本日の聖書 ヨハネによる福音書6章51節
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
宣教題「わたしは復活であり命である」 牧師 新保雅雄
主イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(11:25)
私達の神は、死んで人の手で石や木に刻まれたり、紙に墨で書かれた神ではありません。それらは、人間の手によって造られた作品です。ましてや太陽や月、山河といったようなものでもありません。
それらは神ではなく、神によって創造された被造物、作品なのです。被造物や人の手の作品を信じて何の益があるでしょうか。
神の作品を信じるのではなく、神そのものを信じるとき人知では計り知れない益があるのです。それが奇跡といわれるものです。私達の神は、死んだ神ではなく、死んで甦られた生きた神なのです!
八百万の神といわれるように、世には、その数だけの沢山の苦しみや悩みがあります。しかし、本当の神を知らない人間は、様々な偶像を作り出し益々悩みの中に、入り込んでいくのです。そして救いが肉の欲望の満たしのようになっていくのです。まことの救いとは、人の努力では手に入らない、神によるあなた自身の命なのです。
主イエスは言われます「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マタイ16:26)神は、天上高くから「こうしろあうしろ、わたしを信じなさい。ここに昇って来なさい」とは言われません。神御自身が天から世に降られて人となられ、自らが「神を信じる生き方とは、こういう生き方だよ。」とわたし達に真の神を示されたのです。ここに神の愛があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)生きるとは、何か? それはキリストが示されました。
本日の聖書 マタイによる福音書27章1〜4節
夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
宣教題「あなたには主の教会がある」 牧師 新保雅雄
主イエスは、夜の間に逮捕され、大祭司の屋敷で行われた最高法院による裁判によって、死刑の判決をうけました。しかし死刑にする上では、もう一つ、別の手続きが必要でした。ユダヤ最高法院には、死刑にする権限がなかったのです。当時、ユダヤはローマ帝国によって支配されていました。その為ローマ帝国から派遣されていたユダヤ総督ピラトに死刑を実行する権限があったのです。
それで夜が明けると、最高法院のメンバーである祭司長たちは、相談して、主イエスを殺すことを確認した上で、主イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに引き渡し死刑の許可を得たのです。
一方、主イエスを裏切り、引き渡す手引きをしたイスカリオテのユダは、主イエスに死刑の判決が下ったことを知ると後悔し、受け取っていた銀貨30枚を祭司長たちに返そうとしました。ユダが祭司長たちに、主イエスを引き渡す報酬として、受け取る約束をしていた銀貨でした。
ところが、祭司長たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言い相手にしません。追い詰められたユダは、銀貨を神殿に投げ込んで首をつって自殺しました。痛ましい最期です。
時として私たちも、神よりお金に心を奪われることがあります。このユダの行為を非難できない。私たちも知らず知らずの中に、神を裏切っているんです。自分の中にある醜い心に気が付いたら、悔い改め、主に祈って下さい。ユダは主イエスが捕らわれ救いを求められず死を選んだ。今私達には、主イエスが聖霊となられた教会があるんです。求めて下さい、必ず救われます。
本日の聖書 サムエル記下1章1〜25節
すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。
ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。(ダビデは断食し悔い改めるが子は死ぬ)
ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところにはいり、彼女と寝た。彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名づけた。主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。
宣教題「罪と赦し、ソロモン王の誕生」 牧師 新保雅雄
イスラエルの王ダビデは、部下ウリヤの妻バテ・シェバに心とられ、彼を戦争の最前線に送り出し殺した。そして彼の妻バテシエバを自分のものとした。神は王であっても罪を赦さない。神は預言者ナタンをダビデの下に遣わし、金持ちの男の罪深い狡猾な行為を語る。
ダビデ王は怒り語る「そんなことをした男は死罪だ」。ナタンはいう「その男はあなただ」。ダビデは言う「私は主に罪を犯した」。ナタンはダビデに言った「生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」王は断食し悔い改めるが、バテシェバとの間に生まれた子は死んでいく
その後ダビデの長子アムノンは次男に殺され、次男アブサロムは反乱を企て戦死。ダビデ家には、争いが絶えず。子は憎しみ合い死んでいく。その時に詠んだ詩が本日交読した(詩編51編)です。
しかし神はこのままにされない。バテシェバとの間に子をもうけさせた。その子がダビデ王の後を継ぐ、あの二代目の王ソロモンになっていく。神はその子を愛され「エディドヤ」と名づけさせた。
「エディドヤ」とは、「主に愛された者」。と言う意味である。
皆さんは、ダビデ王の罪、ソロモン王の誕生、どう感じたでしょうか? 罪と悔い改め赦し、死と復活。次週から受難週・復活祭です。
本日の聖書 コヘレトの言葉1章1〜7節、12章14節みな空しく、風を追うようなことであった。
宣教題「何を希望に生きるのか」 牧師 新保雅雄
あのダビデ王の息子、二代目ソロモン王、絶大な栄華を極めたソロモン王は言う「何をしても空だ。人生は空しい。」
いずれ人は死を迎える。人を愛すれば愛するほど、いずれ来る死を思うと苦しくなる。真面目に生きれば生きるほど、死で終わることを思うと、馬鹿らしくなる。今夢中でやっていることは、何なんだろうか? 死で全ては終わるとしたら、何をしても空しくなる。投げ出してしまいたい。人は裸で生まれ、また裸で帰っていく。
人を愛したくない、夢中で生きることもしたくない。大切な人を夢中で愛するとき、その先に大きな悲しみがいつか来ることを知る、あまりにも空しい。愛するとは何なんだろうか。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に」(12章)
主イエスは言われる、「私を信じて着いて来なさい。死に打ち勝った。恐れることはない、死は通過点だ。」死で全てが終わるわけではない。そのことを、希望を教えに来られたのが、主イエスキリストである。そして私たちは永遠の世界、永遠の命、神を知る。
信仰とは生きる希望を確信することである。ああ感謝・・
主命讚美