本日の聖書 マタイによる福音書12:39
「よこしまで神に背いた時代の者達はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」
宣教題 「しるし以上のもの」 牧師 新保雅雄
律法学者とファリサイ派の人々が、主イエスに向かって、こう言いました。「先生、しるしを見せてください。」つまり、律法学者やファリサイ派の人々は、自分がメシアであることを、納得させることが出来たならば、信じてあげようと持ち掛けているのです
しかし、律法学者やファリサイ派の人々の言葉を、そのまま額面どおり受け取ることは出来ません。彼らは、たとえ、どんな「しるし」を主イエスが示したとしても、なんだかんだとケチを付けては、主イエスを信じようとはしないのです。
彼らは最初から主イエスを信じ、受け入れる気など、はなはだ無いのです。そんな 彼らの思いを知った主イエスは、彼らのしるしを見せてほしい。に対して言われました「預言者ヨナのしるしのほかには,しるしは与えられない」
ヨナは、神から預言するように指示されたにも拘わらず、これを拒み船で逃亡した。途中、船が嵐に遭い難破しそうになる。その原因がヨナにあるとして、海に放り出されてしまう。そして海の中で巨大な魚に呑み込まれ三日三晩、その魚の腹の中にいた。
その後ヨナは、神の命令によって大魚の腹から吐き出され、ニネベという町で神の言葉を語る。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」こんなことを語ったならば襲われるかもしれない。しかしヨナの説教を素直に聞き入れ、神の裁きを逃れたのです。
「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」これは、ヨナの身に起きたことを例に出して、これから起ころうとしている、ことを語っておられるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書12:28
「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、
神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
宣教題 「神の国は既に来ている」 牧師 新保雅雄
主イエスのところへ、悪霊に取りつかれ、目が見えず、口の利けない人が連れられて来ました。いつものように主イエスによって癒されて、この人は、ものが言え、目が見えるようになりました。
それを見ていた群衆は大変驚き、『この人はダビデの子ではないだろうか』と叫んだのです。「ダビデの子」というのは、ユダヤ人が待ち望んでいるメシア、キリスト、救い主のことを意味します。
ところがファリサイ派の人々は、主イエスの行った奇跡の癒しを、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」と言うのです。 まるで主イエスが、悪霊の頭ベルゼブルの手下ででもあるかのように言ったのです。
主イエスは、ファリサイ派の人々に対して、私がもし、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うならば、あなたたちの仲間は、何の力で悪霊を追い出すのか。と逆に問われました。
彼らは、主イエスを通して成し遂げられた神の奇跡を、素直に受け止めようとせず、悪霊の頭の力を借りて、悪霊を追い出したかのように、まるでサタンの国で起きた出来事のように、ファリサイ派の人々は、主イエスに迫っているのです。
さらに主イエスは、ご自分に敵対するファリサイ派の人々にも「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」28節と言われました。
既に、わたし達の中に神の国は、来ているのです。更に、キリストを信じない人の上にも神の御国は、来ているのです。すべての人の上に神の恵みが降り注いでいます。どうか心を開いて手を差し出してください。誰でも神の恵みを受け取る事が出来ます。
本日の聖書 コリントの信徒への手紙第一 6:19〜20
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現しなさい。」
宣教題 「あなたは神が宿る神殿」
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」ここで、代価と言われているのは、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことを現しています。実に、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことは、私たちを罪から救い出し、神の赦しを得るために、神ご自身が支払ってくださった代価なのです。
私たちは、買い物をします。買い物の際に、代価として、それぞれに付いている値段のお金を支払うのです。わたし達が買い取られた代価の値段は、なんと御子の命ということなのです。つまり神は、わたし達を、それほどまでに愛されている事がわかります。
しかし私たちは、こんなにも愛されていると言うことを忘れてしまって、自分勝手に生きてしまいます。それは買い取られたということを忘れてしまうことです。神から離れてしまうことなのです。私たちが、自分勝手に生きるならば、そこには愛がありません。
ここで「わたしには、すべてのことが許されている」と2回も繰り返されています。おそらくコリント教会の中にいた方の発言でしょう。主イエスの十字架によって救われたこと、罪が赦されたことが、いつの間にか、自分自身の信仰によるものだとなってしまう。
信仰生活が長いと、自分自身が正義である、愛する人である、罪を犯さない良い人である。私は優れたクリスチャンであると、勘違いしてしまい、傲慢になり自分を誇る。そして弱い求道者を見下してしまう。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」私たちが素晴らしいのではなく、聖霊が宿るからその器も光輝くのです。
本日の聖書 ルカによる福音書2:10〜11
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
宣教題 「大きな喜び」 北村 紀一
メリークリスマス! クリスマスおめでとうございます。クリスマスはイエス様がお生まれになったことをお祝いする日です。イエス様は本当の平和の王として、罪(神さま以外のもの)に支配された私たちを救うために、そして、本当に一人ひとりを大事にされる、すべての人が生かしあう愛で包まれた神の国の民(主と共にある者)とするために、私たちのところに来てくださいました。
しかし、巷ではクリスマスムード一色ではありますが、主役抜きの会がほとんどです。もし、あなたの誕生会なのに、あなたのことを忘れられて、集まった人でパーティーをしていたとしたら、本来主役であるあなたは、どんな気持ちになるでしょうか。
はじめてのクリスマスの時も、救い主であるイエス様の誕生をお祝いする人はいませんでした。それどころか、当時の支配者は殺そうとしました。みんなの心にはイエス様の泊まれる場所すらなかったため、締め出された場所である馬小屋に産まれて、飼い葉おけに寝かされていたのです。
救い主は、私たちが知らず知らずのうちに追い出して、気にも留めないような、そんな場所に来て下さったのです。
ところが、そのすごい知らせは、自分のことは誰も気にも留めてくれないけど、自分たちがいなかったら羊たちは生きていけないと思って、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに知らされたのです。暗かった場所に主の栄光が周りを照らしたので羊飼いたちはビックリしましたが、この知らせを喜びました。
救い主は、一人ひとりのすべてをご存じで、どの人のことも忘れることなく、大切にされる御方です。この御方を羊飼いたちが受け入れたように、あなたの心に迎え入れてください。クリスマスはあなたの心にイエス様が来てくださった奇跡、神さまの愛がいつも中心にある「大きな喜びの世界」のはじまりなのです。
本日の聖書 ルカによる福音書2:6,7
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み。布にくるんで飼い葉桶に寝かした。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
宣教題 「あなたの心に主は来られる」 牧師 新保雅雄
救い主イエス・キリストは、生まれてすぐに、布にくるまれで飼い葉桶に寝かせられました。飼い葉桶とは、家畜の馬や牛のえさ箱のことです。くさく、寒く、不潔な場所です。決して、生まれたばかりの赤ん坊にとって、祝福を受ける場所ではありません。
神の子なら豪華な神殿で、やわらかい毛布に包まれて生まれる。しかし、御子イエス・キリストは、飼い葉桶の中に生まれた。なぜなら「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。
当時、ユダヤの人々は、住民登録をせよというローマ皇帝の命令によって、それぞれ自分の属する町へ帰って行きました。マリアも夫のヨセフと共に、ベツレヘムの町へ向かったのです。
ところが、ベツレヘムの町の宿屋は、何処も一杯で、マリアたちが泊まる場所は、ありませんでした。誰も、自分の場所を、主イエスに用意することが出来ませんでした。
そのため、マリアは、仕方なく家畜小屋で子どもを産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。マリアにとって、これは、初めての出産だったのです。それが家畜小屋から始まるのです。
今夕、私たちは、御子イエスの泊まる場所を、用意しているでしょうか。御子イエスのために、お迎えできる場所を用意している。と胸を張って言うことが出来るのでしょうか。
私達は、あまりにも世のことに心とられ、自分のことだけで精いっぱいで、神の恵みさえも見えなくなっている。2千年前のイブの夜も「マリアたちの泊まる場所がなかった」 どうか今宵、静かなイブの中で改めて自分自身を省みてください。