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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2013-10-27 01:07:42 (1200 ヒット)

本日の聖書 コヘレトの言葉3章1〜11節

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時/保つ時、放つ時、裂く時、縫う時/黙する時、語る時、愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」


宣教題 「すべてのことに時がある」  北村 紀一 
              
コヘレトは、それぞれのことにはそれぞれの時が定められており、すべてのことは、「時」というものに支配されていると言います。時が来なければ種をまいても実らないし、時が来なければ花を咲かせることもありません。

私たちが生きる上で、豊かに充実して生きるためには「その時」を知る必要があります。「定められた時」は実に「神の時」であり、それを知ることは「人の子の務め」(10節)なのです。しかし、それを見極めても、なお、人はその時のすべてを知ることはできないけれども、人には「永遠を思う心」(信仰)が与えられており、「神はすべてを時宜にかなうようにされている」のです(11節)。

では私たちは、「神の時」を知るものとして生きるにはどうすればよいのでしょうか。それは、「喜び楽しんで一生を送ること」だとコヘレトは言います。これは、神さまを思わないで好き勝手にすることとは違って、神さまの支配の中にあることを認識した上で、神さまに信頼して、神さまに感謝して生きる時に、目が開かれて神さまの恵みの中に生かされている喜びを知ることができるのです。自分の無力と神さまの永遠を知る時でもあります。

さらに、ここで興味深いのは、その楽しみは労苦の反対側にあるのではなく、労苦の中にこそあって、労苦によって得られるものだと言うことです。これが、コヘレトが伝える「信仰の知恵」です。

そして、それは「神を畏れ敬う」(14節)ことから生まれてくる、と言います。それが、「定められた時」を生きる人間の定めだというのです。私たちは「神の時」を見る証人として、労苦を喜び、主にこそより頼むべき者として、神が与えてくださる祝福・恵みの中で生きていきたいものです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-10-20 06:46:51 (1393 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書18章11〜14節
「人の子は、失われたものを救うために来た。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」


宣教題 「主は、迷えるあなたを探し出す」               

今日の聖書箇所を読んだ時に、「自分は、この100匹の羊の中の、どちら側にいるのか?」と考えてみて下さい。つまり、「自分は迷わずにいた99匹の羊の側なのか、それとも迷い出た1匹の羊の側なのか」ということです。

自分をどちら側に置いているかで、この御言葉は、まったく違ったものに聞こえてきます。高いところから主イエスの言葉を聞くのか、それとも自分を低くして、迷えるところから主イエスの御言葉を聞くのかで、まったく違った御言葉に聞こえてきます。

以前わたしは、「自分が信じた。自分で教会にきた。自分の信仰が自分を救った」「自分が、自分が」と思っていました。しかし信仰とは、「自分」が主人公ではなく、神様が主人公なのです。神さまは、迷い出た1匹の羊を探し求める羊飼いのように、わたし達を心配しておられるのです。

信仰の主人公は自分ではなく、主なる神とキリストのものである「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ 15:16)。自分が主イエスを選び、自分が信じたと思っていた。しかし、そうではなかった。主イエスが、迷い出たわたし達を信仰へと導いてくださったのです。
 
わたしたちは、主の御言葉を忘れ、主のもとを離れ去ってしまった迷いでた羊かもしれません。そんな私たちを、主は捜し求め、とらえてくださったのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-10-13 05:05:28 (1439 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書18章6〜7節
しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。


宣教題  「暖かく迎え入れる」              

主は言われる。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである。」

「大きな石臼」とは、人の手ではなく馬やロバ、牛に引かせて回すほど重い石の臼のことです。そんなものを首につけられて海に沈められたら、二度と地上に浮き上がってくることはできません。

それほどまでに、「イエスさまを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」ということが、犯してはならない大罪なのです。

では「これらの小さな者の一人」とは誰のことでしょうか。5節までは「子供」と言われていますが、6節からは「これらの小さな者」と言われています。「小さな者」とは、もちろん子供のことですが、単に子供だけのことを言っているのではありません。

4節の「自分を低くして、この子供のようになる人」も指しています。すなわち年齢的には子供ではないけれど、子供のように低くなって神を求めてきた人、神を父のように信頼してきた人も含みます

「つまずく」というのは、石ころなどにつまずいて倒れることです。神を求めてやってきたのに、それをつまずかせて倒してしまうこと。つまり教会の門をたたいてくる人を温かく迎え入れるということが、何よりも神の喜ばれることなのです。

いかかがでしょうか?私達は先輩のクリスチャンとして、新しい兄弟の見本のようになっていますか。御国への道につまづきの石になっていないでしょうか。悔い改めたいものです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-10-06 08:25:19 (1202 ヒット)

本日の聖書 詩編23編
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」

宣教題 「主に信頼する」    北村 紀一               
1節の「主は羊飼い」は、さまよったときに与えられたものです。この詩が書かれた背景にはイスラエルが荒野をさまよっていたことがわかりますが、「羊飼い」の例えは、神様とイスラエルの関係をわかりやすく、それでいて奥が深く、「いつも守り、与えてくださる、神様の愛への信頼と感謝」が伝わってきます。

羊はおとなしく、従順ですが、弱くて、道に迷いやすいのが特徴です。羊のように私たちは少しの苦難でも悲鳴を上げてしまうものです。だからこそ、羊飼いのような導き手が必要なのです。

ダビデはどんなに孤独が襲ってきても、主が共にいてくださることを確信していました。どんなことがあっても主に呼ばわる者、主に信頼する者に成長させるために、時に困難は必要なことなのです。

人生には、困難・悩み・苦しみは付き物ですし、とても悲しい出来事や、どんなにがんばっても解決できない問題が起こることがあります。「死の陰の谷」とは、もうどうしようもないような孤独に覆われてしまうような恐怖のことでしょう。しかし、どんな恐ろしい孤独が迫ってきても、何も恐れる必要はありません。主が私たちと共にいてくださるからです。

イエス様は羊に命を与えるために、命を捨てた羊飼いです。私たちはすでに「永遠の命」という一番大切なものをいただいています。どんなときも、主が共におられるという命です。それさえあれば、不安や心配はいりません。それに私たちはいつまでも神の家族です。だから、いつも神さまを礼拝することができます。枝が木に繋がって栄養を得るように、神さまに繋がることで、心のエネルギーとやすらぎを得ることができます。疲れと渇きはいつも満たされます。主に信頼して、喜んでイエス様と共に歩むなら、愛と恵みがあなたを追いかけてきます!
主に信頼する人には、必ず神さまの祝福があります。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-09-29 09:02:27 (1301 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書18章1、4節
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。(イエスは言われた)「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」


宣教題 宣教題 「誰が一番偉いのか」  牧師 新保雅雄
この世には、絶えず順位というものがあります。例えば学校では成績による順位がある。会社では売上が競われ順位がつく。そして出世につながる。勝ち組である。弟子たちが主イエスに尋ねました。「だれが天の国でいちばん偉いのでしょうか」弟子たちは、弟子の中での自分の順位が気になったのでしょう。彼らは世の中の勝ち負けが、天の国でもあると思ったのでしょう。自分の順位は?

誰が偉いのか。この「偉い」という言葉は、人と人を比べたときに使う言葉です。つまり、「偉い」人がいて、「偉くない」人がいる。そして人は自分の位置を知るために他人と比べる。「あの人よりは、自分の方が上だ」そして安心する。世は正に競走社会である。

主イエスの時代、ファリサイ派、サドカイ派という宗教指導者が、偉いとされました。律法を厳格に守る。更に事細かく宗教規則を作り、それを守ってみせる。週に2度断食し、神に献げものをする。貧しい人々への施しも忘れない。「あの先生は、なんと立派な人なんだろう」と世の人から称賛を浴びることになる。

まさにこの世は、人間を順位付けし、高い低いと評価する。善し悪しを問う。そして少しでも自分を高いところに置きたいと競い合う。世での競争に勝利したものは勝ち組として「世から賞賛」される。では落ちこぼれた者は、どうするのか? 自分の弱さを神様に心から祈るだろう。そこに「神からの恵である信仰」が生まれる。

弟子たちも、まさにそういうこの世の価値観、競走にとらわれていたということが分かります。すなわち教会も同じく、誰が偉いとか偉くないとか、そのように人を比べてしまう過ちに、おちいる危険があるということです。主イエスは言われます、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」


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