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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2011-10-30 06:47:11 (2254 ヒット)

聖書 マルコによる福音書6章11〜13節

「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。

宣教題 『あなたの言動が世界を変える』    

主イエスと弟子たちは、福音伝道の旅を続けています。弟子達は主イエスより神の国の福音を聞き、病気の人を癒す奇跡をまじかで見て来ました。行うのは主イエスです。弟子達は、ただ付いて従うだけでした。それが今度は弟子たちが、自身で宣教し、また病気の人を癒すために、村々へ遣わされることになったのです。

この弟子の派遣を、私達に置き換えてみてください。聖書を読んでいる。宣教を毎週聞いている。しかし、そのことがどのくらい身に付いているのでしょうか。教会から送り出されて行く場所、すなわち各々の日常生活の場、学校や家庭、職場、そこで主イエスの教えを、いかに実践しているのかが問われているのです。

現実の社会では、必ずしも主イエスの教えを、そのままに実践することが難しいこともあります。それによって葛藤や挫折を味わうことも多いかも知れません。だからと言って「教会では信仰の顔、現実社会では肉の顔」と器用に人生を送るのはどうだろうか。

時に私たちは、信仰によって不器用にしか生きることの出来ない自分に苦しむ時があります。世では隅に追いやられて損をするかもしれません。しかし、不器用だって良いのです。人と違っていたって、人と同じように出来なくたって、損をしても良いのです。

主イエスは「富は天に積みなさい」と言われます。世で損をしているように見えるが、それが神から与えられた恵みです。大事なことは、私達が社会の隅っこに押しやられているように見えても、そのことに腐ってしまって、持ち味を失ってしまわないことです。この世では損をしているように見えることが、実は大きな恵みであり、この世を祝福の世界に変える力になるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2011-10-16 07:06:55 (2458 ヒット)

聖書 マルコによる福音書5章12〜13節(p69)

汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。

宣教題 『たった一人の救いの為に』    

主イエスと弟子達は、嵐のガリラヤ湖を渡りました。着いた所は、ゲラサ人の地方と呼ばれる地です。主イエス達が舟から上がると、汚れた霊に取りつかれた人がやって来ました。この人は墓場を住まいとし、暴れるので縛られていた鎖を引きちぎって来たのです

汚れた霊は、舟から降りたばかりの主イエスに「いと高き神の子イエス、苦しめないでほしい」と願いました。しかし、主イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」と汚れた霊を叱りました。

汚れた霊は、かなわないと見ると、山で餌を食べていた2千匹の「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願ったのです。主イエスが赦され、汚れた霊は豚の中に入り、群れは一斉に崖を下って湖になだれ込み、全てが溺れ死んでしまったのです。

しかし主イエスが、この人を汚れた霊から救ったにも拘わらず、この地に喜ぶ人はいませんでした。そればかりか主イエスに向かって「この地方から出て行ってもらいたい」と追い出したのです。

嵐の荒波を越えて、この地に渡って来たのです。しかし主イエスが行ったことは、一人の男を癒すことだけだったのです。しかも、人から嫌われ見放されて墓場で暴れ騒ぎ続けていた男なのです。

主イエスは、激しい嵐を越えて命がけで渡って来られたのです。それも、たった一人の救いの為に。 ここに、神の愛があります。

人はこの人を嫌い恐れます。しかし主イエスは、この人を命を懸けて愛します。憎むのは人ではなく汚れた霊です。主イエスは彼の心の叫びを聞かれたのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-10-09 07:52:07 (2308 ヒット)

聖書 マルコによる福音書2章13〜17節(p64)

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

宣教題  『愛は天から地へ』   

主イエスが収税所に来た時、そこに座っている徴税人レビ(レビは12使徒のマタイ)に「わたしに従いなさい」と声を掛けられました。すると、レビは立ち上がり主イエスの元に従ったのです。

徴税人は、当時のユダヤ人社会では、同胞より税金を取り立てローマに通じている者として大変嫌われていました。そんな彼に声をかけられたことで、レビはうれしさのあまり、主イエス達を自宅へ招いて、他の徴税人達と共に盛大に食事会を開いたのです。

この様子を見ていたファリサイ派の律法学者は、弟子たちに「どうして、あなたの先生は、汚れた徴税人や罪人と一緒に食事なんかするのか」と批判しました。すると主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた

主イエスは、神の愛を知らない人、神の元に行くことの出来ない人、神の愛を信じることが出来ない人に、神の愛を伝え、苦しみから救い出す為に、天からこの地上に降って来られたのです。

しかしファリサイ派の律法学者は、正しく生きなければ神の選びを受けることが出来ない、救いはないとして自力で神の愛を手に入れようとして、天に登ろうとしていたのです。

神の愛は、善の先にあるのではない、天の高いところの修行の先にあるのでもない。むしろ世の底辺で苦しむ人々、罪の中でもがく人、孤独の中に降って来られたのです。しかし、自らを高めることで、神の国へ行こうとした人々は、降って来られた神の子イエスと、行き違いになってしまったのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-10-02 07:13:46 (2386 ヒット)

 


聖書 マルコによる福音書2章2〜5節(p63)

「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」


宣教題 『信仰による祈りは隣人を救う』    

主イエスがシモンのしゅうとめの熱を癒したあとの事です。病を癒し悪霊を追い払う主イエスのうわさは、ガリラヤ中で評判になっていました。そのため主イエスがこられると、病を癒して欲しい人、神様の国のお話を聞きたい人々が押し寄せました。ここカファルナウムの滞在する家でも、中に入れない人々が家の戸口の外までいっぱいでした。

そこへ四人の男性が中風の人を運んで来たのです。その人は自力で歩くことが出来なかったのです。四人の友人は、中風の友人を、何とか主イエスに癒して欲しいと、この人を運んで来たのです。

しかし玄関の周りには、沢山の人がいて中に入る事が出来ません。すると四人の友人は、家の屋根の上に登り、屋根をはがして穴をあけ、床ごと寝ている病人を主イエスの前に吊り降ろしたのです。

この四人の友人は、見ず知らずの他人の家の屋根をはがしてまでも、病の人を主イエスの所へ連れてきたのです。きっと主イエスなら、この人を癒してくださるに違い無いと信じていたのです。

主イエスは、この四人の行動に心動かされ、病の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われ病気を癒されたのです。主イエスは、この病人本人の信仰によってではなく、この病人を連れて来た四人の友人の愛の行動に心動かされ救いがもたらされたのです

私たちの愛する隣人に信仰がないとしても、私たちの信仰による祈りと行動によって癒されるのです。 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-09-25 06:55:08 (1973 ヒット)

聖書 マルコによる福音書1章30〜32節


「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。」


宣教題  『癒された者』   

主イエスと弟子達は、シモンとアンデレの家に行きました。シモンの家では、シモンのしゅうとめが、熱を出して寝ていました。


主イエスは、シモンのしゅうとめのそばに行き、苦しんで寝ている彼女の手を取って起こされました。その時、一瞬にして彼女の熱は去って行きました。


主イエスによって、熱を取り去っていただいたシモンのしゅうとめは、すぐに元気に立ち上がり、主イエスと弟子達一同をもてなしたのです。(「もてなす」と言う言葉は、「仕える。奉仕する」という言葉と同じ意味を持ちます。)


ここに癒された者の生き方があります。主イエスが手を取って起こしてくださったことを経験した人、すなわち癒され、赦され、救われた人々は、この経験に感謝して、神の国のもてなしをするのです。彼女は、病み上がりであるにも拘わらず、主イエスによって癒された喜びに動かされて奉仕する者になっていくのです。


熱を出して寝ていたしゅうとめの世話をする人は、この家にいたでしょう。しかし今まで寝ていた彼女自身が主イエス達をもてなすのです。人任せに出来ない自分がもてなしたいと思ったのです


神の愛によって、私たちは、生き方を変えられます。まさに悔い改めです。悔い改めとは、自らの過去の過ちを反省することだけではありません。主イエスに触れ今までの自分から、新しい自分へと生き方を変えて行くことなのです。


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