本日の聖書 ルカによる福音書13章1〜3節
「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」
宣教題 「誰が罪深いのか」 牧師 新保雅雄
主イエスのもとに来た人が「ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言う。これはエルサレム神殿へ礼拝に来たガリラヤ人を、ポンテオ・ピラトが殺してしまったという意味です。
災難に合ったのは、ガリラヤ人が罪を犯したからではないだろうか。
「これはバチが当たったからだ」と考える人がいる。つまり結果を見て原因を探す、裁く人がいる。因果応報、悪いことが起きるのは、そこに悪い行いや原因があるに違いない、と考える。
私が若い時に入信していた新興宗教も、悪いことが起きると、その原因を探る。信心が足りないから事故に合った、あなたの先祖が犯した罪があなたに祟っている。印鑑が悪い、家の方角が悪い、名前の画数が悪い。運勢を上げる為と称して高額な金を払わせる。更に信仰心を追い立てていく。世間一般で、よく聞く話だ。
主イエスは、2節「そのガリラヤ人たちが、そのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語られた。
善いか悪いかを詮索する人に対して、まず「自分自身を悔い改めなさい」。誰が罪深いのか、誰を裁くのか、それを決めるのは、あなたではなく神だ。他人を詮索する前に、自分自身を顧みなさい
周りの人と比較して、自分は真面目だ、自分の方が勝っている。などと考えるべきではない。悔い改めるは自分自身からだ。
本日の聖書 ルカによる福音書24章11〜12節
「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」
宣教題 「もう一度会いたい」 牧師 新保雅雄
安息日(土曜日)が終わり、週の初めの日(日曜日)になると、女性たちは、朝早く、主イエスの遺体を清めるために、香料を携え墓に行く。墓に着いてみると、墓の穴を覆っていた石が、わきに転がされていて、主イエスの遺体が墓の中に見当たらなかった。主イエスは、日曜日の朝早く復活されたのです。
女性達は、そのことを弟子達に伝えた。ところが弟子たちは、女性達の話が信じられない。しかしペトロだけは、女性達の話を確かめる為、主イエスの墓に向かって一目散に走り出した。
逮捕された主イエスを三度も知らないと言ったペトロ、人一倍、主イエスのことが気になっていたのだ。もし主イエスが復活されたのなら、「そんな人は知らない」と裏切ってしまった自分を、やり直せるかも知れない。もう一度会いたい。望みを抱き走った。
主イエスは言われる「あなたの罪は赦された。悔い改めて、神に立ち帰りなさい。」主イエスの十字架によって、私たちは罪を赦されました。そして私たちは「主よ、私は罪深い者です。」と告白できる。ここに十字架と復活によって示された「神の愛」がある。
自分の罪と向き合う勇気がないと、主イエスの十字架によって、罪が赦される、恵みと喜びを、心から味わうことは出来ない。
主イエスの十字架を見上げ、自分の罪を正直に認める時に、主イエスご自身が、私たちに近付いて来てくださり、復活して、今も生きておられることを知らせてくださる。
ああ「主にもう一度会いたい」そして赦しを請いたい。そんなペテロに「あなたの罪は赦された」私は、いつもあなたと共にいる。
本日の聖書 ルカによる福音書22章42節
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」
宣教題 「御心のままに」 牧師 新保雅雄
主イエスは、十字架に付かれる前夜、弟子たちと過越しの食事「最後の晩餐」を終えられるとオリーブ山のゲッセマネへ行かれた。
主イエスは、ゲッセマネに着くと一人で祈り始められた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」「杯」というのは、「十字架の死」を意味している。
神の子イエスが、このように祈られたことは「神の子なのに、まるで弱い私たち人間のように祈るのか」と意外に思う。
しかし、この主イエスの祈りによって励まされ救われるのです。切れば血の出る、痛みを感じる肉体を持つ、私たちと同じ人間としての弱さ、優しさに触れるとき、安心するのです。なぜなら私たちの苦難痛みを、主イエス自身も、ご存知であるからです。
主イエスが、そうであった様に、私たちも自分の苦しみを素直に、神に祈れること、そう神は私たちの父であるのです。律法学者の様に、模範的なキリスト者だから、信仰者だから、痛みも苦しみもない、そんな祈りを作り出さなくともいいのです。
恥ずかしい弱い自分を素直に、現してもいいんです。痛ければ痛い、苦しければ苦しい、ありのままの祈りを、聞き届けて下さるのが、父なる神なのですから。
信じて祈ることを忘れてはいけません。神の愛を信じることです。今苦しいかもしれない、しかし苦しみだけで、決して終わることはない。最後は、神にすべてをゆだねることです。「御心のままに、なりますように」。その時、主イエスのように神の子に・・・
本日の聖書 使徒言行録2章37〜38節
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
宣教題 「悔い改めからリヴァイヴァルへ」 牧師 新保雅雄
聖霊に満たされて使徒ペトロは語る。主イエスこそ、約束されたダビデの子であり、死の苦しみから解放されて復活された、メシア・キリストである。と沢山の群衆に力強く証しする。
証しを聞いた人々は、「大いに心を打たれ、兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかける。(37節)。
それに対してペトロは、悔い改めを迫る。
ペトロの宣教は、集まった一人一人が犯した「罪」として、「悔い改め」を迫るものとなりました。この悔い改めから、最初のリヴァイヴァル(信仰復興)が生まれていく。
百二十人ほどの小さな群れが(1:15)、悔い改めによって三千人ものキリスト者が加えられ、大きな群れとして、エルサレム教会は、初代のキリスト教会としての形が創られていく。
キリスト教会は、聖霊の働きによる「悔い改め」から興されていく。真実な悔い改めのないところでは、どれほど多くの人が集っていても、奉仕がなされていたとしても、それは神の教会からは、程遠いものになってしまう。
なぜなら「悔い改め」は、神から来るのであり、神が私達の内に起こしてくださる。ですから私達は、この神の働きが自身の中から興されていくように、祈り求めたい。
「悔い改め」は、自分の努力と意志だけで成り立つものではなく神からの賜物であり、神の御働き無しに悔い改めは興きない
本日の聖書 コリントの信徒への手紙1:22〜24
「ユダヤ人はしるしを求めギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわちユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」
宣教題 「十字架の証」 牧師 新保雅雄
パウロは、アジアからヨーロッパへかけて、伝道の旅に出発する。その行き着いた国々で、キリストの十字架を宣教した。
しかし、多くの人々はパウロの宣教を聞いて「頭のおかしなおじさん」と見られた。当然、世の知恵で見る限り十字架とは死、命の終わりを意味する。その先にある復活の命は、到底理解ができなく、福音とは受け入れられない。
そこでパウロは、十字架を愚かとしか見ない人々に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものである」と言う。
では十字架の言葉とはなんでしょうか?「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと」(15:3、4)
つまり自分の中にある罪を認めること、弱さを知ることである。
イエス・キリストの鞭打たれた一本々の傷の痛み、十字架に釘で打ちつけられた苦しみが、わたしたちの受けるべき罪の姿である。十字架とは自分自身を飾らず、ありのままに自身の罪を認めることである。そのとき神の赦し、神の愛が見えてくるのです。
福音宣教、キリストによる救いの証しは、不思議なしるしを見せびらかすことではなく、知恵をひけらかすわけでもなく、十字架の出来事を、伝道者がそのまま現す方法で行われてきました。
それは、一見愚かなこと、つまらないことのように思えますが、本当は、イエスキリストの十字架の出来事の中にこそ、神の力、神の知恵、さらには神の愛が現されています。