メインメニュー
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

住所変更のお知らせ
新住所
板橋区仲町23−17
東武東上線 
中板橋駅徒歩12分
連絡先
090-8801-0111
(新保牧師携帯)
アクセスカウンタ
今日 : 544544544
昨日 : 505505505
総計 : 1226072122607212260721226072122607212260721226072
投稿者 : church 投稿日時: 2015-02-21 22:42:09 (1077 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書20章22〜25節

「『ところでわたし達が皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。』イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」

宣教題  「信仰と社会」   牧師 新保雅雄

本来、自分の悪い所を指摘してくれる人は、有り難い存在なのですが、悲しいことに、その大事な人を律法学者や祭司長たちは、素直に受け入れることはできませんでした。

そこで主イエスを何とか陥れ、ローマ皇帝に訴えようと考えたのです。そして彼らは、悪意に満ちた質問を投げ掛けたのでした。

「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 

当時のローマ皇帝は、半ば神格化されていましたので、ローマに税金を納めることは、ローマの神を崇めることなのです。ユダヤ人は快く思っていませんでした。

もし主イエス様が、ローマ皇帝に税金を納めることは律法に適っていないと公けに答えれば、ローマへの反逆罪になるのです。

しかし主イエスは、デナリオン銀貨を取り上げ「そこには、誰の肖像と銘があるか」と尋ね返しました。彼らが、「皇帝のものです」と答えると、主イエスは、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられました。

信仰は、現実から逃避して自分勝手に生きるためのものではありません。むしろ、与えられた信仰による自由を、人に仕えるために用いる時にこそ、地の塩、世の光としての信仰の実りがあるのです。  

信仰は、現実社会から逃避するためのものではなく、愛をもって支えあう豊かな社会にする力になるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-02-15 01:15:39 (1068 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書12章13〜21節

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

宣教題  「分けてもらえなかったきみに」   北村紀一

数えきれないほどの群衆の前でイエス様が「偽善」「恐るべき者」「仲間である」ことについてお話しされています。どのお話しも、「いつも、神様に心を向けることが大事ですよ」と言う内容です。

その時、群衆の中から一人の人が遺産相続のことでイエス様に仲裁をお願いしました。何かあると、すぐに一つのことだけしか見えなくなる弱さを私たちはもっていますから、イエス様は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と、私たち一人ひとりに気付きを促すようにおっしゃいました。

私たちは、この世の中で生きているので、やはりいろいろと悩みます。人間関係もそうだし、経済的なこともそうだし、病気のことや、仕事のことや、遺産相続のこと、いろいろと困ることも起こってきます。だからどんなことでも、自分で思いわずらうのではなく、なんでも神様に祈り願ってよいのです。

イエス様は続けて「ある金持ち」のたとえ話をなさいました。私たちは与えられている恵みが当たり前になりすぎて、いつのまにか「わたしのもの」、「わたしの財産」、「わたしの命」と、すべて「わたしのもの」と思って生きているのではないですか。と、問いかけられます。そして、そんな私たちが気付くのは、失ってはじめてわかるように、命は神様のものであること、すべては神様から与えられたものであったことが分かると言うのです。

だから、私たちは自分の貪欲に注意し用心することが必要です。サタンはここを突いてくるからです。用心しないとすぐに神様から目が離れて、自分の中の貪欲に心が支配されて、神様が見えなくされてしまいます。

私たちの救いはイエス様だけです。いつも十字架の主に心を向ければ「この命」、「この人生」が、独り子すらも与えて下さる神様の愛によって支えられていて、その支えは死が訪れても失われることがない(永遠)と言われていることが確信となっていきます。神様の愛を信じて、主と共に生きることこそが、「神様の前に豊かになる」ことで、本当の「遺産」を相続することなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-02-08 08:04:35 (1279 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書2章41〜49節

「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れに中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者達の真ん中に座り、話を聞いたり質問をしたりしておられるのを見つけた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』するとイエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」

宣教題  「神のもとへ」   宣教 新保 雅雄牧師

主イエスが12歳になった時のことです。両親であるヨセフとマリアは、主イエスと共に、過越祭にエルサレム神殿詣でをしました。今で言えば初詣のようなものかもしれません。

過越祭には、イスラエルや外国にいるユダヤ人までもがエルサレムにやって来ます。エルサレムは、人でごった返していました。そして過越祭が終わり、ヨセフ家族は故郷ナザレへ帰って行きました。

両親は、途中で息子イエスがいないことに気づき必死で探しました。しかしどこにも見つかりません。そして来た道を戻りエルサレム神殿の中で主イエスを見つけたのです。主イエスは一人エルサレム神殿に残っていました。

これは主イエスが神と人とを結びなおすことを意味しています。神を求めるとは、主イエスを求めていくことであり、主イエスは神と人との関係を、元に結びなおすために来られたのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-02-01 06:42:00 (1231 ヒット)

本日の聖書  エフェソの信徒への手紙 1:13

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」

宣教題  「神の子の刻印」   宣教 新保 雅雄牧師

クリスチャンとは、どんな人なのでしょうか? クリスチャンらしいクリスチャン、そうではないでしょう。クリスチャンらしくない人の方が、かえってクリスチャンと言えるかもしれません。あの人から尊敬された律法学者、パリサイ人が神から遠く、漁師、取税人、娼婦の方が神に近かった。あなたはクリスチャンですか?

神は、御子イエスを、この世に救い主として送りました。しかし人々は、御子イエスを十字架に付けて殺してしまいました。ユダヤの宗教指導者の煽動に乗っかって主イエスを十字架に付けることを要求したのです。

そのため当時のユダヤの総督ポンテオ・ピラトは、暴動が起こるのを恐れ、主イエスが十字架で処刑されることを認めてしまったのです。ここに、神の秘密の計画があるのです。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」「秘められた計画」

神は、私たちを神の子にしようと計画しておられたのですが、私たちは、神の子に相応しく無かったのです。しかし、神は、私たちを裁いて、滅ぼしてしまうのでなく、私たちの罪を、御子イエスに全て負わせ、罪の償いのために、主イエスを十字架に付けられるのです。こうして、私たちは、主イエスの命によって神の子となる道が開かれました。

しかし、私たちは、自分で罪の償いをして、晴れて自由の身になった訳ではありません。自分では、何も罪の償いをしないままに、一方的に、神によって、罪を赦されたのです。ここに、神の愛があります。

それは、御子イエスを十字架で犠牲にしてまでも、私たちを救い、神の子としてくださる愛です。どんな人間でも、どんな性格でも、どんな癖があっても、ただ、信仰を告白し、洗礼を受けるならば、誰にでも、神は愛の刻印を押して「私の子だ」と保証し守ってくださるのです。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2015-01-25 00:07:08 (1350 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書6章17〜26節(中心20〜23)

「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。』」

宣教題  「弟子たちの目を見つめながら」  北村 紀一 

イエス様は山の上で父なる神様に祈って、弟子たちの中から12人の使徒をお選びになりました。使徒とは、イエス様に遣(つか)わされて、神の国の教えを宣(の)べ伝える人たちです。

しかし、ここでイエス様が選ばれた12弟子は、特別何かすぐれていたわけではなく、むしろ無学で社会的にも地位の低い人たちであったということです。そのように弱くて小さいものを通して、「神の国はあなたがたのものである」ことを伝えようとされたのです。

それでイエス様が、弟子たちの目を見つめながらお語りになった最初の教えは『幸いと不幸』のお話しです。まず、本当の「幸い」とは何か、「不幸」とはどんなことかをお教えになったのです。

それは、これからの歩みの中でイエス様を伝えること、神の国のことを伝えることは、誰でも喜ばしいこととして受け取らないことを知っていたからです。それで、どこに土台を据えることが幸せなのかを教えてくださったのです。

なぜなら、この世の幸福観は、富んで、満腹できて、笑っていられる人生は幸せで、貧しく、飢え、泣いている人生は不幸だと考えます。しかし、イエス様の語られる神の国の幸福感は違っています。

この時の弟子たちは、理解できなかったのですが、後にイエス様が十字架に架かられ、弟子たちに聖霊が降ると、イエスさまを伝える時にどのような迫害があっても幸せにで満たされています。(使徒現行録5:41)

また、神の国に自分の土台に置いたパウロも、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4:12)

「神の国」にこそ土台を据えるならば、どんな時もあなたは幸せだと言うのです。しかし、そうでないならば、不確かな幸せを求めて不幸になるのです。

私たちの人生に与えられるどんな条件も祝福の基と変えてくださる御方がイエス様です。このイエス様にこそ信頼を置くものは「幸せな人」だと言えます。


« 1 ... 92 93 94 (95) 96 97 98 ... 129 »