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投稿者 : church 投稿日時: 2014-07-13 06:46:59 (1182 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書23章16〜17節

ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。

宣教題 「宗教はどこへ行くのか」   牧師 新保雅雄

律法学者やファリサイ派の人々は、ユダヤ人の宗教指導者であり教育する先生であった。人々を神の御国へ導く立場にあった人たちです。しかし主イエスは、その人々を、「あなたたち偽善者は不幸だ」という言葉を何回も繰り返しながら、厳しく批判しておられます。


この「不幸だ」という言葉は、「わざわいなるかな」と訳せる言葉です。その「わざわいなるかな」というのは「幸いなるかな」という祝福の言葉、主イエスが宣教活動を始められたときの「山上の説教」の、ちょうど反対側になる言葉なのです。


宗教というのは何でしょうか?‥宗教とは、神の世界とこちらの世界をつなぐものだと言われます。見ることのできない神さまのところに人を導くのが宗教です。ですから、宗教指導者というのは、神の世界への案内人になるのです。


宗教とは、英語でreligion(リリージョン)。「結びなおす」という意味です。離れていた神と人を結びなおして神の御国へ導くということです。


日本は、宗教に対する不信感があります。宗教は恐ろしいと思われています。その原因は、宗教が人々を神のところへ案内するのではなくて、この世のもののところへ導いてしまうからなのです。


宗教が神さまのところへ導くのが目的なのではなく、教祖という人間をあがめたり、高額なお金を集めたりすること、またこの世での出世、金儲けが目的であるということが、見えてしまうからではないでしょうか。先日の韓国での船の事故の会社では、公然と宗教をすることが世の成功者になる手段になっている。主は言われる「あなたたち偽善者は不幸だ」

 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-07-06 06:07:23 (1180 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書23章2〜4節

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。

宣教題 「欠けた自分を知りなさい」   牧師 新保雅雄


律法を守ることに熱心であったのがユダヤ教のファリサイ派。しかし主イエスから見ると、「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しない」からだという。なぜなのか。


ファリサイ派の律法の専門家は主イエスに質問しました22:36。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」。主イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


律法とは何ですか? 「神さまを愛すること、そして隣人を愛すること」そうすると、律法を守るのは、神さまを愛するから、そして隣人を愛するために、守るということになります。愛するから、神さまの掟を守るのです。しかしファリサイ派の人々は、愛が忘れ去られ守ることだけになってしまった。そして弱者を裁いていく。


彼らは、5節「そのすることは、すべて人に見せるためである」自分が立派で偉い人であるかということを、人に見せるために、律法を守り、敬虔な信仰者を装う。そして「先生」「善人」といわれることを好む。上座に座ることを好む。自分が高められることを好む。


律法を守っているから信仰者である。何々ができるから立派な善い人である。そこに神様の愛、隣人への愛はありません。私達は、守れない欠けたものである。弱い隣人を愛すること、そこに神はおられるのです。水は高いところから低いところに流れるのです。神さまのめぐみも同じです。神を見たいと思うなら低くなることです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-29 00:35:07 (1100 ヒット)

本日の聖書  創世記4章 1〜18節(中心13〜15節)

「カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』:主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」


宣教題 「さすらう者」                                北村 紀一


兄のカインは「土を耕す者」になり、弟のアベルは「羊を飼う者」になりました。二人は神さまに「献げ物」をささげて礼拝しました。カインは畑で取れた最初の作物を、アベルは最初に生まれた子羊の中でいちばん太った物を献げて礼拝しました。けれども、神さまはアベルの献げ物は喜んで受け取ってくださったのですけども、カインの献げ物は受け取ってくれませんでした。


もし皆さんがカインの立場だったら、どう思うでしょうか?


私たちは、“自分を認めてほしい”という気持を持っています。カインはこの時、「激しく怒って顔を伏せた」(5節)。顔を伏せたということは、神さまの方を見ない。神さまの顔なんて見たくないということです。それくいらい激しく怒っているのです。


どうして神さまは、アベルの献げ物を受け取り、カインの献げ物は喜んで受け取ってくれなかったのでしょうか?


神さまはカインに、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないのなら罪は戸口で待ち伏せており」(7節)と語りかけました。それはカインに自分の心に気づいて、悔い改めてほしかったからでしょう。神さまは罰したいのではなく、よくないことであると気付いたならば、カインにも、そして私たちにも悔い改めてほしいと、いつも願っておられるのです。


しかしカインはアベルの方が自分よりも神さまに大事にされている。そういう「ねたみ」の心でいっぱいになって、弟アベルを野原で殺してしまったのです。このように「ねたみ」の気持ちは「恐ろしい力」になります。しかも、私は「知りません」(9節)と罪を隠そうとしました。


このように私たちは罪を犯した時、神様に顔を向けることができなくなります。しかし、ここで学ぶことは、そういった時こそ神さまに向かって、悔い改めることが大事だと言うことです。怖くても向き合う。それは、間違いは間違いだと認める勇気を得ることになりますし、ゆがんだ心も正されていくようになります。心のゆがみが正されると人の喜びを一緒に喜べる心を取り戻すことができるようになるのです。


そういうわけで、常に神様に向き合っていく。神さまに心を向けていく。それが本当に大事なことになります。私たちは信仰によって真実に向き合う生き方を目指し続けるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-22 07:25:16 (1157 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章43、45節

「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」


宣教題 「物質からの解放、救い」   牧師 新保雅雄


主イエスの問いかけに、ファリサイ派の人々は、メシア(キリスト)とは「ダビデの子」であると答えました。ダビデの子孫からメシアである王が誕生するというのです。


たしかに、ダビデの子孫から神の救いが実現されるというのは、旧約聖書の約束です。しかし彼らは、「救い」とは、この地上での生活の救いであると考えていました。


つまり、今はローマ帝国の支配を受けているが、やがてメシアが現れて、独立のために戦争を起こして、ふたたびダビデの時代のような強大なイスラエル王国となり、栄華を極めていくのであるということが、救いであると考えていたのです。


政治が変われば、総理大臣が変われば、王様が変われば、社会が変われば、幸福になれる。本当に、それによって人は幸福になれるのでしょうか。社会の変化、そのことによって、「救い」ということが起きるのでしょうか。


世界には今日の食事さえできない人がたくさんいます。しかし日本は、不景気であるとはいえ、欲しいものは24時間、手に入ります。飢えや渇きで死んでいく人はいません。ものが豊かになり、医療も進歩して世界一の長寿国になりました。物質的に満たされる、だから「救われている」ということが言えるのでしょうか?


いくらものが豊かになっても、人間の不平や不満は無くなることがありません。むしろストレスを抱え精神を病む人、自殺する人が増加しています。主イエスは言われます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。」 あなたの救いとは何でしょうか?


 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-06-15 07:23:14 (1301 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章37〜39節

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』


宣教題  「神と隣人を愛しなさい」   牧師 新保雅雄

ある律法の専門家がイエスさまに尋ねました。「先生、律法の中で、どのおきてが最も重要でしょうか」。


主イエスは言われました。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


このように主イエスは、一つではなく二つのこと、「神である主を愛すること」と「隣人を愛すること」であると言われたのです。


なぜ二つのことなのでしょうか。それは、この二つのことが切っても切り離せないことだからです。「主を愛する」ことは「隣人を愛すること」であり、「隣人を愛する」ことは「主を愛すること」なのです。


ヨハネの第一の手紙4:20、21「神を愛している、と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」


隣人とは、愛する妻や夫、親兄弟、子供、そして親友だけではありません。私たちの隣には、意地悪な人、憎む人、許せない人、仲の悪い人もいるのです。

なぜなら、そこに神がおられるからです。つまり私たちができないこと、神の愛がなければ、隣人を愛することができないのです。


 


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