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板橋区仲町23−17
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投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-24 03:53:17 (1533 ヒット)

本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章4節

「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」


宣教題 「十字架によって」  北村紀一               

  十字架とは、犯罪人を磔にして死刑にするための道具です。そんな絶望的で恐ろしいもの、目をそむけたくなるもの、縁起でもないものを、キリスト教会は一番大事な「救い」の象徴にしています。

この十字架によってつまづく人は、そんな縁起の悪いものを象徴にしていること自体がありえないのです。だから、そんな十字架にかけられたイエス様が救い主だとは考えられないわけです。それゆえ十字架上のイエス様を平気で馬鹿にし、罵り、辱めます。

イエス様は、目の見えない人の目を開け、孤独な人の友となり、分け隔てなく、どの人も神さまにとって大事な存在である一人の人として関わられました。イエス様にふれた人は、本物の愛にふれて、人間らしい心を取り戻していきました。

しかし、自分の思い通りにいかないとダメな人によって、捕えられ、不公平な裁判にかけられ、ムチ打たれ、十字架にかけられて殺されてしまったのです。それでも、イエス様は十字架上で、「父よ、この人たちを赦してください。何をしているのかわからないのです。」と、御自身を十字架にかける者の為に祈るのです。

イエス様にふれた人は、自分こそ十字架にかからなければならない者であることを知るのですが、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」ペトロの手紙一2:24と言われているように、イエス様が自分の身代わりとなって十字架にかかられたことを知るのです。これが十字架の意味です。

私たちは、こんな自分のために犠牲になってくれる人(救い主)がいることで、本当の愛を知るのです。十字架は絶望(暗闇)を希望(光)に変えられ、目線が変えられ、生き方が変えられ、本当に頼るべき御方を知って、共に生きる者へと変えられるのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-17 06:23:37 (1795 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章44〜46節

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。" 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

宣教題 「全てを献げる」              

ここには二つの天の国の例えが語られている。最初の天の国は「畑に隠された宝のようなものだ」です。畑で宝を発見した最初の人は、それを全部自分のものとしようとする。それで、宝を再び土の中に埋め戻し、何食わぬ顔して一旦帰る。その後、自分の財産をすべて処分して、その畑ごとそっくり買ってしまう。

次の天の国は「良い真珠を捜している商人のようなものだ」です。この真珠の商人は、良い真珠を探し歩いていました。そしてついに最高の真珠を見つけたのです。そこで彼は、持ち物を全て売り払って、その最高の真珠を買ったのです。

両方に共通しているのは、「全財産を売り払って買う」ということです。「天の国」とは、そのようなものであると主イエスは言われています。天の国とは、イエス・キリストのことを言われています。

イエス・キリストの愛を知るとき、あの社会という大きな畑のような所で、宝物を見つけた時のように、あの商人が最高の真珠を見つけた時のように、今あるものを、全て捨て去ってでも手に入れたい。

そんな祝福の、何ものにも代え難い天の国、イエス・キリストの愛。

信仰というのは「差し出す」ことではなく、「いただく」ことであると思っていないでしょうか。私たちが主イエスを信じるとき、私というものを神様にお献げすることから始まるのです。

つまり「自己を捨てる」ことなのです。私を献げること、信頼して委ねること、天の国とは、この信頼関係で出来上がっているのです。


 




 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-03 07:19:31 (1698 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書 13章29節

主人は言った「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」


宣教題  「あなたは大切な一本の麦」             

畑に良い種が蒔かれました。その夜、闇に紛れて悪魔がやってきて、毒麦の種を蒔いていきました。時が立ち、両方とも成長する。やがて穂がつき始める。そこで初めて、毒麦が混ざって生えていたことに気がつく。農夫達は、大変だ、すぐ抜かなくてはならない。世の常識で考えれば、毒麦が生えている、と分かった時点で抜きとるでしょう。

「毒麦」、これを食べると食中毒をおこす恐ろしいものです。当時は、死ぬ者もいたことでしょう。農夫は、主人に言います。「今すぐに毒麦を抜きに行きましょうか」。ところが、この主人は、「毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜くかもしれない。だから毒麦を抜かないで、そのままにしておきなさい。」こう言うのです。

この「主人」とは、神様のことです。なぜこの主人は、毒麦だと分かった時点で、毒麦を抜かないのでしょうか? 早く抜かなければ、他の良い麦の生長にも悪い影響を与えます。それに毒のある麦ですから、わかった時点で、早く引き抜かなければなりません。しかし神様は、抜かないで、刈り入れのときまで、そのままにしておけと言うのです。

ここに「神様の愛」があります。毒麦を抜くときに、間違って良い麦も一緒に抜かれてしまうかもしれない。たった1本の麦さえも、誤って抜かれてしまうことがあってはならない。私たち一人一人は、神さまにとって、大切な1本の良い麦なのです。しかし農夫は、良い麦を守るには、多少の犠牲があっても、今のうちに抜いてしまおう。そう思ったのです。

1本でも間違って抜くことがないように。待ってくださる神の愛。今私たちには、困難や試練もあるかもしれない。あるいは毒麦に毒されているかもしれない。しかし、愛されているのです。神さまは、確かに愛する良い種を蒔かれたのです。そのことを信じてください。その時が来れば、あなたは必ず神の御国へと救われます。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-02-23 23:39:06 (1273 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書25章14〜15節

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン預けて旅に出かけた。」


宣教題 「天の国の生き方」  北村 紀一              

「ある人が旅行に出かけるとき、僕(しもべ)たちを呼んで、自分の財産を預けた」(14節)。主人が僕たちに自分の財産を預ける。それは、私たちの人生は、神さまのものを預かって生きている、ということです。

預けられた人生を生きる。それは今日のたとえ話においては、3人の僕が主人の財産を、それぞれの力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントン預けられて、そのタラントンをどのように生かしたかという内容です。

この内容を単純に考えると、預けられた財産を活用して儲けた者はほめられ、財産を運用しないで、儲けなかった者が叱られてしまうかのように思われます。では、主人がほめたり、叱ったりする理由は、儲けがあったか無かったか、ということなのでしょうか。

そうではありません。預けられたものが大きくても小さくても、その財産を何らかの形で生かそうと努めたのであれば、たとえ儲けが無かったとしても、主人はやはり、「忠実な良い僕だ。よくやった」とほめてくださるに違いありません。つまり、主人は、財産(神さまの知識)を持っているかどうかではなく、私たちが信仰を持って、神さまの御心に従うかどうか、つまり与えられた財産を生かそうとしたかどうか、その思い、志、生き方をみているのです。

私たちは、人と自分を比べて、自分のことを評価しようとします。だから、自分が劣っていると、何か一生懸命することが馬鹿らしくなったり、やる気をなくしたり、人をうらやんだり、妬んだり、いじけたりします。そして「神さまは不公平だ」と考えたりします。そういう時、自分に預けられたものは、他人と比較すれば小さく見えることもあるでしょう。

けれども、惑わされないで、しっかり見れば、与えられているものは決して小さくはなく、一タラントン(約1億円)でも、むしろ大きいのです。そのように主から預けられたものを信じれば、比較の問題よりも、自分は自分として、自分らしく精一杯生きれることに感謝し、いつも主と人に感謝する心(天の国)が拡がるのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-02-17 06:20:18 (1501 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書 13章10〜13節

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」

宣教題 「御国の秘密を知る者たち」  牧師 新保雅雄              

前回は主イエスが「種を蒔く人」のたとえ話しをされました。そして今回のところで「種を蒔く人」のたとえ話の説明を、弟子たちだけにされています。

弟子たちには、たとえの説明をし、そのほかの群衆には、たとえを語ることだけで終わっているのです。主イエスは、弟子たちと他の人たち、群衆との間に、なぜ違いを設けているのでしょうか?

11節で、「天の国の秘密」という言葉を主イエスは、使っています。秘密というものは、みんなが知っていたら秘密になりません。一部の人だけが知っているから「秘密」なのです。主イエスの言われる「秘密」とは、神の御子イエス・キリストによって人類が救われるという、神さまの御計画のことです。

もっとストレートに、「わたしがキリストだ」「聖書が預言しているのはわたしのことだ」「わたしが神の子だ」と、言わないのでしょうか? それは、彼らが「理解できないから」だと、主イエスは言われています。では弟子たちと群衆の違いは、なんでしょうか? 

群衆は、目的を果たすと去っていきます。病気を癒してもらったら、主イエスのもとを去って帰っていきます。しかし弟子たちは、そうではありません。主イエスの周りにいつもいました。彼らは神を求めていたのです。御国を求めていたのです。

弟子たちは、癒された側から、癒す側になっていくのです。そのためにはイエス・キリストは、神の御子である確信が必要なのです。

 


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