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投稿者 : church 投稿日時: 2012-01-07 23:26:35 (2159 ヒット)

聖書 ローマの信徒への手紙5章8節

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

宣教題  「こんなにも愛されている」   

人は、生まれて幼いとき、親のもとにあるとき、人生は親の考えに基づく。何事にも疑問をもたず、親を100%信頼している。

しかし、ある時から「俺はこうだ!」自己を主張したくなる。自我の目覚めである。親の言葉に生きることから、自分の言葉によって生きようとする。そして親への反抗、社会への反抗となっていく。自分の世界にあこがれ、自由を求めて社会へ飛び出す。

「知恵の実」を人間が食べたときである。自己を出したくなる。ダメと言われるものは、非常に魅力的に見える。

そして少年から青年になり大人になっていく。社会の厳しさを知る。そんな時、親の愛を思い出す。病気で床に伏せた時、一晩中、寝ないでタオルを変えてくれた。そのときは知らなかった。しかし、いま気がつく、愛されていたのである。単車で事故を起こし、全身ギブスで固定されていた時、変われるものなら変わってやりたいと、泣いてくれた人がいる。でもそのときは気がつかなかった。学校に行かす為に、朝から夜まで手を真っ赤にしてパートで皿洗いをしていてくれた。でも私は知らずに遊びボケていた。大人になった今、その事がわかる。私は、愛されていたのである。

何不自由なく愛されていた時、愛を知ることが出来なかった。それどころか、「うるせえな!」反抗していたのである。自由な世界を求め神から離れ旅をするとき、そこにあるものは、孤独、挫折、騙し、裏切り、自己中心的な冷酷社会である。その中に同化してしまう自分を悲しむ、こんなはずじゃなかった。これが自由か?

そしてたどり着いたのは、キリストの十字架であった。神に敵対していた時でさえ、命をかけて愛してくれていた。神の愛を知るとき、「私は一人で生きて来たのではない。多くの人達に支えられて生かされている。」このことを知る。ただ感謝、感謝・・・

 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-01-01 05:14:52 (2074 ヒット)

聖書 マルコによる福音書15

「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」

宣教題  「あなたの救いの為に生まれ・・・」   

総督ピラトによって、主イエスは十字架に付けられることが決定しました。そして主イエスに対する陰湿な言動が始まったのです。

兵士たちが主イエスを、総督官邸の中に引いて行きました。兵士たちは、主イエスに向かって「ユダヤ人の王、万歳」と言って、主イエスを拝み、棒でたたき、唾を吐きかけるのです。

十字架を死刑場まで運ぶことは、死刑囚の勤めです。しかし主イエスは、前夜から続く取調べと鞭打ちによって、十字架をかつげません。そのとき、ちょうど通りかかったシモンに十字架を担がせたのです。こうして主イエスは、午前9時に十字架にかけられました。罪状書きは「ユダヤ人の王」と記されました。

人々の主イエスに対する仕打ちは、とどまる所を知りません。通りがかった人々は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。 祭司長、律法学者たちも「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。 さらに、一緒に十字架に付けられた者達までののしったのです。

主イエスは、十字架に踏み止まられました。決して、十字架から降りて自分を救おうとは、されなかったのです。  この主イエスの姿を、皆さんはどう思われるでしょうか。自身を救う為ではなく。人を救うために世に来られた、ここに主イエスの愛があります。

使徒信条では、この二つの言葉が続けて記されています。「おとめマリアから生まれ」「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」まるで、生まれたと思ったら、すぐに苦しみを受けたかのように思えてくる。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-12-25 07:04:17 (1884 ヒット)

メリークリスマス!

聖 書 ルカによる福音書2章14〜16節

「『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。』

宣教題 「本当のクリスマス」

メリークリスマス! クリスマスおめでとうございます。クリスマスのはじまりは、今から2011年前に当時もっとも小さな町であるベツレヘムでの出来事から始まっています。その町の馬小屋で産声を上げた赤ちゃんがいました。この赤ちゃんが世界中の人々に「愛」と「希望」と「救い」を運んでくれました。

産まれた場所はちょっと臭うような馬小屋でぼろ布にくるまれて飼い葉桶に寝かされていました。しかも、当時のユダヤの王様はお祝いをするどころか、自分以外に本当の王の存在を知り不安になり殺そうとしました。

しかし、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼い(当時最も身分の低い者)の前に天使が現れて「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。この方こそ主メシアである」と言われた後、本日の聖句に書かれているように、天使の大群が神を賛美したのでした。

貧しい場所で産まれた救い主は、貧しい人々の中で育ち、やがて大人になって御自分の使命を果たす時が来ると、もっとも小さくされている人を大事にするために、周りの評価などは全く気にせず、罪人扱いされた人、社会から見捨てられた人(自分は誰にも愛されていないと思う人)の友達となりました。

また、誰もが神様に愛されている存在なのに、差別して人間扱いしない当時の指導者に、それこそ神様が悲しむことだと悔い改めを迫りました。そのように神様の愛を伝え続け、神様から離れていた人が再び神様に立ち返るようにされていきました。しかし当時の偉い人達はイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。クリスマスは、この赤ちゃんが私たちの罪をすべて背負ってくださるために産まれて来たことを覚える時です。そして、羊飼い達が、主が知らせてくださったその出来事(愛)を見ようではないかと、ベツレヘムに急いで行ったように、この続きは、ぜひベツレヘム(教会)で確認してください。


投稿者 : church 投稿日時: 2011-12-18 06:57:20 (2517 ヒット)

聖 書 ルカによる福音書2:6,7

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み。布にくるんで飼い葉桶に寝かした。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

宣教題 「主をお迎えする準備は」    

救い主イエス・キリストは、生まれてすぐに、布にくるまれで飼い葉桶に寝かせられました。飼い葉桶とは、家畜の馬や牛のえさ箱のことです。くさく、寒く、不潔な場所です。決して、生まれたばかりの赤ん坊にとって、祝福を受ける場所ではありません。

神の子なら豪華な神殿で、やわらかい毛布に包まれて生まれる。しかし、御子イエス・キリストは、飼い葉桶の中に生まれた。なぜなら「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。

当時、ユダヤの人々は、住民登録をせよというローマ皇帝の命令によって、それぞれ自分の属する町へ帰って行きました。マリアも夫のヨセフと共に、ベツレヘムの町へ向かったのです。

ところが、ベツレヘムの町の宿屋は、何処も一杯で、マリアたちが泊まる場所は、ありませんでした。誰も、自分の場所を、主イエスに用意することが出来ませんでした。

そのため、マリアは、仕方なく家畜小屋で子どもを産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。マリアにとって、これは、初めての出産だったのです。それが家畜小屋から始まるのです。

今夕、私たちは、御子イエスの泊まる場所を、用意しているでしょうか。御子イエスのために、お迎えできる場所を用意している。と胸を張って言うことが出来るのでしょうか。

私達は、あまりにも世のことに心とられ、自分のことだけで精いっぱいで、神の恵みさえも見えなくなっている。2千年前のイブの夜も「マリアたちの泊まる場所がなかった」 どうか今宵、静かなイブの中で改めて自分自身を省みてください。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-12-11 08:24:12 (2687 ヒット)

聖書 ルカによる福音書1:38

「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで天使は去って行った。

宣教題  「お言葉どおり、成りますように」   

マリアがガリラヤのナザレにいる時に、天使ガブリエルから、神の子を自分が産むことになると告げられました。突然のことなのでマリアは驚き戸惑いました。人間の思いからすると、ありえないことです。

そのマリアの心を見抜いたように天使は、「神にできないことは何一つない」(37節)と告げました。天使のお言葉を聞いたマリアは「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。

マリアが、自分のことを指して言っている「はしため」とは、「女性奴隷、僕」という意味です。神を自分の主人として信じ、従う決意をした者が、神との関係の中で自分を指して「僕」と言うのです。主人が言われることには、全てを受け入れるということなのです。それは絶対的な信頼なしではありえないのです。

マリアは、自分がどのようにして、神の子を産むことになるのか。そして何故、自分なのか。具体的なことは、何も分からなかったのです。それでも「神にできないことは何一つない」という言葉によってマリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。

マリアは神に選ばれるような、特別な功績、飛びぬけた信仰心があったのでしょうか。彼女が自身を「はしため」と語るように、そこにはないのです。あの三度も主イエスを裏切るペテロも同じく選ばれたのです。

このことを見るとき、私のようなものでも、神の愛を持ち運ぶ器になれるかもしれない。欠けの多い私でも選ばれるのです。この世の身分は、この世では通用しても、神の前では一切通用しないことが分かります。

私達に出来ることは、信じて全てを神にゆだねることです。


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