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投稿者 : church 投稿日時: 2020-12-06 07:47:14 (514 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章43節

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。」

宣教題「キリストの愛を咲かせる」  牧師 新保雅雄

私たちが家の掃除をするのは、お客さんを迎えるためであって、泥棒や空き巣を迎えるために、掃除をするのではありません。しかし、この家にやってきたのは、お客さんではなく悪霊だったのです。

ここで言う「掃除をする」とは、一生懸命に律法を守ろうとすること、悪霊というゴミを外へ掃出し捨てることです。それは、自分の心を整えて、キリストを迎え入れるためです。つまり彼らは、キリストをお迎えするために、一生懸命、掃除をしていたのです。

ところが、いざキリストが来られたとき、「おまえはキリストではない。おまえは救い主ではない。」と言って、家の中に入れようとはしなかった。だから空家のままになっていたのです。

そこへ以前、掃除して追い出した悪霊が戻ってきた。そこは空き家になっていた。しかも掃除がしてあった。こんな都合の良いことはない。それで悪霊は仲間を呼んできて、掃除をした前よりも、多くの悪霊が住み着き、前より悪い状態となってしまったのです。

「神様に対して罪を犯さないようにしよう」と一生懸命になり、罪という雑草を抜き続ける。しかし抜いても抜いても、罪の雑草は生えてくる。それでますます意地になって罪の雑草を抜き続ける。

いったい何のために、罪の雑草を一生懸命になって抜くのか?

雑草を抜くのは、そこに色とりどりの花を咲かせるためなのです。

教会に行くようになり、自身の心の中の罪を見つけ、悔い改めたのなら、そのあとに主イエスの愛の種を蒔いてください。掃除されたあなたの心に主イエスを迎えて、愛の花を咲かして下さい。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-11-22 06:50:11 (550 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章28節

「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

宣教題「神の国はあなたの中に」  牧師 新保雅雄

主イエスのところへ、悪霊に取りつかれ、目が見えず、口の利けない人が連れられて来ました。いつものように主イエスによって癒されて、この人は、ものが言え、目が見えるようになりました。

それを見ていた群衆は大変驚き、『この人はダビデの子ではないだろうか』と叫んだのです。「ダビデの子」というのは、ユダヤ人が待ち望んでいるメシア、キリスト、救い主のことを意味します。

ところがファリサイ派の人々は、主イエスの行った奇跡の癒しを、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」と言うのです。  まるで主イエスが、悪霊の頭ベルゼブルの手下ででもあるかのように言ったのです。

主イエスは、ファリサイ派の人々に対して、私がもし、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うならば、あなたたちの仲間は、何の力で悪霊を追い出すのか。と逆に問われました。

彼らは、主イエスを通して成し遂げられた神の奇跡を、素直に受け止めようとせず、悪霊の頭の力を借りて、悪霊を追い出したかのように、まるでサタンの国で起きた出来事のように、ファリサイ派の人々は、主イエスに迫っているのです。

さらに主イエスは、ご自分に敵対するファリサイ派の人々にも「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」28節と言われました。

既に、わたし達の中に神の国は、来ているのです。更に、キリストを信じない人の上にも神の御国は、来ているのです。すべての人の上に神の恵みが降り注いでいます。どうか心を開いて手を差し出してください。誰でも神の恵みを受け取る事が出来ます。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-11-15 07:30:02 (601 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章34節

「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」

宣教題「言葉は心を現す」  牧師 新保雅雄

主イエスは、悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人を癒されました。しかしファリサイ派の人々は、その癒された出来事を、主イエスが悪魔の仲間であるかのように騒ぎ立てました。

なぜファリサイ派の人々は、ハンディを持った人が癒されたのに、それを素直に認めることは出来ないのでしょうか。主イエスが、どんなにいい奇跡を起したとしても、あらを見つけようとするでしょう。なぜならファリサイ派の人々の心には、主イエスに対する殺意があったからです。心の中にあるのもが言葉となって口から出たのです。

主イエスは、いわれました。「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」と言われたのです。木というのは、心のことであり、実というのは、口から出る言葉のことを表しています。

つまり、「心が良ければ、その口から出て来る言葉も良いし、心が悪ければ、その口から出て来る言葉も悪い。心の良し悪しは、その語る言葉で分かる。」と言われているのです。 

果たして、私たちの心には、何があるのでしょうか。「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和 」な心でしょうか。(ガラテヤ5:22)それとも、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」な心でしょうか。(同5:20)

「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」改めて、言葉の重みを考えさせられます。言葉をいくら着飾ったとしても、メッキはすぐ剥げてきます。まず自身の心を神に開くことです。そして内から変えていただくことです。

心が美しいならば、目で見える外側も魅力ある人になるでしょう。そのためには、神へ心を開いてください。開くとは、本当のあなたを正直に告白することです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-11-08 06:44:40 (522 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章20,21節

「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」

宣教題「希望の主」  牧師 新保雅雄

主イエスは、ファリサイ派の人々が、自分に殺意を抱いたことを知ると、争いを避けるように、その場を立ち去られました。ファリサイ派の人々との論争に時を使うよりも、傷付き苦しんでいる人々を救うことにこそ、時を用いようとされたのです。

そんな主イエスの後を追うように、大勢の群衆が付いて行きました。すると、主イエスは、彼らに病気を癒したことを言い触らさないように、と口止めされたのです。

主イエスは、以前にも重い皮膚病の人を癒された時に「だれにも話さないように気をつけなさい」(8:4)と口止めされました。

主イエスは有名になりたい訳でも、人から、ほめられ尊敬されたいわけでもありません。ただ、ひたすら、苦しむ人々を救うことに専念したいのです。だからこそ、御自分のことを言い触らさないようにと、口止めされたのではないだろうか。

また、人々の病を癒す奇跡だけが、主イエスに託された務めでは、ありません。むしろ、神に背き、神を忘れ、自分の都合ばかりを優先する人々に、神がおられること、そして神は一人一人を愛しておられることを伝え、一人でも多くの人が、神に立ち帰るようになることこそが、神から主イエスに託された最も大きな務めでした。

だからこそ、主イエスは、「人を癒す、奇跡を行う人」というイメージだけが、先行して一人歩きすることを避けるために、御自分のことを言い触らさないようにと戒められたのでした。

マタイによる福音書は、このような主イエスへの希望を、預言者イザヤの言葉(イザヤ書42章1〜4節)を引用して明らかにしています。(マタイ12章18〜21節)


投稿者 : church 投稿日時: 2020-11-01 06:28:05 (529 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章7節

もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。

宣教題「裁きではなく憐れみの心を」  牧師 新保雅雄

安息日に、主イエスと弟子たちは、麦畑を通られました。その時、空腹であったので、麦の穂を摘んで食べました。その様子を見ていたファリサイ派の人々は「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と主イエスを批判しました。

ファリサイ派の人々は、麦の穂を摘むことは「収穫という労働」になるので、安息日には禁じられているというのです。対して主イエスは、こう言われました。かつてダビデ王が、自分も供の者たちも空腹であった時に、祭司のほかには食べてはならない、供えのパンを食べたこと、さらに安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないではないか。

主イエスの弟子たちは、祭司が神殿に仕えるように、キリストに仕え福音に生きる人々に救いをもたらせるのであるから、祭司に認められているなら、私の弟子たちにも認められて当然であるという。

さらに「わたしが求めるものは憐れみであって、いけにえではない」あなた方ファリサイ派の人々が、主イエスの弟子たちを非難するのは、憐れみの心が無いからだと言われました。

時に、信仰への熱心さ、真面目さから、原理原則論が信仰のすべてであるような、信仰とはこうあるべきだ。このことが弱い者を非難していくということにつながっていく。教会が弱い人への優しさや配慮を失い、憐れみを捨て、人を裁くことに熱心になっていく。

勿論、原理原則は重要です。しかし、白か黒かで人を縛るのではなく、出来ない人を受け入れることが大切なのです。世間で落ちこぼれて宗教の門をたたいたのに、そこでもふるいにかけられ落ちこぼれていく、彼らは、いったい何に誰に、すがればいいのだろうか。少なくとも落ちこぼれを非難するのが宗教ではないはずです。


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