本日の聖書 マタイによる福音書9:37,38
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
宣教題 「愚痴より祈り」 牧師 新保雅雄
「収穫」とは、終わりの日、裁きの時のことです。つまり主イエスによって人が救われる時のことを言います。そして「収穫は多いが、働き手が少ない」ということは、福音を必要としている人、救われるべき人は多いが、こうした人々が救われるために働く人が少ないということです
教会の働き、奉仕において、人手不足を実感することがあります。そんな時に、忙しさに疲れて来ると「何故、自分だけ、こんなことをしなければならないのか」と人の批判や愚痴を言いたくなる心が、あらわれてくるときがあります。
主イエスは、言われます。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」願うとは、神に祈ることです。
つまり、人の批判をしたり愚痴を言うより、まず神に祈ることの方が先決だというのです。愚痴より祈りです。
神は必要とあれば、御子イエスさえ、惜しまず十字架の死に渡してまでも、私たちを救おうとされる方です。神は、私たちに必要なものは、必要な時に、惜しまず与えてくださるのです。
主イエスを信じ、必要なことは、ひたすら神に祈ることです。もともとこの働き事態が神のためのものなのです。そして神が、私たちを用いて救いの働きをさせておられるのです。
神の働きのために働くこと、この幸福感を、心と体で手に入れてください。愚痴よりまず祈ることです。
本日の聖書 マタイによる福音書4:18b〜20
イエスは、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
宣教題 「聞き分ける心の耳」 牧師 新保雅雄
主イエスの弟子となった最初の4人は、皆ガリラヤ湖の漁師でした。彼らは、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時に、声を掛けられ、弟子となりました。自分の方から、主イエスに向かって、「私を弟子にしてください」と弟子入りを申し出たのではありません。皆主イエスに声を掛けられて弟子になったのです。全ては、この主イエスの導きの声から始まったのです。
こうして主イエスの招きに応えて、最初の4人の弟子が誕生しました。この4人に共通することは、漁師という仕事中に主イエスから声を掛けられたこと、祈って求めたのではないにも拘らず、誰一人として、躊躇することなく、すぐにイエスに従ったことです
網も舟も父親も残して、彼らは主イエスに従いました。これは、神の働き無しには起こりえない奇跡です。何故なら主イエスは、まだ何一つ、実績を上げておられないからです。病気の人を癒すこと、神のみ国を教えることも、まだ行ってないからです。
ですから主イエスが何者であるのか、まだ誰にも分からない段階で、シモンたちは主イエスに従ったのです。神が彼らの心を動かしてくださったからこそ、主イエスに従うことが出来たのです。
神は、主イエスを通して、私たち一人一人に呼び掛けられます。たとえ私たちに、主イエスの声が聞こえなくても、ここに集められているということが、既に主イエスの呼び掛けを受けているのです。
私たちは、すぐに主イエスに従うことが、出来ないでいるかも知れません。でも、それはそれでいいのです。今日も主イエスは、繰り返し私たちに呼び掛けてくださるからです。
本日の聖書 マタイによる福音書7章21、24節
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。
宣教題 「御心にかないますように」 牧師 新保雅雄
頭の中でいくら知恵を持っていても、いくら聖書に精通していても、口では立派に神を語れたとしても、生活の中に神の御心が生きていなければ、何になるでしょうか。信仰的に立派で、人から尊敬される者が、父なる神の御心を行っているとは限らない、と主は言われるのです。
それでは神の御心とは何でしょうか?「人がみずからの罪を認め、イエス・キリストを信じて救われることなのです」つまり罪を悔い改めて、神に立ち返ることなのです。宗教的に立派なことが出来ることではない。まず本当の自分は何者なのかを知ることなのです。
主イエスは更に続けて、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている」と言われました。
この「賢い」とは、頭の良し悪しではありません。主イエスの言葉を持っていることを言います。平和な時には、賢い人も愚かな人も区別がつかない。しかし艱難が襲った時に、主イエスの言葉を自分のものとしている人は強い「岩の上に家を建てた賢い人」なのです。
主イエスの御言葉は、頭の中だけにあるのではなく、生活の中にあってこそ初めて、その力が発揮されるのです。言うだけ、聞くだけは、誰にもできることです。主イエスの御言葉を行う人(生活の中にある)こそ、それを自分のものにしているということ、めぐみなのです。
しかしなかなか自身の力で、行うことはできません。であるなら信じて祈ることです。弱い自分を正直に告白することです。そうすれば主イエスが、それを行う力も備えて与えて下さる。
本日の聖書 マタイによる福音書 6章19〜21節
「あなたがたは地上に富を積んではならない。 そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
宣教題 「あなたの富はどこにあるのか」 牧師 新保雅雄
もし皆さんが聖書を知らないで人生を送るとすれば、当たり前に地上に富を積んでいたでしょう。そして手に入れた富は、決して離さないように自分の金庫(心、倉)にしまいこんでいることでしょう。
地上に富を積むとは、自分の倉にしまいこんで自分の為にだけ使うことです。ですから富とは宝物なのです。宝物とは、しっかり鍵をかけてしまいこむもの、決して離したくないものなのです。
主イエスは、「地上に富を積んではならない。」と言われました。なぜなら、「そこでは、虫が食ったり、さびついたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」からだと言われるのです。
富は自分のものとしてあるのであって、他人へ分け与える事ができないのです。そのことを虫が食ったりさびつくと言われています。
またその富を狙って人は、騙し、恨み、奪いあい、末には殺人まで起こします。地上に富を積むことに心を向けすぎると、多くの罪を増やす原因になるのです。
主イエスは言われます、「自分を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい。」そして「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言われました。あなたの富はどこにあるのですか?
天に富を積むとは、愛を宝物にするということです。こんな世にあっても、神の愛を心に持つとき、必ずあなたの心も愛という祝福で満たされるのです。
本日の聖書 マタイによる福音書4章4節
人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る。一つ一つのことばで生きる。」と書いてある。
宣教題 「主はあなたの苦しみを知る」 牧師 新保雅雄
神の子である主イエスは、人間を罪の世界から救う為に、天から降ってこられた。いよいよ愛の世界の始まりです。しかしこれを喜べないのがサタン、悪魔です。せっかく人間の祖アダムとエバを誘惑して神様から引き離し、罪の世界を造ったのですから困るのです。
そこで、主イエスがバプテスマを受けると、悪魔は、あわててやってきました。人々に神の御国について教え始める前に、何とかキリストを悪の側に誘惑しようとやってきたのです。
その後、主イエスは、祈るために荒野にいました。祈りとは神様との対話です。主イエスは、これから人々を救うにあたって、神様といろいろ相談していたのでしょう。神様との祈りは、食事もとらずに四十日間も続きました。主イエスは、神であるとはいえ人間の肉体を持つのです、さすがに空腹が襲いかかってきます。
そのすきをついてサタンは現れ、「腹が減っているんだろう。神の子なら、そこらに転がっている石をパンに変えて食べたらどうだ。おいしいぞ。」と、主イエスを誘惑によって攻撃したのです。
しかし主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る。一つ一つのことばで生きる。」とサタンに言い放ちました。
主イエスは神だから当然のことのように、サタンに圧勝したかというとそうではありません。ぎりぎりのところで、神様の言葉によってサタンを撃退することに成功したのです。
「キリストは、自分自身も弱さを身にまとっているので、迷っている人を思いやる事が出来るのです。」ヘブル5:2 主イエスは、自分も人となり、悪の誘惑に打ち勝つことが、どんなに難しいかを経験されたのです。だから、あなたの弱さも苦しみも分かるのです。どうか自分の弱さを恥じることなく、主イエスに告白してください。