うとき、そう簡単ではないことに気づくでしょう。
当時、主イエスに対する熱狂的な信仰が群衆の中にありました。しかし、それ以上に、主イエスに対する反感も多々ありました。信仰が熱すぎるあまり、福音伝道が行き過ぎてしまう、そして余計に反感を高めてしまう。だからこそ弟子たちには、「蛇のように賢く、鳩のように素直になる」ことが求められているのです。
本日の聖書 マタイによる福音書10章 1節
「 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、
汚れた霊に対する権能をお授けになった。
宣教題「主に力を頂く」 牧師 新保雅雄
ここには、12使徒の名前が記されています。最初の4人、ペトロと、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ、彼らはもと漁師です。マタイは、ローマに仕える徴税人でした。シモンは、ローマ帝国からの独立をねらう過激な政治団体、熱心党の党員です。本来、彼らは一緒に活動が出来ないような人たちの集まりでした。
主イエスによる12使徒の選び方には、ただ一点重要な意味があります。それは自分ではなく主を誇る者であるということです。この世の地位や肩書き、能力に選ばれる基準があるのではありません。むしろ、何もない救いを求める飢え渇きにこそ、その選びの基準があるようです。
つまり自らの能力や実績や成果を誇ることの出来ない者であること、だからこそ神の恵みによって、自分が生かされ、用いられている、ことを知っている。このことが弟子には欠かせないのです。
主イエスは、こうして選んだ12人を福音宣教の旅へと派遣されました。そして金銭も下着も、履物も杖も一切持たずに行くようにと指示されたのです。使徒たちは不安だったことでしょう。しかし、派遣された現場で使徒たちは、不思議にも必要なものを備えてくださる主の導きを体験するのです。
何も持ち得ない時、不安がつのります。しかし、それだからこそ神に心から真剣に依り頼むことができる。逆に沢山のものを持ち得ているとき、自分の力、能力、財力に過信してしまいます。その時、神に何を願い祈るのでしょうか。
私たちも12使徒のように、たとえ身支度が十分で無いと感じる中にあっても、備えて下さる主に依り頼みながら証し人でありたい。
自分の力では、どうにも出来ないとき、何も持ち得ない、その時こそ求める時、祈りの時であり、主の救いの奇跡に出会うときです。
本日の聖書 マタイによる福音書9章 37,38節
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
宣教題「神のご奉仕」 牧師 新保雅雄
「収穫」とは、終わりの日、裁きの時のことです。つまり主イエスによって人が救われる時のことを言います。そして「収穫は多いが、働き手が少ない」ということは、福音を必要としている人、救われるべき人は多いが、こうした人々が救われるために、神様の手足として働く人が少ないということです。
教会の働き、奉仕において、時に人手不足を実感することがあります。そんな時に、教会奉仕の忙しさに疲れて来ると「何故、自分だけ、こんなことをしなければならないのか。あいつは何にもしない。」「私ばっかり献金を守っている。あの人はしない。」と人の批判や愚痴を言いたくなる心が、湧き上がってくるときがあります。
主イエスは、言われます。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」願うとは、神に祈ることです。
つまり、人の批判をしたり愚痴を言う前に、まず神に祈ることの方を優先するべきだと言われるのです。愚痴るより、まず祈ることです。
神は必要とあらば、御子イエスさえ、惜しまず十字架の死に渡してまでも、私たちを救おうとされる方です。そうであれば、なおさら神は、私たちに必要なものは、ご存じであり、必要な時に惜しまず与えてくださるのです。
そうであるならば、主イエスを信じ、必要なことは、ひたすら神に祈ることです。もともとこの働き事態が、神のためのものなのですから。そして神が、私たちを用いて救いの働きをさせておられるのです。
神の働きのために神と共に働くこと、この幸福感を体と心で手に入れてください。愚痴りたくなったら、まず祈ってみて下さい。必ず、答えが得られるはずです。神は、神のために働く者を、決して飢えさせず捨ててはおかれません。
本日の聖書 マタイによる福音書9章20節