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新住所
板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2012-06-10 06:37:48 (1802 ヒット)

本日の聖書 使徒言行録3章2〜8節

生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。

宣教題  「人頼みから神頼みへ」  牧師 新保雅雄

ペトロとヨハネは、神殿の「美しい門」で、足の悪い男が物乞いをしているのを見た。彼は門のそばにいたが、一度としてその門をくぐって神殿に入り礼拝を奉げ、神を讃美することは無かった。

門のそばに座り、わずかな施しのお金で、その日を生きるのである。それは人の支えによって生きる40年であった。しかし、二人のキリスト者に出会うことによって、まったく新しい人生へと方向転換して行くのである。彼は、生きる意味と生きる力、生きる目標を与えられた。「人頼みから神頼みへ」と変えられたのであった。

その変化を呼び起こしたのが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と呼びかけたペテロの祈りの様な言葉である。彼の望んだ物は金銀、そして今日のパンであった。彼の命は人頼みである。ペトロは、人にすがるのではなく、神の御子イエスの生きたパンを求めていきなさい、と呼びかけたのである

そのとき奇跡が起きる。彼は自分の足で、自分の人生を歩き出したのです。彼の信仰ではなく、ペトロの祈りで救いが起きるのです。今日、私達が不純な動機で、教会に来たとしても、神は全てをご存知である。私達の願いや信仰よりも、神の救いが先にあるのである。


 


 


 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-06-03 07:02:03 (1653 ヒット)

本日の聖書 使徒言行録2章44〜47節

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

宣教題 『困難が群れを一つにする』   牧師 新保雅雄

主イエスが、私たちの罪のために十字架で死なれた。しかし三日目に蘇られました。この神の子イエスが、私達の身代わりになられたことで、多く人ガキリスト者として誕生しました。しかし、まだまだキリスト者には、大きな迫害がありました。

ペテロ達使徒は、ユダヤ人に何度も捕らえられては、牢に入れられ鞭打たれました。しかし、困難に合えば合うほど彼らの信仰は、固くなっていきます。

使徒たちは、この困難によって主イエスに選ばれて主イエスの歩んだ道を歩んでいく。主イエスが共におられる、という確信が強くなっていくのです。選ばれ集められた群れが、キリストの体なる教会になっていく時なのです。

困難は、キリストの選んだ群れをより一つにまとめていきます。

「財産や持ち物を分け合う」それぞれに与えられた財や才能、知恵、力が、自分一人の為ではなく群れのために使われていく。

「毎日ひたすら心を一つにして祈る」主なる神は一人である。真理は一つである。そして祈りも一つになり群れも一つになる。

「一緒に食事をし神を讃美していた」教会の中だけではなく、人生の営みすべてを共有していく。共に泣き共に喜ぶ。

そして「信者たちは皆一つになって」いくのである。兄弟姉妹たち、艱難辛苦にあるときこそ、一つになれるように祈りましょう。


投稿者 : church 投稿日時: 2012-05-27 07:34:49 (1923 ヒット)

本日の聖書 ヨハネによる福音書7章37〜39節

「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」

宣教題 「渇いている者私のもとに来なさい」  牧師 新保雅雄

ヨハネによる福音書は、聖霊について、それを象徴的に「水」にたとえています。水というものは、動物にとって必要不可欠なものです。水はすべての細胞の中にあり、生命の機能を維持するために必要なものです。

どんな動物であろうと水が断たれたとき、渇きを覚え、水分の補給を必要とします。このような肉体の渇きは、私たちも経験したことのあるものです。また同時に、この渇きは、人間の心、人格、魂、そして霊においても、しばしば起こると主イエスは語られています

では私たちの心や霊の渇きは、何を注ぐことで癒されるのか。それはイエス・キリストにしか満たすことのできないものです。しかし、これを満たそうと人間は、様々なものに、その解決を求めます。  

このような心や霊の渇きを癒すために、私たちは偶像を拝み、また人の知恵を求め、肉体の限界に修行を行う。そして失敗し、前以上に深い渇きに陥ります。それは悲しいことでありますが、人は、その渇きを癒すために、いろいろな物を求めることで、渇きを癒そうと必死なのです。しかし渇きは癒されない。

主イエスは、言われる。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」どうか信じて求めてください。豊かな水をたたえた、潤いのある、魅力的な祝福の人生がおくれます。

そして主イエスによる人生は、自分だけではなく周囲をも祝福する。


投稿者 : church 投稿日時: 2012-05-20 05:58:00 (1665 ヒット)

本日の聖書 使徒言行録2章37、38節

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

宣教題  「神の賜物、悔い改め」  牧師 新保雅雄

聖霊に満たされてペトロは語ります。主イエスこそ、約束されたダビデの子であり、死の苦しみから解放されて復活された、メシア、キリストである。沢山の人々に力強く証しました。

するとそれを聞いていた人々は、「大いに心を打たれ、兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけます。(37節)。それに対してペトロは、悔い改めを迫ります。

ペトロの宣教は、集まった一人一人が犯した「自分の罪」として、自分自身の悔い改めを迫るものとなりました。この悔い改めから、最初のリヴァイヴァル(信仰復興)が生まれていくのです。

百二十人ほどの小さな群れが(1章15節)、悔い改めによって三千人もの信仰者が加えられ、大きな群れとして、エルサレム教会、すなわち初代のキリスト教会の姿ガ出来上がっていきます。

このようにキリスト教会は、聖霊の働きによる悔い改めから起こされていくのです。逆に言えば、真実な悔い改めのないところでは、どれほど多くの人が集っていても、奉仕がなされていたとしても、それは神の教会からは、程遠いものになってしまいます。

「悔い改め」は、神から来るのであり、神が私達の内に起こしてくださるものなのです。ですから私達は、この神の働きが興されていくように、祈り求めなければならないのです。「悔い改め」は、自分の努力と意志だけで成り立つものではなく神からの賜物なのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-05-13 07:46:29 (2080 ヒット)

本日の聖書 使徒言行録1章13〜15節

彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。

宣教題  「二階の祈りの部屋」  牧師 新保雅雄

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4、5節)という、主イエスの約束を思い出した弟子達は、彼らがとどまっていた二階の部屋で、熱心に約束の聖霊を待ち望み、心を「一つ」にした「祈る群れ」となりました。

そのとき彼らは、わずか百二十人ほどの小さな群れにすぎず、依然として主イエスに対して無理解でした。しかも裏切り者の集団であり、不信仰と無理解の群れです。ユダヤ人からの迫害を恐れて、家の中にひっそりと隠れていた、小心で無力な人々でした。

主イエスの十字架の後の最初の教会は、弱い群れにすぎませんでした。しかし彼らは「一つ」となって「祈る群れ」でした。そして祈る彼らのただ中にキリストは臨在し、祈りに応えて下さる。

「もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。二人、三人、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18章19、20節)

私達の教会に、そして私達一人一人にも、この「二階の祈りの部屋」が必要なのです。自分の働きを始める前に、まず祈ることです。祈って、神が自分の中で働きを支えてくださることを求めるのです。

それがどんなに小さく無力な、欠けた者たちの集まりであっても、それは力強いキリストの教会となっていくのです。


 


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