本日の聖書 使徒言行録4章10節〜
あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。
宣教題 「この喜びを多くの人々に語りたい」 牧師 新保雅雄
先週からの続きです。エルサレム神殿の「美しい門」で「生まれながらに足の不自由な人」を癒したペトロとヨハネは、「祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人々」、つまりユダヤ人指導者に逮捕され、留置場に一晩、留置されてしまいました。
逮捕の理由は、十字架にかけられた主イエスの復活を、神殿で堂々と語っていたからでした。
「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)。ユダヤ当局からの逮捕、留置という出来事にもかかわらず。聞いていた人々は、益々「イエス・キリストによる救い」を信じてキリスト者になっていくのです。
神の言葉に聞き従い、イエス・キリストの福音を信じる信仰に基づく大胆な宣教、そして行いが、この世のどんな権力の力にも勝っていく。ペテロ達、宣教者は大胆に語ります。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(20節)
立つことも歩くことも出来ず、人生をあきらめて、長きに渡って苦しんできた人が立ち上がり、自身の人生を希望へ向かって生きていく。キリストの使徒達によってもたらされた福音の大きさを知る。その力は、私達が十字架にかけたイエス・キリストから来るのです。ああこの喜びを、恐れず多くの人々に語り告げたい。
本日の聖書 使徒言行録3章2〜8節
生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめているとペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
宣教題 「主の名によって立って歩く」 牧師 新保雅雄
神殿の「美しい門」で、足の悪い男が物乞いをしていた。彼は門のそばにいたが、一度としてその門をくぐって神殿に入り礼拝を奉げ、神を讃美することは無かった。
門のそばに座り、わずかな施しのお金で、その日を生きる。それは人の支えによって生きる40年であった。しかし、二人のキリスト者に出会うことによって、まったく新しい人生へと方向転換して行くのである。彼は、生きる意味と生きる力、生きる目標を与えられた。人の支えから神の支えと変えられたのであった。
その変化を起こしたのが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とペテロ達を通して語られた祈りである。彼の望んだ物は金銀、そして今日のパンであった。彼の命は、その日暮らしである。ペトロは、食べればなくなるパンではなく、神の御子イエスの生きたパンを求めなさい、と語る。
そのとき奇跡が起きる。彼は自分の足で、自分の人生を歩き出したのです。彼の信仰ではなく、ペトロの祈りで救いが起きるのです。今日、私達が肉の満たし、不純な動機で、教会に来たとしても、神は全てをご存知である。願いや信仰よりも、神の救いが先にあるのです。ペテロのように周りに関心を持てるように。
本日の聖書 ルカによる福音書17章11〜14節
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
宣教題 「信仰と救い」 牧師 新保雅雄
主イエスと弟子達がエルサレムへ向かう途中の村でのことです。重い皮膚病を患っている十人の人達。悲痛な叫びで憐れみを願った。恐らく主イエスを噂で知っていたのだろう。
この病気は、当時、伝染病、更に罪の汚れとして社会から締め出され、人前に出られない隔離された生活を送っていた。その為、主イエスに近づけず、遠くから叫んだのです。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」すると主イエスは彼らに「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは主イエスの言う通りにしました。
祭司の所へ行く途中、十人全員が癒された。主イエスは「皮膚病が癒されよ、清くなれ」と言ったのではなく、ただ「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われただけなのです。
彼らは、信じて主イエスのお言葉に従っただけなのです。そのとき癒された。まさに信じて従うとき、癒しが始まる。しかしその後、神に感謝するために戻って来たのは外国人一人だけだった。
恐らく他の9人はユダヤ人だと思われる。彼らの癒しは元の社会へ戻ることです。外国人は元の社会ではなく、主イエスとともに神のみ国へと続く、信仰の道であった。
主イエスは言われた「あなたの信仰があなたを救った」救いとは肉体の癒しだけではなく。信仰復興への癒しなのです。
本日の聖書 ルカによる福音書16章26節
「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」
宣教題 「世の壁、天の壁」 牧師 新保雅雄
高価な服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らす金持ちがいました。毎日、宴会が行われていた。その家の門の前にラザロという、できものだらけの物乞いが横たわっていました。彼は、あまりの空腹から、宴会の残り物でもいいから腹を満たしたいと思っていた。
しかし金持ち達は、誰一人ラザロに食べ物をくれる人はいません。ラザロは、弱り切って犬ができものをなめても追い払えません。金持ちとラザロとの間には、超えることの出来ない貧富の差という壁があり、門の中と外では、全くちがう世界がありました。
世においてどんなに貧富の差が大きくとも死は平等に訪れます。しばらくしてラザロと金持ちに死が訪れました。互いに死から目覚めると、ラザロは天の国で宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。この世の地獄の様な世界から一転して、天の国に入ることが出来、信仰の父アブラハムと宴席にいたのです。
一方、金持ちは、ラザロとは対照的に、炎の中で熱さと苦しみのあまり目を覚ました。苦しさの中で天を見上げると、はるか遠く楽し気にアブラハムと宴会をしているラザロが見えました。
彼は苦しさの中で言います「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」
アブラハムは言います「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって越えて来ることができない。」
金持ちは、有り余る自分の財産の、ほんの一部を分け与えることで助かるラザロを助けませんでした。世に壁があり天にも壁があるのです。この壁は、あなたの自己中心な心で築かれるのです。
本日の聖書 ルカ13:10〜17
「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」
宣教題 「束縛からの解放」 牧師 新保雅雄
ユダヤ教の安息日の教会。この教会には18年間腰が曲がる病気に苦しんでいる婦人がいました。主イエスは、この婦人を呼び寄せ「婦人よ、病気は治った」と言われ、その腰に手を置かれると、曲がった腰がまっすぐに伸びたのです。婦人は大喜びし神を讃美しました。18年間という長い苦しみから解放された瞬間です。
しかし、それを見ていた会堂長は、安息日に婦人を癒したことに腹を立て「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言ったのです。
会堂長にとっては、人が癒され、苦しみから解放されることよりも安息日が守られることの方が、重要だったのです。礼拝(安息日)を守る事や律法を守ることの方が、癒しより優先したのです。
18年間、病に苦しんだ婦人。教会に来れば、この苦しみから解放される。そう信じて礼拝に来ているのです。私たちも、この会堂長のように信仰が弱者を切り捨てていないでしょうか。
信仰が長くなると、弱者を切り捨てる。このようなクリスチャンを見受けることがあります。本来、信仰の先人は、弱者を引き上げることが問われています。神が導かれた者を、なぜ同じ罪びとが裁けるのでしょうか。裁くのは神です。
今日の教会で覚えることは、主イエスが十字架で死んで三日目に復活された、このことによって、私たちは、罪の鎖から解放され、赦され、救われているのです。罪の束縛から解放するために、十字架の死と復活があるのです。