本日の聖書 マタイによる福音書14章6〜11節
ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。
宣教題「神を恐れない者は、人を恐れる」 牧師 新保雅雄
洗礼者ヨハネは、神の言葉を語る人でした。ユダヤ人から神の預言者として認められていました。キリストの道を整える人と言われ、主イエスにも洗礼を授けました。そのヨハネが殺されたのです。
なぜヨハネは殺されたのか。それはユダヤの領主であるヘロデ王を批判したからです。「あの女と結婚することは律法でゆるされていない」14:4。「あの女」とは、ヘロデ王の兄弟であるフィリポの妻のことです。あのサロメの母です。
ヘロデ王には、妻がいましたが、自分の兄弟であるフィリポの妻ヘロディアを好きになり、妻と離婚し、兄弟を殺しヘロディアを自分の妻にしてしまうのです。これはユダヤ人の律法では、姦淫の罪にあたるもので、石打の死刑です。ヨハネは、相手がヘロデ王であろうとも、罪の悔い改めを迫ったのです。
ヘロデ王は、怒りヨハネを殺そうとして捕らえました。しかし彼を殺さないで、牢屋に入れたままにしておきました。それは、「民衆を恐れた」からです。民衆から預言者として、尊敬されていたので、ヨハネを殺したら暴動になり、自身の地位が揺らぎかねない。
神の言葉を語る預言者、洗礼者ヨハネを殺すことも恐れないヘロデ王が、「民衆を恐れた」のです。神を恐れない者が、人を恐れるのです。本当のことを言われると怒るものです。それが神を信じない人です。神を信じない人は、自分の罪を指摘されると、素直に反省しない、逆上し逆恨みをするのです。
本日の聖書 マルコによる福音書5章33〜34節
「女は自分の身に起こったことを知って、恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」
宣教題 「恐れることはない、ただ信じなさい」 北村 紀一
会堂長のヤイロは、必死になって、イエス様に「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(23節)と言いました。
この町の会堂長の家の一大事ですから、多くの人々の深い「関心」が向けられました。そんな時に「さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた」(25節)。彼女は12年間、汚れた女として、冷たい視線を浴びながら、人目を避けるように生きてきた人です。
だから人々の関心が、ヤイロの娘に向かっている今こそ、イエス様に近づく最大のチャンスでした。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの服に触れた、この方の服にでも触れればいやしていただける」(27、28節)と思っていたからです。
そのように彼女はこの12年間どんなに騙され、軽蔑され、苦しんでも、「神への望み」だけは決して失いませんでした。そして、イエス様の服にふれると、すぐ出血が止まって、完全に癒されてしまったのです。
すべてをご存知であるイエス様は、人目を避けてきたこの女性こそが、多くの人の「信仰の手本」となることを伝えるために、あえて、「わたしの服にふれたのはだれか」と強く迫りました。冒頭の聖句のように人目を避けてきたこの女性をど真ん中で向き合う人に変えられたのでした。
アブラハムが信仰の父となったのは、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」たからです。そして、イエスが話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」この言葉にヤイロは惑わされそうになります。しかし、イエス様は、「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われ、ヤイロも娘も「救われた」のです。
本日の聖書 マタイによる福音書13章54〜58節
「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」
宣教題 「こんな私を助けて下さい」 牧師 新保雅雄
「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」主イエスの奇跡と私達の信仰には関わりがある。私たちが主イエスを信じれるかどうかによって、違ってくるというのです。
「信じる」という私達側からの行為と、「奇跡」という主イエスの御業が関係あると言われる。私たちの信仰によって、主イエスの御業が行われ、癒しが救いがある。これはたいへん重大なことです。
私たちは、神を信じていると思っているが、ささいなことで腹が立ち、友人を憎んでしまう、収入が少なければ不安になりイライラする。そもそも私たちの信仰は、あやふやで足りないのです。どんなにがんばってみても、「信じ切る」ということは、自分の力ではできないのです。では、救いのない絶望しかないのでしょうか?
私たちは、何も満足にできない。信仰すら無い。しかしただ一つ、神様に対してできることがあります。「信仰のない私を助けて下さい」と言って、そのままの自分を主イエスに投げ出しすがりつくことです。病気の息子の救いを必死に主イエスに願う父親のように(マルコ9:14〜)そんな私たちでも受け入れてくださるのです。
何故なら主イエスはご自身の命をかけて、あなたを救いだし、愛してくださったからです。「信仰」とは、主イエスに弱い自分を正直に告白し願うことなのです。しかしナザレの人々は、先入観が邪魔をして、主イエスに願うことができなかったのです。
本日の聖書 マタイによる福音書13章51〜52節
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
宣教題 「天国の学者」 牧師 新保雅雄
「天の国のことを学んだ学者」とは、「天国の弟子となった人」と言う意味です。では「天国の弟子となる」とはどういうことでしょうか? 「天国」とは、「神の支配する国」という意味です。つまり主イエスのいる所が天国です。主イエスの御言葉を学んで、主イエスの弟子となる人のことを主イエスは、「学者」と言っています。
私達は、「学者」というのは、学問を修めた人のことを言います。現代で言えば、大学を出て、さらに大学院へ行き、専門分野を探求し、研究、探求して、博士論文を書き、学会で認められて、大学の教授になっていく。そういう人のことを、私たちは「学者」と呼びます。
また当時であれば「律法学者」のことを学者と呼びました。聖書とユダヤ教、律法について、有名な先生に着いて深く学んだ人のことです。
しかし、この世の学問をどんなにおさめても、人々から「学者」と呼ばれても、主イエスの十字架を理解することができなかったら、自分の中に潜む深い罪の心を知らなければ、天国が何か分からないのです。
神様のことを深く学び聖書に精通していた、あの律法学者やパリサイ人が神から遠かったのです。彼らは古い倉しか持っていないのです・
逆に神から遠いと思われていた、徴税人や漁師の方が神に近かったのです。なぜなら主イエスを子供のように、素直に信じて受け入れたからです。新しいものも古いものも受け入れたのです。
主イエスは、律法学者たちを退けました。しかし、主イエスから天国のたとえ話を聞いて、それを受け入れた弟子たちを、主イエスは「天国の学者」と呼ぶのです。
本日の聖書 マタイによる福音書13章47節
天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」
宣教題 「神は、全ての魚を集める」 牧師 新保雅雄
きょうのたとえ話は、「天の国は次のようにたとえられる」ということで始まり、海に網が打たれるたとえになっています。
47節「いろいろな魚を集める」、ここは原文では「いろいろな魚」ではなくて、「すべての種類の魚」となっているのです。そこに天の国、神様の世界、神様の救いの世界のすばらしさが、あらわれているのです。
海に網が投げられる。その網の中に入っていた魚とは、神の網によってとらえられ、教会へと導かれた人々のことを指しています。そして、その網の中には、すべての種類の魚が入っていたのです。
教会にもいろいろな人が導かれます。世間の人から見れば、「教会とは、聖人君主のような、真面目で善人な、心の清らかな人の集まりだ。」と思っている人がいます。そう思う人が教会に来て、がっかりする場合が時々あります。「なんだ教会も世間と同じですね。」というのです。
主イエスが言われるように、この網は、「あらゆる種類の魚」が捕らえられているのです。伝道とは神の行う業です。ですから、神様がいろいろな人々をとらえてくるのです。神様は、「この人は教会にとって大切だから捕まえて網の中に入れよう。」「この人は教会にふさわしくないから、網の中に入れない。」などと人を選んでいません。差別しないのです。すべての人に網をかけ、導こうとされているのです。
ですから教会にも、この世と同じように、あらゆる種類の人がいるのです。全ての人が導かれてくるのです。だから、教会は清廉潔白、聖人君主の集まりではありません。そういう意味では、世間と同じです。だから「こんな私でも救われる」のです。
今日あなたは神の網によって導かれました。是非、主イエスの恵みのすばらしさを信仰によって体験してください。