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新住所
板橋区仲町23−17
東武東上線 
中板橋駅徒歩12分
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2013-09-22 06:45:46 (1292 ヒット)

本日の聖書 エステル記4章13〜17節
モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」エステルはモルデカイに返事を送った。「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。


宣教題 「この時のためにこそ」    北村 紀一
今日のモルデカイやエステルの姿勢から今の私たちに一番必要なことは何かを学ぶことができます。モルデカイがエステルに要求したことは、「本気」でやってほしいということでした。なぜならば、いい加減な人に成功はないからです。

なぜ伝道できないのか? なぜ自分は成功できないのか? なぜ自分はうまくいかないのか? 聖書を読めば、それに対する答えは簡単であります。あなたは本気なのか?ということです。

みなさんは、本気で何かをしたことがあるでしょうか? 

ある人は大きな実や足跡を残す人がいますし、ある人は何十年経っても変化も実もないことがあります。それはなぜなのか? 共通してるのは、信仰的な姿勢が、どうでもいいという場合が多いのです。つまり、本気で行っていない。命懸けで行なっていない。適当にしているからだという事です。すごく耳の痛い話ではありますが、私も含めて板橋キリスト教会から本気を感じられないのが現状です。しかし、もし本気で休まれる教会を目指すならば、絶対人は救われるようになるのです。だから心を合わせて祈る必要があるのです。

イエス様の生き方、イエス様は十字架で死ぬ為にこの世に来られました。エルサレムに登れば、死ぬことが決まっているのにあえてその道を歩んだのです。私たちを救うためにです。

エステルが同胞の民ユダヤ人を本気で救いたいと思って行動したように、私たちも同胞である日本人を、日本にいる人を救いたいという思いで、本気でその使命を果たせるように目指していきたいのです。

この社会では弱者である私たちが選ばれているのは、弱者だからこそ、できる方法で、神さまを知らない人に、神さまの愛を伝えて、本当の神さま、救い主であるイエス様を伝えていくためです。それが、私たちの使命です。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-09-15 06:55:21 (1226 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書17章24、27節
一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。(イエスは言われた)彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

宣教題 「教会の内と外」   牧師 新保雅雄

神殿税を集める人々がペトロに「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と迫りました。神殿税はユダヤ人の義務だからです。主イエスは、ペトロに「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」と聞きました。

つまり世の王は、自分の息子から税金は取らない。税金は民から取り立てるのです。だとしたら同じように天の父なる神も、神殿税を御自身の御子からは取らないだろう。だから神殿税は収めない。しかし、彼らをつまずかせないために、神殿税を納めることにしょう。

わたし達は、教会、信仰生活に熱心になりすぎるあまり、世の事をおろそかにする事が、あるのではないだろうか。教会生活だけではなく、世のことにも熱心でなければならない。

教会の信仰生活と世の社会生活を、別ものと分けて考えてはならない、と言われているのです。肉と霊と二つの顔を都合により使い分けるクリスチャンを見るときがある。残念である。これが隣人をつまずかせて、宗教離れを起こさせる原因の一つである。私たち自身も各々顧みるべきである。

主イエスはペトロに命じた。ガリラヤ湖で釣りをしなさい、釣れた魚の口の中に銀貨が見つかる。それを神殿税として納めなさい。

主イエスは神の御子であるにもかかわらず、世の人と同じように神殿税を納めた。なぜならわたし達をつまずかせない為である。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-09-08 07:11:34 (1355 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書17章20節
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」


宣教題 「からし種一粒のような信仰でも」  牧師 新保雅雄

主イエスは、言われた。「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

わたしは以前、「信仰が強くなれば、何でも自分の願い通りになる」と思った。しかし後になって間違いに気づいた。

「信仰」とは、「主イエスは、わたしの主である」と認めることです。「わたしが主」ではないのです。「イエスさまが主」なのです。山を動かすのは、主イエス、神様にしかできないことだからです。「信仰」とは、「信頼」することです。主イエスを信頼するのです。

私たちは、私たちの前に立ちはだかる問題がとても大きいものに見えることがあります。解決困難に見えることがあります。絶対にダメだ、と思われることがあります。「主イエスを信じてるが、何も変わらない。昨日と同じ。」と思われることがあります。

まさに、信仰が「からし種一粒」ように小さく無力に思われることがあります。主イエスを信頼すると言うことが、虚しく意味のないものに思われたりする。信仰とは、まさに空しく、からし種一粒のような、ちっぽけなものであるように思われることがある。

しかしそのからし種一粒のような、風が吹けば何処かへなくなってしまうような、弱く、迷う、無力に思われるような信仰が、主イエスによって山のように大きな問題を動かしていくのです。私の信仰に力があるのではない。主イエスが全てを可能にするのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-09-01 06:20:17 (1311 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書16章21〜23節
イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

宣教題 「私達の罪の大きさ」    牧師 新保雅雄

主イエスは、弟子逹に自身が十字架で殺されることを打ち明けた。弟子達は戸惑う。主イエスが神の子、キリストであるなら、なぜ十字架にかかり殺されなければならないのか? 間近で奇跡を見てきた弟子たちにすれば、捕らえられて十字架につけられてしまうような弱い主イエスを、想像することはできなかったからである。

ですからペトロが主イエスを脇へお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、主イエスをいさめた。これは弟子達にとって、当然のことではないでしょうか。

しかし主イエスは、ペトロに「サタン、引き下がれ!あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」主イエスの、十字架への強い決意を見ることができるのです。

私達は、自身の罪のために死を迎えなければならないだろう。しかし主イエスは、「わたしは身代わりに十字架へ」と言われるのです。

この私達を救うために十字架につかれる主イエス。それなのに「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言うことは、私たちの罪は、死を迎えるほどの重いものではない。と思っている。しかし主イエスの死は、主イエスご自身の罪の結果ではなく、私達の罪なのです。

私達の罪は、神の御子キリスト・イエスが、私達の代わりに十字架に死んで下さらなければならないほど、重いものであるということです。それ以外にわたし達が救われる道はないということです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-08-25 07:37:41 (2061 ヒット)

本日の聖書 第一ヨハネの手紙4:16-21
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

宣教題 「神との絆」    アウンダウンライン神学生

私たちが教会に来ているのは神様を愛しているから?神様に愛されているから?ここで愛とは何かを少し考えてみたいと思います。人が言う愛を辞書で見ると、愛とは『かわいがる』『いとしく思う』、男女の間では相手を『好きだと思う』、『大切にする』、『好む』、『おしむ』、『もったいない』と書かれています。人間の愛には欲望が含まれ、自分が愛しているのと同じように自分も愛されたいのです。そして、自分と気が合う、自分が好むなど、自分に対する良い条件を付けるのが人間の愛なのです。

では、神の愛とは、親が自分の子を愛するような一方的な愛なのです。親は子供から何も求めず、子供のためなら良い物を考えて与えます。子供に条件は付けないのです。それ以上に神はご自分の為ではなく、私達一人一人を無条件に愛しているのです。それが神の愛なのです。私たちはその神の愛を知る一部の救われた人々とも言えるでしょう。

人間の親は子共に期待や希望を持ちますが、それは親の為ではなく子共の将来のためであります。そして、子が親の愛を理解し、親孝行された時に親は静かに喜びます。神様も同じです。私達が神様の愛を理解し神様に仕える人になることで神様が喜ぶのです。どうすれば神に仕える人になるのか?それは、神様に愛されている喜びを持って日々生きる証をすることです。生きる証とは、私たちが教会で聞いた、見た、感じた喜びをまず自分で体験し、その体験から学んだ喜びを持って生きることです。また神様の愛のように隣人を愛するのです。

この様に神様との繋がりが私たちの生きる力の元になるのです。神様のように隣人を愛することから神様が罪人である弱い私たちをどれほど愛し、私たちはどれほど愛されているか分かるようになります。子供が親に親孝行することで自分の親と絆を深めるように、私たちも隣人を愛することで神様と恩愛の絆がより強くなるのです。隣人への愛から神様との絆を深めましょう。アーメン


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