本日の聖書 使徒言行録4章10〜12、20節
あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです
宣教題 「話さないではいられない」 牧師 新保雅雄
エルサレム神殿の「美しい門」での「生まれながらに足の不自由な人」の癒しをきっかけにして始められたペトロの説教。それによってペトロとヨハネは逮捕されました。彼らを逮捕したのは、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」ユダヤ人指導者達でした。
その逮捕の理由は、十字架刑にかけられた主イエスの復活のことを、エルサレムの神殿で、堂々と語っていたからでしょう。その為ペトロとヨハネは、留置場に一晩、留置されることになりました。
「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)。ユダヤ当局からの逮捕、留置という出来事にもかかわらず。聞いていた人々は、益々「イエス・キリストによる救い」を信じてキリスト者になっていったというのです。
神の言葉に聞き従い、イエス・キリストの福音を信じる信仰に基づく大胆な宣教、そして行いが、この世のどんな権力の力にも勝っていくのです。ペテロ達、宣教者は大胆に語ります。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(20節)
立つことも歩くことも出来ず、人生をあきらめて、長きに渡って苦しんできた人が立ち上がり、自身の人生を希望へ向かって生きていく。キリストの使徒達によってもたらされた福音の大きさを知る。その力は、私達が十字架にかけたイエス・キリストから来るのです。ああこの喜びを、恐れず多くの人々に語り告げたい。
本日の聖書 使徒言行録3章2〜8節
生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
宣教題 「人頼みから神頼みへ」 牧師 新保雅雄
ペトロとヨハネは、神殿の「美しい門」で、足の悪い男が物乞いをしているのを見た。彼は門のそばにいたが、一度としてその門をくぐって神殿に入り礼拝を奉げ、神を讃美することは無かった。
門のそばに座り、わずかな施しのお金で、その日を生きるのである。それは人の支えによって生きる40年であった。しかし、二人のキリスト者に出会うことによって、まったく新しい人生へと方向転換して行くのである。彼は、生きる意味と生きる力、生きる目標を与えられた。「人頼みから神頼みへ」と変えられたのであった。
その変化を呼び起こしたのが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と呼びかけたペテロの祈りの様な言葉である。彼の望んだ物は金銀、そして今日のパンであった。彼の命は人頼みである。ペトロは、人にすがるのではなく、神の御子イエスの生きたパンを求めていきなさい、と呼びかけたのである
そのとき奇跡が起きる。彼は自分の足で、自分の人生を歩き出したのです。彼の信仰ではなく、ペトロの祈りで救いが起きるのです。今日、私達が不純な動機で、教会に来たとしても、神は全てをご存知である。私達の願いや信仰よりも、神の救いが先にあるのである。
本日の聖書 使徒言行録2章44〜47節
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
宣教題 『困難が群れを一つにする』 牧師 新保雅雄
主イエスが、私たちの罪のために十字架で死なれた。しかし三日目に蘇られました。この神の子イエスが、私達の身代わりになられたことで、多く人ガキリスト者として誕生しました。しかし、まだまだキリスト者には、大きな迫害がありました。
ペテロ達使徒は、ユダヤ人に何度も捕らえられては、牢に入れられ鞭打たれました。しかし、困難に合えば合うほど彼らの信仰は、固くなっていきます。
使徒たちは、この困難によって主イエスに選ばれて主イエスの歩んだ道を歩んでいく。主イエスが共におられる、という確信が強くなっていくのです。選ばれ集められた群れが、キリストの体なる教会になっていく時なのです。
困難は、キリストの選んだ群れをより一つにまとめていきます。
「財産や持ち物を分け合う」それぞれに与えられた財や才能、知恵、力が、自分一人の為ではなく群れのために使われていく。
「毎日ひたすら心を一つにして祈る」主なる神は一人である。真理は一つである。そして祈りも一つになり群れも一つになる。
「一緒に食事をし神を讃美していた」教会の中だけではなく、人生の営みすべてを共有していく。共に泣き共に喜ぶ。
そして「信者たちは皆一つになって」いくのである。兄弟姉妹たち、艱難辛苦にあるときこそ、一つになれるように祈りましょう。
本日の聖書 ヨハネによる福音書7章37〜39節
「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」
宣教題 「渇いている者私のもとに来なさい」 牧師 新保雅雄
ヨハネによる福音書は、聖霊について、それを象徴的に「水」にたとえています。水というものは、動物にとって必要不可欠なものです。水はすべての細胞の中にあり、生命の機能を維持するために必要なものです。
どんな動物であろうと水が断たれたとき、渇きを覚え、水分の補給を必要とします。このような肉体の渇きは、私たちも経験したことのあるものです。また同時に、この渇きは、人間の心、人格、魂、そして霊においても、しばしば起こると主イエスは語られています
では私たちの心や霊の渇きは、何を注ぐことで癒されるのか。それはイエス・キリストにしか満たすことのできないものです。しかし、これを満たそうと人間は、様々なものに、その解決を求めます。
このような心や霊の渇きを癒すために、私たちは偶像を拝み、また人の知恵を求め、肉体の限界に修行を行う。そして失敗し、前以上に深い渇きに陥ります。それは悲しいことでありますが、人は、その渇きを癒すために、いろいろな物を求めることで、渇きを癒そうと必死なのです。しかし渇きは癒されない。
主イエスは、言われる。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」どうか信じて求めてください。豊かな水をたたえた、潤いのある、魅力的な祝福の人生がおくれます。
そして主イエスによる人生は、自分だけではなく周囲をも祝福する。
本日の聖書 使徒言行録2章37、38節
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
宣教題 「神の賜物、悔い改め」 牧師 新保雅雄
聖霊に満たされてペトロは語ります。主イエスこそ、約束されたダビデの子であり、死の苦しみから解放されて復活された、メシア、キリストである。沢山の人々に力強く証しました。
するとそれを聞いていた人々は、「大いに心を打たれ、兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけます。(37節)。それに対してペトロは、悔い改めを迫ります。
ペトロの宣教は、集まった一人一人が犯した「自分の罪」として、自分自身の悔い改めを迫るものとなりました。この悔い改めから、最初のリヴァイヴァル(信仰復興)が生まれていくのです。
百二十人ほどの小さな群れが(1章15節)、悔い改めによって三千人もの信仰者が加えられ、大きな群れとして、エルサレム教会、すなわち初代のキリスト教会の姿ガ出来上がっていきます。
このようにキリスト教会は、聖霊の働きによる悔い改めから起こされていくのです。逆に言えば、真実な悔い改めのないところでは、どれほど多くの人が集っていても、奉仕がなされていたとしても、それは神の教会からは、程遠いものになってしまいます。
「悔い改め」は、神から来るのであり、神が私達の内に起こしてくださるものなのです。ですから私達は、この神の働きが興されていくように、祈り求めなければならないのです。「悔い改め」は、自分の努力と意志だけで成り立つものではなく神からの賜物なのです。