本日の聖書 マタイによる福音書26章26〜28節
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
宣教題 「決して見捨てない」 牧師 新保雅雄
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」この「血」とは、十字架で主イエスが流された血のことを言われている。
無実の主イエスが、不幸にして弟子の裏切りによって捕らえられ、十字架で殺されてしまった。というようなものではなく、むしろ私たちに命を与えるために、主イエス、ご自身から十字架に向かって行かれる様子がわかります。
そしてこの最後の晩餐の席には、主イエスを裏切ったユダがいます。さらに弟子たちが、このあとご自身を見捨てて逃げていくことも主イエスは、ご存じで共に食事をされているのです。
ペトロが主イエスのことを三度「知らない」と否認することもご存じでした。にもかかわらず、共に晩餐の席に着いているのです。見捨てて裏切る弟子たちが、最後の晩餐に招かれているのです。
このことで十字架が誰のために、そして何の為であるかがわかる。
それは「赦し」の為です。弟子たちは主イエスを見捨てる。しかし主イエスは、こんな弟子たちさえも決して見捨てないのです。
ここに神の愛があります。愛とは、どんな時も見捨てないことです。私たちのようなものさえも、見捨てられないのです。主イエスと共なる食卓に招かれているのです。ああ感謝、感謝。
本日の聖書 マタイによる福音書26章21〜23節
「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
宣教題「私たちも招かれている」 牧師 新保雅雄
主イエスは言われた、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている。」
この「あなた方」とは、誰であろう今主イエスといっしょに過越の食事をとっている12弟子のことです。つまり12弟子のうちの一人が、主イエスを裏切るというのです。
12弟子とは主イエスに選ばれ、家族や仕事を捨て従って来たものたちの集まりです。その12弟子に、「生まれない方がよかった」とも言われたのです。12弟子は「心を痛めて」「まさか私ではないでしょうね」と言ったのです。彼らは、否定はしませんでした。どこかに信じきれない自分がいたのでしょうか。人は弱いのです。
裏切りのユダも、この最後の晩餐の食卓に招かれているのです。そして主イエスと同じ鉢に食べ物を浸して食べているのです。12弟子の一人であるユダは、自分を招き愛してくださった主イエスを、銀貨30枚でユダヤ当局へ売り渡します。大罪を犯します。
しかしこのユダさえも、今、最後の晩餐の食卓に招かれているのです。もしユダが、この食卓から締め出されているとしたら、罪人は、主イエスの晩餐に招かれない、とうことになります。つまり罪人は救われない、ということになってしまうのです。
最悪の罪人、裏切り者ユダが、この最後の晩餐の食卓に招かれ、加えられているのを見る時、そして100%裏切らないと言い切れない12弟子、神の国に入れていただく値打ちのない、神に愛される資格が何もない、この信仰の弱い私たちでさえも、神の国の食卓に招かれていることを思うのです。ここに神の愛があります。
本日の聖書 マタイによる福音書26章7〜10節
「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」
宣教題 「愛の行方」 牧師 新保雅雄
イスラエルの宗教指導者である祭司長や長老は、神の御子である主イエスを殺そうと相談する。一方では、すべてを捨てて主イエスに従ってきた弟子の一人が、主イエスを銀貨三十枚で裏切ろうとする様々な人間の欲望が渦巻く世界。その中を主イエスはまっすぐに十字架へと向かって進んで行かれる。まさに、愛はどこにあるのか、と叫ばざるを得ない。
そんなどろどろした欲望の世界の中に、美しい出来事が記されている。一人の女が、「きわめて高価な香油の入った壺」を持ってきて、主イエスの頭に香油を注いだのだ。
主イエスが、もうじき十字架に付けられる、と聞いた。十字架にかかるのを、止めることは自分にはできない。そんな力もない。ただ自分に出来ることは、大切にしていた高価な香油、これを主イエスに差し上げることだった。
その油は流れ落ちてしまって、なくなって、何の意味もないかもしれない。それを見ていた弟子は貧しい人に施したほうがましだ。と話している。しかし主イエスは、彼女のしたことを、「わたしに良いことをしてくれた」と言われたのです。
「キリスト」という言葉の意味は「油を注がれた人」という意味である。彼女のしたことは、小さなことですが、しかしそれが、主イエスをキリスト、救い主にしたのです。
私たちも信仰を貫くとき、時としてこんなことをして、何の意味があるのだろうか、と思える時がある。しかし主イエスは「よいことをしてくれた」と言われるのです。
本日の聖書 イザヤ書1章10〜20節(中心15〜20)
「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。」
宣教題「論じ合おうではないか」 北村紀一
礼拝と献金を守っている人々に対して、罪を悔い改めずに、いくらお前たちが手を広げて祈っても私は目を覆う。決して聞かない。と主は言われます。
これは、罪を悔い改めないままで、礼拝を守っても、いくら献金をしても、主は喜ばれないということです。聖書は「聞き従うことはいけにえにまさる」と言われるように、意地を張ったり、意味のない頑固を貫くよりも、まず悔い改めることが必要なのです。悔い改めることは聞き従うことだからです。
しっかり現実に向き合って、本当に必要なことに耳を傾けるようにと主は求めておられます。耳を傾けると対話がはじまるからです。
ここで主は、「論じ合おうではないか」と言われます。この「論じ合おう」という言葉は法廷用語なので、裁判のときに使われる言葉ですが、注目したいのは、神様は判決を下す裁判官としてではなく、裁判席から被告席まで降りてきて、問題解決の糸口を一緒に見つけ出そうとしておられるということです。その解決のために差し出された提案は、18節に言われるように、すごい恵みであり驚くべきことでした。それは「人間の罪がどれほど深くても、もし悔い改めるなら、神は雪のように白く、あるいは羊の毛のように白くしてくださる」ということです。希望と救いがあるのです。
だから聖書は「悔い改めて、神様に聞き従いましょう」と伝えるのです。
聞くことは知恵のはじめ、主の十字架を知り、心の土台に据えて私たちが「信仰」に生きるためです。信仰とは、教会に来ているときも教会以外の場所であっても、私たちが神様を恐れ、心から神様を信じて、みことばに従って生きようとすることです。「できる」「できない」ではありません。神さまに心を向けて、みことばに生きよう、そうしようとする心です。それを神さまは求めて「論じ合おうではないか」と言われているのです。
本日の聖書 マタイによる福音書25章35〜40
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
宣教題 「最も小さき者」 牧師 新保雅雄
今朝の聖書は、二人の人が出てきます。このことを主は「羊と山羊」として審判のとき右と左、つまり「永遠の罰と永遠の命」へと分けられる。と言われています。それではその条件は何でしょうか?
主は言われる。「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
それに対して一人は、「わたしは何のお世話もしていません」と答える。しかし主イエスは「あなたは永遠の命の御国へ入りなさい」と言われる。
もう一人は「わたしはお世話をしたではありませんか」と答える。しかし主イエスは「永遠の罰を受けなさい」と言われる。
「私は良いことをたくさんしてきた。困っている人も助けてきた。だから当然永遠の命を受ける者だ」と思ったとき、それは後者の裁きを受ける側になるでしょう。
私たちは、信仰が弱く何もできなかった。そんな自分を悔いる。しかし、私たちの廻りに弱く小さい者がいないだろうか。そこに天の入り口があるのです。世から捨てられた十字架のキリストです。
