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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2013-03-03 07:19:31 (1674 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書 13章29節

主人は言った「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」


宣教題  「あなたは大切な一本の麦」             

畑に良い種が蒔かれました。その夜、闇に紛れて悪魔がやってきて、毒麦の種を蒔いていきました。時が立ち、両方とも成長する。やがて穂がつき始める。そこで初めて、毒麦が混ざって生えていたことに気がつく。農夫達は、大変だ、すぐ抜かなくてはならない。世の常識で考えれば、毒麦が生えている、と分かった時点で抜きとるでしょう。

「毒麦」、これを食べると食中毒をおこす恐ろしいものです。当時は、死ぬ者もいたことでしょう。農夫は、主人に言います。「今すぐに毒麦を抜きに行きましょうか」。ところが、この主人は、「毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜くかもしれない。だから毒麦を抜かないで、そのままにしておきなさい。」こう言うのです。

この「主人」とは、神様のことです。なぜこの主人は、毒麦だと分かった時点で、毒麦を抜かないのでしょうか? 早く抜かなければ、他の良い麦の生長にも悪い影響を与えます。それに毒のある麦ですから、わかった時点で、早く引き抜かなければなりません。しかし神様は、抜かないで、刈り入れのときまで、そのままにしておけと言うのです。

ここに「神様の愛」があります。毒麦を抜くときに、間違って良い麦も一緒に抜かれてしまうかもしれない。たった1本の麦さえも、誤って抜かれてしまうことがあってはならない。私たち一人一人は、神さまにとって、大切な1本の良い麦なのです。しかし農夫は、良い麦を守るには、多少の犠牲があっても、今のうちに抜いてしまおう。そう思ったのです。

1本でも間違って抜くことがないように。待ってくださる神の愛。今私たちには、困難や試練もあるかもしれない。あるいは毒麦に毒されているかもしれない。しかし、愛されているのです。神さまは、確かに愛する良い種を蒔かれたのです。そのことを信じてください。その時が来れば、あなたは必ず神の御国へと救われます。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-02-23 23:39:06 (1243 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書25章14〜15節

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン預けて旅に出かけた。」


宣教題 「天の国の生き方」  北村 紀一              

「ある人が旅行に出かけるとき、僕(しもべ)たちを呼んで、自分の財産を預けた」(14節)。主人が僕たちに自分の財産を預ける。それは、私たちの人生は、神さまのものを預かって生きている、ということです。

預けられた人生を生きる。それは今日のたとえ話においては、3人の僕が主人の財産を、それぞれの力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントン預けられて、そのタラントンをどのように生かしたかという内容です。

この内容を単純に考えると、預けられた財産を活用して儲けた者はほめられ、財産を運用しないで、儲けなかった者が叱られてしまうかのように思われます。では、主人がほめたり、叱ったりする理由は、儲けがあったか無かったか、ということなのでしょうか。

そうではありません。預けられたものが大きくても小さくても、その財産を何らかの形で生かそうと努めたのであれば、たとえ儲けが無かったとしても、主人はやはり、「忠実な良い僕だ。よくやった」とほめてくださるに違いありません。つまり、主人は、財産(神さまの知識)を持っているかどうかではなく、私たちが信仰を持って、神さまの御心に従うかどうか、つまり与えられた財産を生かそうとしたかどうか、その思い、志、生き方をみているのです。

私たちは、人と自分を比べて、自分のことを評価しようとします。だから、自分が劣っていると、何か一生懸命することが馬鹿らしくなったり、やる気をなくしたり、人をうらやんだり、妬んだり、いじけたりします。そして「神さまは不公平だ」と考えたりします。そういう時、自分に預けられたものは、他人と比較すれば小さく見えることもあるでしょう。

けれども、惑わされないで、しっかり見れば、与えられているものは決して小さくはなく、一タラントン(約1億円)でも、むしろ大きいのです。そのように主から預けられたものを信じれば、比較の問題よりも、自分は自分として、自分らしく精一杯生きれることに感謝し、いつも主と人に感謝する心(天の国)が拡がるのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-02-17 06:20:18 (1483 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書 13章10〜13節

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」

宣教題 「御国の秘密を知る者たち」  牧師 新保雅雄              

前回は主イエスが「種を蒔く人」のたとえ話しをされました。そして今回のところで「種を蒔く人」のたとえ話の説明を、弟子たちだけにされています。

弟子たちには、たとえの説明をし、そのほかの群衆には、たとえを語ることだけで終わっているのです。主イエスは、弟子たちと他の人たち、群衆との間に、なぜ違いを設けているのでしょうか?

11節で、「天の国の秘密」という言葉を主イエスは、使っています。秘密というものは、みんなが知っていたら秘密になりません。一部の人だけが知っているから「秘密」なのです。主イエスの言われる「秘密」とは、神の御子イエス・キリストによって人類が救われるという、神さまの御計画のことです。

もっとストレートに、「わたしがキリストだ」「聖書が預言しているのはわたしのことだ」「わたしが神の子だ」と、言わないのでしょうか? それは、彼らが「理解できないから」だと、主イエスは言われています。では弟子たちと群衆の違いは、なんでしょうか? 

群衆は、目的を果たすと去っていきます。病気を癒してもらったら、主イエスのもとを去って帰っていきます。しかし弟子たちは、そうではありません。主イエスの周りにいつもいました。彼らは神を求めていたのです。御国を求めていたのです。

弟子たちは、癒された側から、癒す側になっていくのです。そのためにはイエス・キリストは、神の御子である確信が必要なのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-02-10 06:42:09 (1401 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書13章1〜9

イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」


宣教題 「私の心が良い土地になりますように」 牧師 新保雅雄              

今朝のたとえ話は蒔かれた種のお話です。おそらく種とは、小麦のことでしょう。パレスチナでは畑に種を蒔くときに、乾燥しているので深く耕さないで、種を蒔いてあとから土をかけていくそうです

ここで言われる「種」とは御言葉のことです。「畑」とは、私たちのことです。つまり主イエスが私たちに聖書を通して御言葉を語るということです。そしてその種には、百倍、六十倍、三十倍の小麦の実を付けるのです。この御言葉には大きな力があるのです。

しかし蒔かれた種が全て順調に育つわけではありません。あなたの心のあり方、信仰によって違うのです。「道端に落ちた種」のように、すぐに鳥が来て食べてしまう。聴くだけで留まらない人。

「石だらけで土の少ない所に落ちた種」のように、すぐ芽を出し受け入れるが、土が浅く根がないので、艱難があると直ぐやめてしまう。また「茨の間に落ちた種」のようにとは、種と一緒に茨も伸びていく、世の思いへの欲望が信仰の芽を妨げてしまう。

そして「良い地に落ちた種」は、御言葉を聞いて素直に受け入れる人である。その人は、一粒の種が百倍、六十倍、三十倍にもなる収穫を与えられるのです。主イエスの御言葉には、大きな力があります。私たちが、御言葉に聴き従い、それに従っていくならば、大きく豊かな実を結びます。種は蒔かれました。あとは種の力を信じてすべてを委ねてください。希望の人生が待っています。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2013-02-03 05:49:17 (1682 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書12章48〜50節

「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」


宣教題 「主イエスの家族」    牧師 新保雅雄              

弟子達は、主イエスの母マリアと兄弟たちが、会いに来ていると主イエスに告げました。すると主イエスは、「わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か」と言われ、弟子たちのほうを指して言われました。「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」

 主イエスは、なぜこのように言われたのでしょうか? たいへん冷たい言葉に聞こえてしまいます。これは主イエスの家族、肉親に向けて語られた言葉ではなく、弟子たちに向かって語られた言葉なのです。そうすると、意味が分かってきます。

ここにいる弟子たちは、主イエスにとって肉親と同じく大切であり、かけがえのない存在なのだ、ということになるのです。

血のつながりも何もない、それぞれ異なる人生を歩み、お互いなんのつながりもなかった人々が、主イエスのもとに一つに集められている。この弟子たちを指して、主イエスは、あなたがたは「わたしの母、わたしの兄弟」わたしの家族だというのです。

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」父の御心を行う人とは、何か立派な行いをした人なのでしょうか? 

主イエスの弟子たちは、社会的に決して立派な人たちでもなかったし、高学歴や有名な人でもなかった。ただ主イエスに従い、主イエスの語る御国のお話に耳を傾けている。彼らの行いとは、ただそれだけのことなのです。それが父なる神様の御心なのです。


 


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