本日の聖書 使徒言行録2章44〜47節
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
宣教題 『困難が群れを一つにする』 牧師 新保雅雄
主イエスが、私たちの罪のために十字架で死なれた。しかし三日目に蘇られました。この神の子イエスが、私達の身代わりになられたことで、多く人ガキリスト者として誕生しました。しかし、まだまだキリスト者には、大きな迫害がありました。
ペテロ達使徒は、ユダヤ人に何度も捕らえられては、牢に入れられ鞭打たれました。しかし、困難に合えば合うほど彼らの信仰は、固くなっていきます。
使徒たちは、この困難によって主イエスに選ばれて主イエスの歩んだ道を歩んでいく。主イエスが共におられる、という確信が強くなっていくのです。選ばれ集められた群れが、キリストの体なる教会になっていく時なのです。
困難は、キリストの選んだ群れをより一つにまとめていきます。
「財産や持ち物を分け合う」それぞれに与えられた財や才能、知恵、力が、自分一人の為ではなく群れのために使われていく。
「毎日ひたすら心を一つにして祈る」主なる神は一人である。真理は一つである。そして祈りも一つになり群れも一つになる。
「一緒に食事をし神を讃美していた」教会の中だけではなく、人生の営みすべてを共有していく。共に泣き共に喜ぶ。
そして「信者たちは皆一つになって」いくのである。兄弟姉妹たち、艱難辛苦にあるときこそ、一つになれるように祈りましょう。
本日の聖書 ヨハネによる福音書7章37〜39節
「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」
宣教題 「渇いている者私のもとに来なさい」 牧師 新保雅雄
ヨハネによる福音書は、聖霊について、それを象徴的に「水」にたとえています。水というものは、動物にとって必要不可欠なものです。水はすべての細胞の中にあり、生命の機能を維持するために必要なものです。
どんな動物であろうと水が断たれたとき、渇きを覚え、水分の補給を必要とします。このような肉体の渇きは、私たちも経験したことのあるものです。また同時に、この渇きは、人間の心、人格、魂、そして霊においても、しばしば起こると主イエスは語られています
では私たちの心や霊の渇きは、何を注ぐことで癒されるのか。それはイエス・キリストにしか満たすことのできないものです。しかし、これを満たそうと人間は、様々なものに、その解決を求めます。
このような心や霊の渇きを癒すために、私たちは偶像を拝み、また人の知恵を求め、肉体の限界に修行を行う。そして失敗し、前以上に深い渇きに陥ります。それは悲しいことでありますが、人は、その渇きを癒すために、いろいろな物を求めることで、渇きを癒そうと必死なのです。しかし渇きは癒されない。
主イエスは、言われる。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」どうか信じて求めてください。豊かな水をたたえた、潤いのある、魅力的な祝福の人生がおくれます。
そして主イエスによる人生は、自分だけではなく周囲をも祝福する。
本日の聖書 使徒言行録2章37、38節
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
宣教題 「神の賜物、悔い改め」 牧師 新保雅雄
聖霊に満たされてペトロは語ります。主イエスこそ、約束されたダビデの子であり、死の苦しみから解放されて復活された、メシア、キリストである。沢山の人々に力強く証しました。
するとそれを聞いていた人々は、「大いに心を打たれ、兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけます。(37節)。それに対してペトロは、悔い改めを迫ります。
ペトロの宣教は、集まった一人一人が犯した「自分の罪」として、自分自身の悔い改めを迫るものとなりました。この悔い改めから、最初のリヴァイヴァル(信仰復興)が生まれていくのです。
百二十人ほどの小さな群れが(1章15節)、悔い改めによって三千人もの信仰者が加えられ、大きな群れとして、エルサレム教会、すなわち初代のキリスト教会の姿ガ出来上がっていきます。
このようにキリスト教会は、聖霊の働きによる悔い改めから起こされていくのです。逆に言えば、真実な悔い改めのないところでは、どれほど多くの人が集っていても、奉仕がなされていたとしても、それは神の教会からは、程遠いものになってしまいます。
「悔い改め」は、神から来るのであり、神が私達の内に起こしてくださるものなのです。ですから私達は、この神の働きが興されていくように、祈り求めなければならないのです。「悔い改め」は、自分の努力と意志だけで成り立つものではなく神からの賜物なのです。
本日の聖書 使徒言行録1章13〜15節
彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
宣教題 「二階の祈りの部屋」 牧師 新保雅雄
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4、5節)という、主イエスの約束を思い出した弟子達は、彼らがとどまっていた二階の部屋で、熱心に約束の聖霊を待ち望み、心を「一つ」にした「祈る群れ」となりました。
そのとき彼らは、わずか百二十人ほどの小さな群れにすぎず、依然として主イエスに対して無理解でした。しかも裏切り者の集団であり、不信仰と無理解の群れです。ユダヤ人からの迫害を恐れて、家の中にひっそりと隠れていた、小心で無力な人々でした。
主イエスの十字架の後の最初の教会は、弱い群れにすぎませんでした。しかし彼らは「一つ」となって「祈る群れ」でした。そして祈る彼らのただ中にキリストは臨在し、祈りに応えて下さる。
「もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。二人、三人、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18章19、20節)
私達の教会に、そして私達一人一人にも、この「二階の祈りの部屋」が必要なのです。自分の働きを始める前に、まず祈ることです。祈って、神が自分の中で働きを支えてくださることを求めるのです。
それがどんなに小さく無力な、欠けた者たちの集まりであっても、それは力強いキリストの教会となっていくのです。
本日の聖書 ヨハネによる福音書15章5節
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
宣教題 「一人で生きているのではない」 牧師 新保雅雄
枝が木につながっているから、その枝は葉を茂らせ芽を出し、生きている証しとしての実をつけるのです。さらにその実は、さらなる命を宿して、次の命につなげていくのです。本来枝には、大変大きな力と使命があるのです。
しかし枝が木から離れてしまった。木につながっていない枝になってしまうと、芽を出し葉をつけるという、大きな力を持っていても、何もできず枯れてしまい、いずれ土に帰ってしまうのです。
芽を出す事も、花や実りを付けることも出来ません。その枝は結局、それ自身だけでは生きていけないのです。木には命があるのです。
枝と同様に、本来私たちも神につながっていて、大きな能力と使命が与えられています。それを発揮できるのは、命の源である神と信仰で結ばれることで初めて可能になるのです。
木につながっていない、自分の力だけに頼るとき、必ず死という最後を迎え終わっていくのです。神につながっていない人間は、結局肉の思いによって堕落し滅びに向かう、枯れた枝になるのです。
「宗教や神に頼るのは弱い者のすること」よく聞く言葉です。確かにそのとおりだと思います。神を信じる(つながる)ことは、枝としての自らの弱さと限界を、勇気をもって謙虚に認めることです。
強がりを言って弱さを隠すことは、決して強さではありません。その弱さを正直に認めることが、本当の強さなのです。人は自分だけで生きているのではありません。沢山の人々に支えられています。