本日の聖書 ルカによる福音書24章11〜12節
「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」
宣教題 「復活の主に会いたい」 牧師 新保雅雄
安息日(土曜日)が終わり、週の初めの日(日曜日)になると、女性たちは、朝早く、主イエスの遺体を清めるために、香料を携え主イエスの墓に行きました。ところが、墓に着いてみると、墓の穴を覆っていた石が、わきに転がされていて、主イエスの遺体が墓の中に見当たらなかったのです。主イエスは、日曜日の朝早く復活されたのです。(この日を記念してキリスト教会の礼拝日が日曜日に)
女性達は、そのことを弟子達に伝えました。ところが弟子たちには、女性達の話が信じられませんでした。しかしペトロは、女性達の話を確かめる為、主イエスの墓に向かって一目散に走り出したのです
大祭司の屋敷で主イエスを三度も知らないと言ったペトロは、人一倍、主イエスのことが気になっていました。主イエスが復活されたのなら、もう一度、「そんな人は知らない」と裏切ってしまった自分を、やり直せるかも知れない。主イエスの復活に望みを抱きながら一生懸命に墓へと走って行ったのです。
主イエスは言われる「あなたの罪は赦された。悔い改めて、神に立ち帰りなさい。」今や、主イエスの十字架によって、私たちは罪を赦されました。そして私たちは「主よ、私は罪深い者です。」と告白してしまう。そこに十字架と復活に示された神の愛がある。
自分の罪と向き合う勇気がないと、主イエスの十字架によって、罪が赦されている、恵みと喜びを、心から味わうことは出来ません。
主イエスの十字架を見上げ、自分の罪を正直に認める時に、主イエスご自身が、私たちに近付いて来てくださり、復活して、今も生きておられることを知らせてくださいます。そして「あなたの罪は赦された」と声をかけてくださるのです。
本日の聖書 ルカによる福音書22章25〜26節
「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と言われている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中で一番偉い人は、一番若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」
宣教題 「十字架と仕える人」 牧師 新保雅雄
ルカ福音書は、いよいよ受難前日へと入っていきます。
主イエスが、ユダヤ人、祭司長たちによって逮捕される前の夜、使徒たちと最後の食事(晩餐)をされた時のことです。
主イエスは、パンを取り、祈り、そしてパンをさいて使徒たちに分け与えて、「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。」と言われました。
また、ぶどう酒の杯も、同じ様にして、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と言われました。これは今日の聖餐式の元になるものとされています。
主イエスは、その食事の席で、ご自分が十字架で死ぬことは、あなたがたの救いのためだ、と言われました。しかし、使徒たちは、そんな主イエスの思いなどは、そっちのけで自分たちの、席順のことばかり考えて議論していました。
「裏切り者は誰なのか」「誰が一番偉いのだろうか」と話し始めたのです。主イエスが、これから死のうとされていることなど、まるで、使徒達の頭の中にはなくなってしまったようです。
そんな使徒たちに主イエスは、異邦人の話を出して言われました。「あなたがたの中で一番偉い人は、一番若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」
一番若いもの、仕えるものとは、どんな意味なのでしょうか。
自分のことだけではなく、他人のことも考えられる人。そして自分だけではなく、他人の世話を一生懸命にする、心優しい人。
これは、これから起こるイエス・キリストの十字架の死を意味するものです。主イエスは、ご自身のための十字架ではなく、私たちのための十字架。このことを覚えて主の聖餐を味わいたいものです
本日の聖書 ルカによる福音書19章1−10節
「1:イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2:そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3:イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4:それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5:イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6:ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7:これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8:しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9:イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 10:人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
宣教題 「今日、あなたの家に泊まりたい」 北村紀一
当時ローマ帝国がユダヤ人から税を取り立てるのに、その徴税の仕事をユダヤ人自身にやらせるようにしました。もちろん、そんなことをすれば同胞のユダヤ人仲間から恨みを買います。そこでローマ帝国は、一定の金額を納めたら、残りは自分のものにしていいよ。と税金を取り立てれば取り立てるほど、自分の収入、財産が増えるというシステムで、徴税する人を釣ったのです。
ザアカイも、そんな徴税人の一人でした。しかも、その徴税人の頭です。当然エリコのだれもが、ザアカイのことを良くは思っていません。しかし、ザアカイもユダヤ人です。やはり、どこかで気にしていました。こんな生き方をしている自分は本当にいいのだろうか。と自問自答してみても答えが見つからなかったのかもしれません。そんなときにイエスさまのことを耳にして、うわさはいろいろと聞いていたので、どんな人かを見たいと思っていたのです。
それで、「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られてみることができなかった」(3節)とありますが、背が低かったからというよりも、みんながザアカイのことをシャットアウトして前に出してはくれなかったのです。
そこでザアカイは、「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」(4節)わけです。そこまでしてでもイエス様を一目見たかったのです。ものすごく強く救いを求めています。
木の上からイエス様が通るのを見ていたザアカイに、イエス様本人から直接声をかけられました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)突然、こう呼びかけられて、ザアカイはどんな気持ちで木から降りて来たのでしょうか。
今まで、こんなふうに声をかけられたことは一度もありませんでした。一人の人間として差別もなく認めて扱ってくれた。愛してくれた。それが、ザアカイにとって、どれほど嬉しかったことでしょう。
ザアカイはイエス様と出会い、大事なことに気付かされます。イエス様と共に食事をしている席で、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかからだまし取っていたら、それを4倍にして返します」(8節)と宣言しました。
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(9、10節)
本日の聖書 ルカによる福音書22章3〜4節
「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談を持ちかけた。」
宣教題 「サタンが入り込む」 牧師 新保雅雄
ルカによる福音書は、いよいよ受難に入っていきます。神の御心に従順に従われる主イエスと、自分中心に生きようとする人間との様子が、受難によって対照的に描かれています。本日の聖書箇所は、今まで信頼によって結びついていた弟子が、悪魔によって一瞬のうちに神に敵対する者になっていく、恐ろしさが描かれています。
除酵祭が近付いている時でした。12使徒の一人で、イスカリオテのユダに悪魔が入りました。ユダは、祭司長や神殿守衛長たちに「イエスを引き渡しましょうか」と自ら相談を持ち掛けていきます。
ユダは、主イエスが選ばれた12人の使徒として、教えを間近で聞き、病気で苦しむ人を癒す奇跡を、何度も見てきました。しかし、そのユダが、師であり救い主である主イエスを裏切るのです。
ユダのことを裏切り者の悪人だと思われるかも知れません。しかしユダは、サタンが入ったことで、主イエスを裏切るのです。それまでのユダは、他の弟子たちと同じく主イエスに従い、行動を共にしていたのです。そして金庫番として信頼もされていました。
ユダに起こったことを、決して他人事として考えてはいけません。私たちも神よりも財を選んでしまう。愛よりもねたみやごまかし、恨みを選んでしまう。金貨30枚で主イエスを売り渡した裏切り者ユダに起こったことは、今日の私たちにも起こりえるのです。いつも悪魔がおいしそうに見える餌をぶら下げて、私達を狙っています
キリスト者としての人生を送りたい。しかしユダがそうであった様に、一瞬にして悪魔が入り込み、神とは反対の方へ引きずられることが起こる。だからこそ私たちは、聖書に親しみ、祈りをもって神と交わり、聖霊の助けを受ける必要があります。悪魔はすぐ身近に潜んで神から引き離すチャンスをうかがっています。
本日の聖書 ルカによる福音書21章12〜13節
「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる」
宣教題 「何に心を向けるか」 牧師 新保雅雄
主イエスは、キリスト者への迫害が迫っていること、そして迫害に対する心構えを語られました。
現在の私たちには、迫害と言っても、なかなか分かりづらいことですが。今から65年程前の戦争中の日本であれば、キリスト教信仰者への迫害や弾圧があり、牧会者の中には、逮捕されて獄中で死を迎えた方も沢山いました。しかし、現在の日本では、主イエスを信じることで当局へ逮捕されるといった迫害はありません。
しかし2千年前に十字架で殺された外国の人を神の子、救い主だと信じることは、周りから見れば不思議な目で見られることがあります。「神を信じるなんて弱い者のすること」「信じて何かよいことがあったのか」「おまえの言う愛って何だ」「神の子が死刑になるのか」と興味本位の質問をされることが、多々あるかも知れません。また、聖書の事を話すとからかわれることもあります。
友人は言います。「こいつこの間まで不良だったのに今牧師なんだって、ホントかね?」と皆の前で挑発されることがあります。馬鹿にされたり茶かされるという迫害は、今でも経験することです。
こうした迫害を受けることは、出来れば避けたいものです。ところが主イエスは、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(21:13)と言われます。この時こそ伝道の機会だと言うのです。
何を語ろうか心配しなくてもいいのです。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける。」ただ主イエスを信じて、そのとおりに実践する事です。主は、恵みを運ぶものを、決して捨ててはおかれはしません。
