「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28〜29節)
宣教題 『聖霊のわざを見よ!』 北村 紀一
「聖霊を冒涜する」とは、どういうことでしょうか。この箇所の言葉の意味はなかなか難しいと感じる人が多いのではないかと思います。
「聖霊を冒涜する」とは、聖霊を拒み、聖霊の働きに反対すること。つまり神様を信じると言いながら、神様の働きを軽視すること。人には教えながら、自分には教えないように、言ってることと行いが違う生き方をすることです。
イエス様の働きは、いつも聖霊とともにありました。したがって、悪霊を追い出した力も聖霊によるし、イエス様の宣教の中心は、サタンの支配から神様の支配へかえることが目的なのです。つまり、聖霊とは、神さまの御心のままに働く力で、神様の愛によって従う(援助者)そのものであります。
そのように、イエス様の罪の赦しには例外はありません。イエス様の十字架を信じるならば、だれでも救われるのです。しかし、それを拒むとしたら、どうでしょうか。それは、おいしくて栄養のある食事を用意されても、食べないと拒否するのと同じです。食べなければ栄養をとることができません。
まして、イエス様の働きを悪霊の働きとして、拒否するとしたら、いくら天国に招かれていても、一生懸命抵抗して入らないようにしていることになるのです。それでは、神の国には入れないということになります。つまり、聖霊を冒涜する者は赦されないということになるわけです。
だから、自分の罪を認めることが必要です。本当に大事なことが何かを求める必要があります。気付きが必要です。正しく判断する知恵が必要です。求めれば与えられるのです。
私たちは、聖霊の力によらなければ、イエス様を主と告白することはできません。イエス様に従うことは、聖霊に従うことです。
イエス様のお名前を使って祈ることは聖霊(援助者)の力によって祈ることです。聖霊によって、イエス様の十字架は、私たちが神さまから離れることがないように示された愛のしるしと理解できるようになります。「主の名によって祈る」ことが赦されていることを知ります。そうですから、いつも、祈りが必要です。私たちのために、十字架に架かってでも救い出そうとしておられる神様の愛にこそ、私たちは心を注ぐものでありたいと思います。
本日の聖書 マタイによる福音書21章36〜39節
また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
宣教題 『神の忍耐』 牧師 新保雅雄
神は、イスラエルを愛するがゆえに、僕である預言者たちを送ってきた。しかし人々は、なかなか受け入れないどころか預言者たちをひどい目に遭わせ、殺してしまった。にもかかわらず、「今度こそは」と信じて、大切なひとり子イエスを送った。「我が子なら敬ってくれるだろう」と思ったからです。
そこまで忍耐し、信じて、人が悔い改めるのを忍耐強く待っていてくださるのが、私たちの神様なのです。僕である預言者が迫害され、殺されても、なおねばり強く「今度こそは」とあきらめないで、悔い改めるのを待ってくださる。それが私たちの天の父なる神様であるというのです。
私たちから見ると、ばかばかしいほどの忍耐です。しかし、そうだから私たちは救われるのです。
農夫たちは、跡取り息子を殺してしまったのですから、主人に復讐されるのが当然だと、思います。しかし、神様はそうなさらない。神の国の跡取りである御子イエスさまを十字架にかけた人々を罰しないで、反対に救おうとなさるのです。
神様に対して罪を犯し、もう本当は救われる値打ちのない人々、そしてそれは私たちも同じなのですが、その罪人の頭を、神様は十字架によって救おうとなさるのです。
本日の聖書 マルコによる福音書15章29節〜41節
「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(39節)
宣教題 「本当に、この人は神の子だった」 北村紀一
十字架に架けられたイエス様を見ていた百人隊長が、イエス様の“何に”感動して「この人は、本当に神の子だった」と告白したのでしょうか。
彼はこの十字架のイエス様をずっと見ていた人でした。イエス様が裁判を受けて死刑の判決を受けるときに、イエス様と人々の間で、暴動が起こらないように見張りながら、十字架を担がせたのを見ていた人でした。イエス様をいよいよ十字架につけるとき、釘で指すことを指示した人です。十字架刑を執行し、きちんとイエス様を殺さなければいけない、その責任を負っていたのです。つまり、イエス様の十字架をはじめから終わりまでずっと見続けた人でした。
そして、人々に侮辱され、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って死んでいったイエス様の姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。
祭司長や律法学者たちは、十字架から降りて自分を救うことができたら、信じてやろう(32節)とののしりました。十字架から降りるという奇跡を見せたら、つまり神さまがお前を助けたという“しるし”を見たら、お前が何の苦しみも悲惨もない、神に救われた姿を見たら、「神の子」と信じてやろうというのです。
けれども、百人隊長は、苦しみも悲惨もない神様の救いを受けているから、イエス様を「神の子」と感じたのではありません。十字架という、これ以上ない苦しみと悲惨の中に置かれて、心の声を代弁され、それでもなお、神さまを信頼して、勇気と希望を失わない信仰に、救いを見いだす姿に感動して、「神の子」と告白したのです。イエス様の姿を通して神様との距離がなくなったように感じたのです。
神様は、何の苦しみも、悲惨も知らない方ではなく、痛みも悲しみも病も知っておられるのです。一緒にいて同じ思いを味わってくださる御方です。イエス様の十字架を通して、私たちは、神様との間にあった隔たりが取り除かれたのです。
イエス様が私たちのように、人生で味わう苦しみ、悲惨、その気持ちを味わわれたからこそ、私たちの苦しみと気持ちを分かってくださり、支えてくださるので、そこから救い出してくださると信じることができるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書21章25,26節
ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
宣教題 「主イエスとの出会い」 牧師 新保雅雄
主イエスは彼らの問いに答える前に、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と
祭司長・長老たちに問われた。彼らは「神様からの権威によってヨハネはバプテスマを授けていた」と答えれば、なぜあなたがたは、信じなかったのかと非難される。
逆に、「人からのものだ」と答えれば、群衆はヨハネを神から遣わされた預言者だと思っているから、群衆が恐ろしい。彼らはどう答えるべきか考えた。実に祭司長・長老という権威は、その程度のことなのです。そこで彼らは、「分からない」と答えました。
この世の権威にしがみつき、見栄や体裁を気にして、主イエス、すなわち神との出会いに至らなかった。神のことを知識として一番知っている権威ある者が、実は神から遠かったのである。
「ヨハネの洗礼は天からの権威ではない、人からのものだ」と思っているなら、群衆がどうかではなく、そう言えばよいのです。そこから主イエスとの本音の出会いが始まるのです。
悪霊に取りつかれた息子を主イエスに助けていただくために、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」マルコ9:24と叫んだ父親のように。苦しいときは「苦しい、助けてください」と心から叫ぶのです。信じられない時は、「信じられるようにして下さい」と祈るのです。
主イエスは心からの祈りを、必ず聞かれます。時に神への知識は神から遠ざける。「知恵者は、その知恵によって滅びるのです」自分を誇るのではなく誇るべきは「神お一人ひとりである」
本日の聖書 マルコによる福音書10章17〜27節
「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますます驚いて『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」(23−27節)
宣教題 『天国を受継ぐには』 北村 紀一
イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。(17)
この問いに、イエス様は、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(18−19)
すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。(20)イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 (21)
その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(22)
この人は、天国に入るには、どんな善いことをすればいいのか。ということを真剣に質問したのです。しかし、イエス様は、この人の的外れな視点を神さまに向けるように促しました。そして十戒を示しましたが、この人は、子供のときからすべて守ってきたと思い込んでいたのです。そこでイエスさまは、慈しみながら彼に欠けているものを示しました。
この人は自分の力で天国に入れると思っていたけど、イエス様にふれて、罪深い自分の姿、さらに自分にとって一番手放したくないものが、何であるのかまでハッキリ示されてしまったのです。しかし、そんな自分の姿を受けとめることができませんでした。このような隔たりが天国との間にあるのです。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言われるように、自分の力で天国に入ることは不可能です。この隔たりに橋を架けるように罪深い私たちのためにイエス様は十字架にかかってくだったのです。
この十字架の恵みによって、私たちは天国に招かれているのです。
