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住所変更のお知らせ
新住所
板橋区仲町23−17
東武東上線 
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2014-01-05 06:46:23 (1203 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書20章7〜11節

彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。


宣教題 『あなたも、ぶどう園に行きなさい』  牧師 新保雅雄      

このたとえ話を読んで、あなたは、この中の誰でしょうか?

朝一番に雇われた人、午前9時に雇われた人、あるいは昼の12時、午後の3時、それとも、夕方5時になって雇われて、1時間しか働かなかった人、誰でしょうか? 

 

「わたしは朝一番から働いた者だ」と思うのなら、神様を不公平だと非難したくなるでしょう。あるいは、9時や12時に雇われた者も、夕方5時になって雇われて1時間しか働かなかった者が、自分と同じ賃金をもらったということについて不満を持つでしょう。


しかし自分が、だれも雇ってくれる人がおらず、夕方5時になってやっと主人に雇われて、1時間しか働かなかった者だとしたらどうでしょうか?賃金以上の喜びです。早くから1日の賃金を約束された人を、横目に見ながら不安の中1日待ち続けたのですから。


だれも雇ってくれる者がおらず、夕方まで広場に立ち続けた。こんな時間まで待っても無駄だと思いながらも、腹をすかした家族が待つ家へ、手ぶらで帰ることもできない。途方に暮れて立ち続けていた、この最後の者が自分自身だと知った時、この「ぶどう園の労働者」のたとえ話が理解できるのです。


罪を悔い改め神を受け入れるのに、遅すぎると言うことはありません。信仰の世界とはこういう世界なのです。神を信じられない自分を責めなくてもいいのです。人生の日没までには、必ず神があなたを導かれます。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-12-29 07:01:51 (1192 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書19章20〜22節

「金持ちの青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」


宣教題 「欠けた私を憐れんで下さい」  牧師 新保雅雄

      

彼は律法を熱心に守り、善い行いを心がけた。世においても一生懸命働いて沢山の財を残した。自分で出来うることは全て行った。成功者である。信仰者としての自信もあったのだろう。彼は胸を張って主イエスに尋ねる。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」彼は、確信がほしかったのです。


主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われた。


その言葉を聞いた青年は、悲しみながら立ち去った。なぜなら彼は「たくさんの財産を持っていたからである」そのとき彼は、初めて自分が不完全で欠けている人間であることを知ったのです。


完全になるということは、何と難しいことだろうか。まさに「ラクダが針の穴をとおる方がまだやさしい」と思われてくる。つまり自分の善い行い修行では、永遠の命の国、天国へは入れないのです。


彼は、律法を守り貧しい人々への施しもしてきたでしょう。しかしその施しはあくまでも、自分が救われるためであり、財産を売り払ってまで、貧しい人々に施しをするということではない、沢山の財産の中から余ったものであった。弱い者への愛する心がない。


「わたしは、こんなに善いことをしてきました。だから天国に入れてください」何と傲慢な者なのだろうか。私たちが出来ることは、「主よ、罪人の私を憐れんで下さい」と心から祈ることだけである。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-12-22 06:45:24 (1254 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書1章1〜5節

初めに言があった。言は神とともにあった。 言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


宣教題  「闇に輝く光を知る」   北村 紀一 

       

メリークリスマス! クリスマスおめでとうございます。


今日の箇所は、言葉と神が一体であること、神さまの言葉の内に「命」があって、この「命」が人間を照らす「光」であったと言われています。人間を照らす「まことの光」。「光」は私たちを生かすために来たのです。

 

クリスマスになると歌われる真っ赤なお鼻のトナカイさんの唄にもありますように、トナカイさんの赤いお鼻は普段、何の役にも立たないからと馬鹿にされて排斥されるわけです。でも、サンタのおじさんに、そのピカピカの赤いお鼻こそ暗い夜道には必要だと言われ、いつも泣いていたトナカイさんは、はじめて「光」に照らされて自分の存在を喜んで、サンタさんのお手伝いをするようになったわけです。トナカイさんは復活しました。そのようにイエス様は暗闇を打ち破る復活の光です。


でも、「暗闇は光を理解しなかった」とあるように、私たちはふだん「光」について特別に意識しているわけではありません。しかし、光がいかにすごい働きをしてるのか、大切なものかは、どこかで分かっています。


光は、明るいところでは目立ちませんが、暗闇に光が照らされるとたちまち暗闇はなくなってしまいます。そのようにまことの光が、私たちを救うために、私たちと同じ姿となって来てくださったのです。(1:14)


「この光こそが、イエス様です」私たちに本当の愛の光を照らして、命の輝きを与えてくださるのです。その愛によって、このような私も「生きていいんだぁ」と希望の光が宿るのです。神さまの愛(主)が共にある人生となるのです。そして、私たちにとっての赤いお鼻(痛み)こそが、ろうそくのように周りを照らす光とされるのです。


このまことの光であるイエス様が、あなたと一緒にいてくださるのです。「メリークリスマス!おめでとう。恵まれた方、主があなたと共におられます。」これが、神さまからのクリスマスプレゼントです。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-12-15 07:09:02 (1200 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書1章18〜21節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」


宣教題  「恐れず受け入れる」   牧師 新保雅雄

        

「神様が共にいて下さる」ということは、天使がヨセフに告げたように、恐れなくて良いということなのです。目の前に大きな困難があっても、恐れず一歩を踏み出しなさいということです。


この時ヨセフは恐れていました。マリアとヨセフは婚約の身であり、子供を身ごもるということが、当時の社会では大きな罪を背負っていくことになるのです。ヨセフは迷いました。自分はマリアと関係していないことを表ざたにして、マリアを石打ちの刑にするのか。それとも表ざたにしないで密かに離縁するか。


身ごもるマリアを受け入れて、本当にマリアとそのお腹の子を愛していけるのだろうか。それは無理なことです。ヨセフは世間の目を恐れていたのです。やはり、このまま静かに離縁しょう。


そう思いめぐらしているとき「ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」その恐れの中でヨセフは、天使からお告げを聞いたのです。そしてこれからの困難であろう人生を選んだのです。


私たちは、明日に対して、あまり明るい見通しを持っていないかもしれません。しかし、天使は告げるのです。「神は我らと共におられる」私共の明日は、神様の御手の中にあり、今日も明日も、私たちと共にいて下さる。だから「恐れることはない」のです。


あなたは一人ではないのだから、クリスマス感謝、感謝・・・


投稿者 : church 投稿日時: 2013-12-08 07:00:15 (1167 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書19章13〜15節

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた


宣教題 「手を引かれた子供のように」  牧師 新保雅雄

        

主イエスに子供を祝福していただくために、親たちが子供を連れて来ました。これを見て弟子たちは親たちを叱り帰そうとしました。


しかし主イエスは、逆に弟子たちを叱りました。そして「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。


主イエスのところに連れてこられた子供たちは、何かしたわけでもないのに、主イエスは「天の国はこのような者たちのものである」と言われる。いったいこれはどういうことなのでしょうか?


ヒントは、子供たちはどうやって主イエスのところにやってきたのでしょうか?です。「人々が子供たちを連れてきた」と書いてある。つまり親に連れられて来たのです。それだけです。努力したどころではない。連れられてきただけです。それが天の国なのです。


「私は自分で主イエスのもとにやってきました」と言うことのできる人がいるでしょうか。わたしは自分が選んで教会に行った、という思いが、いかにごう慢であったか。今朝の礼拝の初めに牧師、司会者が「教会へ来ようとしている兄姉があれば無事に」と祈ります


自分の力で主イエスのもとに来ることができる人などいません。全ては聖霊の導きです。天の国は、主イエスが一方的にお与えになるものです。子供は自分で教会へ来たのではない。親たちに手を引かれてきたのです。これが聖霊の働きです。どうか心を一つにしてまだ見ぬ兄姉、お休みされている兄姉のために祈りましょう。


 


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