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板橋区仲町23−17
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03-6555-5440
(主宰 赤谷拓治)
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投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-08 00:53:42 (1377 ヒット)

本日の聖書  ガラテヤの信徒への手紙5章22節

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」


宣教題 『霊の結ぶ実は愛』   牧師 新保雅雄


ペンテコステ。過ぎ越しの祭りから数えて50日目、つまりイエスが十字架につけられ死んで復活してから50日目、天から聖霊が注がれた。その日弟子たちに不思議なことが起こる。弟子達が突然外国の国々の言葉を語りだす。それまでイエスなどは知らないと恐れ隠れていた弟子たちが、イエスの証人となって復活の証言を始めたのである。これがペンテコステに起こった出来事である。(使2章)


聖霊の働きの一つには、イエス・キリストの証人として復活の証言者になる事が出来るということがある。証人になる為には、神とは何かを知らなければなれない。しかし彼らが自身の力で神を知ったのではなく、神側が彼らに神を信じるようにさせてくれたのである。つまり「聖霊によって神を知る」のです。わたし達の善行が神を知ったのではなく聖霊によるのです。


そしてここに集まって聞いていた人達は、自分の国の言葉で福音を聞いたのです。つまり神とは何かを、その人自身に理解できる言葉で語らせるということが、聖霊のもう一つの働きです。何かわけの分からない不思議なことを起こすことが聖霊の働きではなく、相手に分かる言葉で語りイエス・キリストを信じるように導くこと、これこそが聖霊の働きです。


そして聖霊によって神を語る目的は、「霊の結ぶ実は愛である」。と言われています。神を語ることは、愛の種まきである。神の目的なのです。神がいつも私たちと共にいますようにとは、聖霊がいつも私たちを後押ししてくださり、愛の種まきを共に働かれているということである。


聖霊が働きかけてくださるそのままに私たちも神を信じ、神が語らせるそのままに神を語り、そして何よりも「神が愛されたように愛するように」なりたいと願う。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-01 06:36:55 (1308 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章31〜32節

死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」


宣教題  「生きている者の神」    牧師 新保雅雄


「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」


主イエスは、死後の世界は遠い世界に思えるが、信仰者には死後も神の力が働き、神の中に神と共に生きていると言われています。


神を信じた者は、死の世界から復活して、神の世界の中に生きるのです。土の中、神棚、祭壇の奥にではなく、今この地上の神の世界のうちに生きているというのです。これが主イエスの言われた死者の「復活」であり、「永遠の命」ということです。


しかし神を信じない者は、死んだら終わりであり、そこには神の力は及ばず、永遠に神不在の暗黒の中にある。つまり神の力が届かない遠い所、それが死後の世界・虚無の世界ということなのです。


日本では「人は死んで仏になる」と思われています。仏は死者の世界では、神のような存在です。あの世でお世話になるのが仏様


「死んだらどうなるか」。サドカイ派の人々は、「復活はない」と考えていました。人は土くれから造られたから、土くれに帰っていく。死んだら終わりだ、それが人間だ。非常に絶望的な考え方です。


「神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神なのだ」という主イエスの御言葉は、かえって現実的であり現世的であるが、将来に向かって生きることに勇気が出てくる。神と共にある人生は、未来永劫へと向かっていく。しかし神なき世界は、生きるのではなく、死へのカウントダウンである。




 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-05-25 06:53:35 (1191 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章19〜21節

税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」


宣教題 「わたしは神様のもの」    牧師 新保雅雄


ヘロデ派とファリサイ派の人々は、主イエスに問いかけた。


「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」


ヘロデ派の人々は「もちろん納めましょう」という人々です。しかしファリサイ派の人々は、渋々納めている人々です。ファリサイ派とヘロデ派は、考え方が違う水と油の関係。仲が悪いのです。

 

ところが今日の聖書では、仲が悪い者同士が、主イエスを死刑にしたいということでは、利害関係が一致しているのです。そこで、「イエスの言葉尻をとらえて、罠にかけようと相談した」のです。


彼らは主イエスに質問します。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。適っていないといえばローマへの反逆罪、適っているといえばユダヤ人が騒ぐ。


主イエスは、人々が見守る中、渡された1デナリ銀貨を手にとって言われた。「これは誰の肖像と銘か?」デナリ銀貨には、ローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていたので彼らは、「皇帝のものです」と答えました。すると主イエスは、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。彼らは急いで立ち去った。


一体何が『皇帝のもの』で、なにが『神のもの』なのだろうか?


聖書は、私たち一人一人は主のもの、神様のものだと言われます。私たちが、失敗をして、ざ折したり、人間関係がうまくいかない時、また負いきれない重荷を背負うとき。しかし感謝すべきことに、主イエスは、私たちは主のものである、と言われるのです。私たちが一人も滅びないようにするためなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-05-18 10:08:28 (1245 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章8〜10節
そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

宣教題 「あなたは招かれている」   牧師 新保雅雄

王様の催す結婚式が開かれた。招待される人達は、政治家、学者、宗教指導者、政府要人といった地位や名声のある人達ばかりです。「選ばれた」人達であり、招待されることは大変名誉なことです。

結婚式当日、家来たちが招待客のところに行くと、ある人は畑に行き、またある人は商売に出かけたというのです。王様の王子の結婚式です。しかし招待されながら、仕事に出かけてしまったのです。

そこで王様は、家来たちに町の大通りに行って、誰でもいいから連れてこいと命じます。この王様の選びによって、何の地位もない私たちも、王子の結婚式の宴席に入れていただけたのです。

しかしこの宴席に招かれた人のなかで、礼服を着ていない人が一人いたというのです。そしてその人は外に放り出されたのです。

王様とは父なる神様であり、王子とは御子イエスです。そして結婚式の宴席とは神様の御国のことです。そして礼服とは主イエスの十字架によって罪を赦され白くなった信仰のことを意味しています。

神の御国で礼服を着ていない人とは、せっかく教会へ神様によって招かれているのに、主イエスを信じられない人のことです。

神様は特別な地位や能力を持たない人を選ばれました。そして十字架の恵みによって神の国の礼服を着せてくださいます。どうか素直にイエス・キリストによる祝福を受け入れてください。そして父なる神様に招かれていることを大切にしてください。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-05-04 05:22:46 (1373 ヒット)

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28〜29節)

宣教題 『聖霊のわざを見よ!』    北村 紀一

「聖霊を冒涜する」とは、どういうことでしょうか。この箇所の言葉の意味はなかなか難しいと感じる人が多いのではないかと思います。

「聖霊を冒涜する」とは、聖霊を拒み、聖霊の働きに反対すること。つまり神様を信じると言いながら、神様の働きを軽視すること。人には教えながら、自分には教えないように、言ってることと行いが違う生き方をすることです。

イエス様の働きは、いつも聖霊とともにありました。したがって、悪霊を追い出した力も聖霊によるし、イエス様の宣教の中心は、サタンの支配から神様の支配へかえることが目的なのです。つまり、聖霊とは、神さまの御心のままに働く力で、神様の愛によって従う(援助者)そのものであります。

そのように、イエス様の罪の赦しには例外はありません。イエス様の十字架を信じるならば、だれでも救われるのです。しかし、それを拒むとしたら、どうでしょうか。それは、おいしくて栄養のある食事を用意されても、食べないと拒否するのと同じです。食べなければ栄養をとることができません。

まして、イエス様の働きを悪霊の働きとして、拒否するとしたら、いくら天国に招かれていても、一生懸命抵抗して入らないようにしていることになるのです。それでは、神の国には入れないということになります。つまり、聖霊を冒涜する者は赦されないということになるわけです。

だから、自分の罪を認めることが必要です。本当に大事なことが何かを求める必要があります。気付きが必要です。正しく判断する知恵が必要です。求めれば与えられるのです。

私たちは、聖霊の力によらなければ、イエス様を主と告白することはできません。イエス様に従うことは、聖霊に従うことです。

イエス様のお名前を使って祈ることは聖霊(援助者)の力によって祈ることです。聖霊によって、イエス様の十字架は、私たちが神さまから離れることがないように示された愛のしるしと理解できるようになります。「主の名によって祈る」ことが赦されていることを知ります。そうですから、いつも、祈りが必要です。私たちのために、十字架に架かってでも救い出そうとしておられる神様の愛にこそ、私たちは心を注ぐものでありたいと思います。


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