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投稿者 : church 投稿日時: 2013-04-21 06:58:24 (1877 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章54〜58節

「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」

宣教題 「こんな私を助けて下さい」 牧師 新保雅雄

「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」主イエスの奇跡と私達の信仰には関わりがある。私たちが主イエスを信じれるかどうかによって、違ってくるというのです。

「信じる」という私達側からの行為と、「奇跡」という主イエスの御業が関係あると言われる。私たちの信仰によって、主イエスの御業が行われ、癒しが救いがある。これはたいへん重大なことです。

私たちは、神を信じていると思っているが、ささいなことで腹が立ち、友人を憎んでしまう、収入が少なければ不安になりイライラする。そもそも私たちの信仰は、あやふやで足りないのです。どんなにがんばってみても、「信じ切る」ということは、自分の力ではできないのです。では、救いのない絶望しかないのでしょうか?

私たちは、何も満足にできない。信仰すら無い。しかしただ一つ、神様に対してできることがあります。「信仰のない私を助けて下さい」と言って、そのままの自分を主イエスに投げ出しすがりつくことです。病気の息子の救いを必死に主イエスに願う父親のように(マルコ9:14〜)そんな私たちでも受け入れてくださるのです。

何故なら主イエスはご自身の命をかけて、あなたを救いだし、愛してくださったからです。「信仰」とは、主イエスに弱い自分を正直に告白し願うことなのです。しかしナザレの人々は、先入観が邪魔をして、主イエスに願うことができなかったのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-04-14 06:15:09 (1970 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章51〜52節

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

宣教題  「天国の学者」    牧師 新保雅雄

「天の国のことを学んだ学者」とは、「天国の弟子となった人」と言う意味です。では「天国の弟子となる」とはどういうことでしょうか? 「天国」とは、「神の支配する国」という意味です。つまり主イエスのいる所が天国です。主イエスの御言葉を学んで、主イエスの弟子となる人のことを主イエスは、「学者」と言っています。

私達は、「学者」というのは、学問を修めた人のことを言います。現代で言えば、大学を出て、さらに大学院へ行き、専門分野を探求し、研究、探求して、博士論文を書き、学会で認められて、大学の教授になっていく。そういう人のことを、私たちは「学者」と呼びます。

また当時であれば「律法学者」のことを学者と呼びました。聖書とユダヤ教、律法について、有名な先生に着いて深く学んだ人のことです。

しかし、この世の学問をどんなにおさめても、人々から「学者」と呼ばれても、主イエスの十字架を理解することができなかったら、自分の中に潜む深い罪の心を知らなければ、天国が何か分からないのです。

神様のことを深く学び聖書に精通していた、あの律法学者やパリサイ人が神から遠かったのです。彼らは古い倉しか持っていないのです・

逆に神から遠いと思われていた、徴税人や漁師の方が神に近かったのです。なぜなら主イエスを子供のように、素直に信じて受け入れたからです。新しいものも古いものも受け入れたのです。

主イエスは、律法学者たちを退けました。しかし、主イエスから天国のたとえ話を聞いて、それを受け入れた弟子たちを、主イエスは「天国の学者」と呼ぶのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-04-07 07:08:27 (1805 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章47節

天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」


宣教題 「神は、全ての魚を集める」  牧師 新保雅雄     

きょうのたとえ話は、「天の国は次のようにたとえられる」ということで始まり、海に網が打たれるたとえになっています。

47節「いろいろな魚を集める」、ここは原文では「いろいろな魚」ではなくて、「すべての種類の魚」となっているのです。そこに天の国、神様の世界、神様の救いの世界のすばらしさが、あらわれているのです。

海に網が投げられる。その網の中に入っていた魚とは、神の網によってとらえられ、教会へと導かれた人々のことを指しています。そして、その網の中には、すべての種類の魚が入っていたのです。

教会にもいろいろな人が導かれます。世間の人から見れば、「教会とは、聖人君主のような、真面目で善人な、心の清らかな人の集まりだ。」と思っている人がいます。そう思う人が教会に来て、がっかりする場合が時々あります。「なんだ教会も世間と同じですね。」というのです。

主イエスが言われるように、この網は、「あらゆる種類の魚」が捕らえられているのです。伝道とは神の行う業です。ですから、神様がいろいろな人々をとらえてくるのです。神様は、「この人は教会にとって大切だから捕まえて網の中に入れよう。」「この人は教会にふさわしくないから、網の中に入れない。」などと人を選んでいません。差別しないのです。すべての人に網をかけ、導こうとされているのです。

ですから教会にも、この世と同じように、あらゆる種類の人がいるのです。全ての人が導かれてくるのです。だから、教会は清廉潔白、聖人君主の集まりではありません。そういう意味では、世間と同じです。だから「こんな私でも救われる」のです。

今日あなたは神の網によって導かれました。是非、主イエスの恵みのすばらしさを信仰によって体験してください。




 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-31 06:51:52 (1777 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書20:1

「天使たちは、墓の外にいるマリアに向かって、「なぜ泣いているのか」と尋ねました。すると、マリアは、こう答えたのです。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」


宣教題 『死から生へ』     牧師 新保 雅雄               

イースターは、日曜日の朝早くに始まりました。この日、まだ夜が明け切っていない暗いうちに、マグダラのマリアは、主イエスが葬られた墓へと向かったのです。この墓には、入り口を塞ぐための石が置かれている筈でした。ところが、ある筈の石が、動かされていました。そして、墓の中に主イエスの遺体はありませんでした。

マリアは主イエスを捜しました。何と主イエスは墓の外で、マリアの後ろに立っていました。しかしマリアは、それが主イエスだとは分かりませんでした。マリアは、既に主イエスは死んでいて、もはや生きてはいないと思い込んでいました。それで、マリアは、後ろに立っておられるのが、主イエスだとは分からなかったのです。

そんなマリアに、主イエスは、声をかけられました。 「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 既に、主イエスは死から復活して、マリアの後ろに立っておられます。しかし、マリアは、死の世界の中に、主イエスを捜していたのです。過去の中に、主イエスを捜そうとしているのです。

その時、主イエスが、「マリア」と呼び掛けられました。この時、この声にマリアは、生きておられる主イエスを見つけたのです。

ともすると、私たちは、マリアが墓の方向ばかりを見ていたように、過ぎ去った時にばかり、自分の思いを向けがちになることがあります。

しかし、主イエスは、私たちを、過去から未来、死から生へと招いてくださるのです。人が死で終わることなく、天の国へと続く道を、主イエスと共に歩むようにと、復活の中から、私たちを招いてくださるのです。




 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-24 03:53:17 (1546 ヒット)

本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章4節

「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」


宣教題 「十字架によって」  北村紀一               

  十字架とは、犯罪人を磔にして死刑にするための道具です。そんな絶望的で恐ろしいもの、目をそむけたくなるもの、縁起でもないものを、キリスト教会は一番大事な「救い」の象徴にしています。

この十字架によってつまづく人は、そんな縁起の悪いものを象徴にしていること自体がありえないのです。だから、そんな十字架にかけられたイエス様が救い主だとは考えられないわけです。それゆえ十字架上のイエス様を平気で馬鹿にし、罵り、辱めます。

イエス様は、目の見えない人の目を開け、孤独な人の友となり、分け隔てなく、どの人も神さまにとって大事な存在である一人の人として関わられました。イエス様にふれた人は、本物の愛にふれて、人間らしい心を取り戻していきました。

しかし、自分の思い通りにいかないとダメな人によって、捕えられ、不公平な裁判にかけられ、ムチ打たれ、十字架にかけられて殺されてしまったのです。それでも、イエス様は十字架上で、「父よ、この人たちを赦してください。何をしているのかわからないのです。」と、御自身を十字架にかける者の為に祈るのです。

イエス様にふれた人は、自分こそ十字架にかからなければならない者であることを知るのですが、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」ペトロの手紙一2:24と言われているように、イエス様が自分の身代わりとなって十字架にかかられたことを知るのです。これが十字架の意味です。

私たちは、こんな自分のために犠牲になってくれる人(救い主)がいることで、本当の愛を知るのです。十字架は絶望(暗闇)を希望(光)に変えられ、目線が変えられ、生き方が変えられ、本当に頼るべき御方を知って、共に生きる者へと変えられるのです。

 


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