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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2013-01-26 20:41:26 (1546 ヒット)

本日の聖書 ルカによる福音書16:9

「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達をつくりなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」


宣教題 「本当の賢さを求めて」  北村 紀一              

ある金持ちのもとで、一人の管理人が働いていました。ところが、この管理人は任せられていたことをいいことにして、日頃から主人の財産を着服して、勝手に使い込んでいたというのです。

この管理人の横領は内部告発によって、主人にバレてしまいました。主人はすぐに管理人を呼びつけ「お前について聞いていることがあるがどうなのか。会計報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と窮地に立たされました。

そこで、困った管理人は考えました。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。そう思い、彼はすぐに主人に借金がある人たちを次々に呼び寄せました。そして、借金を減らす変わりに、自分が困った時には助けてくれるようにと、恩を売ったわけです。

不正な管理人によって大損した主人ですが、驚いたことに、彼の抜け目のないやり方をほめたのでした。

神さまは私たちのすべてをご存知です。私たちの弱さも欠けも、利己心や虚栄心があることもご存知です。その上で「不正にまみれた富で友だちを作りなさい」と言われるのです。

なんだかな〜という感じですが、私たちのする良い行いも、愛の業も、どこか不正や偽善が混じっているものです。

しかし、イエス様は、動機が純粋でないから駄目とか、やり方に偽善があるから駄目とは言われませんでした。

「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とは、利己心や虚栄心や偽善というものが混じっていたとしても、それでもいいから、少しでも人から喜ばれるような事、感謝されるような事をして、自分を愛してくれる友達を作りなさいということです。与えられているものを、もっとも弱く、小さくされている友のために惜しみなく使えるように、主に本当の賢さを求めていきましょう。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-01-20 06:24:29 (1699 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章43節
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。」

宣教題『雑草を抜いて愛の花を咲かせる』  牧師 新保雅雄                
私たちが家の掃除をするのは、お客さんを迎えるためであって、泥棒や空き巣を迎えるために、掃除をするのではありません。しかし、この家にやってきたのは、お客さんではなく悪霊だった。
ここで言う「掃除をする」とは、一生懸命に律法を守ろうとすること、悪霊というゴミを外へ捨てることです。それは、自分の心を整えて、キリストを迎え入れるためなのです。つまり彼らは、キリストをお迎えするために、一生懸命、掃除をしていたのです。
ところが、いざキリストが来られたとき、「おまえはキリストではない。おまえは救い主ではない。」と言って、家の中に入れようとはしなかった。空家のままになっていたのです。
そこへ以前、掃除して追い出した悪霊が戻ってきた。すると空き家になっていた。しかも掃除がしてあった。こんな都合の良いことはない。それで悪霊は仲間を呼んできて、掃除をした前よりも、多くの悪霊が住み着き、悪い状態となったのです。
「神様に対して罪を犯さないようにしよう」と一生懸命になり、罪という雑草を抜き続ける。しかし抜いても抜いても、罪の雑草は生えてくる。それでますます意地になって罪の雑草を抜く。
いったい何のために、罪の雑草を一生懸命になって抜くのか?
雑草を抜くのは、そこに色とりどりの花を咲かせるためなのです。教会に行くようになり、自身の心の中の罪を見つけ、悔い改めたのなら、そのあとに主イエスの愛の種を蒔いてください。掃除されたあなたの心に主イエスを迎えてください。


投稿者 : church 投稿日時: 2013-01-13 06:29:44 (1579 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12:39

「よこしまで神に背いた時代の者達はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」


宣教題 「しるし以上のもの」  牧師 新保雅雄                

律法学者とファリサイ派の人々が、主イエスに向かって、こう言いました。「先生、しるしを見せてください。」つまり、律法学者やファリサイ派の人々は、自分がメシアであることを、納得させることが出来たならば、信じてあげようと持ち掛けているのです

 しかし、律法学者やファリサイ派の人々の言葉を、そのまま額面どおり受け取ることは出来ません。彼らは、たとえ、どんな「しるし」を主イエスが示したとしても、なんだかんだとケチを付けては、主イエスを信じようとはしないのです。

彼らは最初から主イエスを信じ、受け入れる気など、はなはだ無いのです。そんな 彼らの思いを知った主イエスは、彼らのしるしを見せてほしい。に対して言われました「預言者ヨナのしるしのほかには,しるしは与えられない」

ヨナは、神から預言するように指示されたにも拘わらず、これを拒み船で逃亡した。途中、船が嵐に遭い難破しそうになる。その原因がヨナにあるとして、海に放り出されてしまう。そして海の中で巨大な魚に呑み込まれ三日三晩、その魚の腹の中にいた。

その後ヨナは、神の命令によって大魚の腹から吐き出され、ニネベという町で神の言葉を語る。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」こんなことを語ったならば襲われるかもしれない。しかしヨナの説教を素直に聞き入れ、神の裁きを逃れたのです。

「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」これは、ヨナの身に起きたことを例に出して、これから起ころうとしている、ことを語っておられるのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-01-06 06:51:28 (1609 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12:28

「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、

神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

宣教題 「神の国は既に来ている」   牧師 新保雅雄                

主イエスのところへ、悪霊に取りつかれ、目が見えず、口の利けない人が連れられて来ました。いつものように主イエスによって癒されて、この人は、ものが言え、目が見えるようになりました。

それを見ていた群衆は大変驚き、『この人はダビデの子ではないだろうか』と叫んだのです。「ダビデの子」というのは、ユダヤ人が待ち望んでいるメシア、キリスト、救い主のことを意味します。

ところがファリサイ派の人々は、主イエスの行った奇跡の癒しを、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」と言うのです。  まるで主イエスが、悪霊の頭ベルゼブルの手下ででもあるかのように言ったのです。

主イエスは、ファリサイ派の人々に対して、私がもし、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うならば、あなたたちの仲間は、何の力で悪霊を追い出すのか。と逆に問われました。

彼らは、主イエスを通して成し遂げられた神の奇跡を、素直に受け止めようとせず、悪霊の頭の力を借りて、悪霊を追い出したかのように、まるでサタンの国で起きた出来事のように、ファリサイ派の人々は、主イエスに迫っているのです。

さらに主イエスは、ご自分に敵対するファリサイ派の人々にも「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」28節と言われました。

既に、わたし達の中に神の国は、来ているのです。更に、キリストを信じない人の上にも神の御国は、来ているのです。すべての人の上に神の恵みが降り注いでいます。どうか心を開いて手を差し出してください。誰でも神の恵みを受け取る事が出来ます。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-12-30 07:25:50 (1685 ヒット)

本日の聖書 コリントの信徒への手紙第一 6:19〜20

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現しなさい。」


宣教題 「あなたは神が宿る神殿」                

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」ここで、代価と言われているのは、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことを現しています。実に、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことは、私たちを罪から救い出し、神の赦しを得るために、神ご自身が支払ってくださった代価なのです。

私たちは、買い物をします。買い物の際に、代価として、それぞれに付いている値段のお金を支払うのです。わたし達が買い取られた代価の値段は、なんと御子の命ということなのです。つまり神は、わたし達を、それほどまでに愛されている事がわかります。

しかし私たちは、こんなにも愛されていると言うことを忘れてしまって、自分勝手に生きてしまいます。それは買い取られたということを忘れてしまうことです。神から離れてしまうことなのです。私たちが、自分勝手に生きるならば、そこには愛がありません。

ここで「わたしには、すべてのことが許されている」と2回も繰り返されています。おそらくコリント教会の中にいた方の発言でしょう。主イエスの十字架によって救われたこと、罪が赦されたことが、いつの間にか、自分自身の信仰によるものだとなってしまう。

信仰生活が長いと、自分自身が正義である、愛する人である、罪を犯さない良い人である。私は優れたクリスチャンであると、勘違いしてしまい、傲慢になり自分を誇る。そして弱い求道者を見下してしまう。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」私たちが素晴らしいのではなく、聖霊が宿るからその器も光輝くのです。

 


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