祝バプテスマ!
中島準一兄、森啓太郎兄、おめでとうございます。
ここに来るまで、いろいろありましたが、まずはひとまず安心しました。主にある兄弟姉妹とともに、心からお祝いいたします。
バプテスマは、ここで完成、終わりではありあせん。ここからが神の子としての新しい人生の出発点なのです。つまり卒業式ではなく、入学式です。ですから、これからいろいろな試練も喜びも、また葛藤することもあるでしょう。
バプテスマを受けたからと言って、まったく罪のない、誘惑に負けない自分になるのではありません。どんな試練の波が襲ってきたとしても、神があなたを守ってくださるのです。あなたは、もう一人ではなく、神があなたと共におられるのです
今は、まだ実感が持てないでしょうが、ある時、確信が持てるようになります。自分自身も驚くような確信です。本日は、水によるバプテスマですが、いずれ聖霊によるバプテスマが、あなたに降ります。どうか信じて、クリスチャン人生を楽しんでください。離れず繋がっていれば、必ず祝福が訪れます。
本日の中心聖句 ルカによる福音書15章20節
宣教題 『我が家へ帰ろう』 牧師 新保雅雄
「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
放蕩の限りをし尽くし、全財産を使いはたした息子が、ぼろぼろになって、父親の元に帰ってきました。すると、まだ遠く離れているのに、父親は彼を見つけ憐れに思い、走り寄って迎え入れ、何も聞かず、只思いっきり抱き締めたのです。ここに、神の愛が示されています。天の父は、立ち帰る者に何も言わず、無条件で迎え入れてくださるのです。今日、二人の兄弟が、我が屋に帰ってきました。
お帰りなさい。 ああ感謝、感謝・・・
本日の聖書 マタイによる福音書10:32
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」
宣教題 「信仰を言い現す」 牧師 新保雅雄
主イエスは、12弟子を福音伝道に遣わすに当たり、改めて弟子たちに覚悟して行くように語りました。
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」
これは、主イエスの弟子だということで、歓迎されるのではなく、むしろ、社会では、嫌がられることの方が多いとうことなのです。
たとえ厳しい状況が待っていたとしても、自分は主イエスの仲間だと言い表すならば、主イエスもまた、天の父の前で、その人のことを、ご自分の仲間である、と言い表してくださるというのです。
どうでしょうか? 私たちは、どんな状況にあっても、「わたしはクリスチャンです」と、はっきり信仰を表すこと事が、出来ているでしょうか。自分の都合のいい時、悪い時で使い分けしていないでしょうか。
続いて主イエスは、こう言われます。
「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
この現世ですべてが終わる、その後は何も無い、と考える人にとっては、主イエスの言われることは、理解出来ないでしょう。その人にとっては、終わりの日のことよりも、今現世で、いかに要領良く生きるか、義よりも利益を優先することに何の疑いも持たない。
しかし、天の国があり、終わりの日の裁きがあるならば、主イエスのこの言葉は、私たちのこの世でのクリスチャン人生に、大きな勇気を与えてくれるでしょう。
本日の聖書 マタイによる福音書10:28
「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」
宣教題 「恐れず語りなさい」 牧師 新保雅雄
主イエスは、12弟子を福音伝道へ送り出すに当たり、「人々を恐れてはならない」(26節)、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)、「だから、恐れるな」(31節)と何回も「恐れるな」と繰り返し言われました。
親しい人や教会に来会する人に、神様のお話をすることは、そう難しいことではありません。しかし、こちらから出かけて行って、理解のない人や、初めての人に、神様のお話をすることって、大変勇気のいることです。主イエスに派遣される弟子たちも、おそらく心の中は、大変不安であったろうと思います。
それでは一体、私たちは、何を恐れて不安になるのでしょうか。世間体でしょうか、自分の評判でしょうか、人から文句を言われることでしょうか、批判を浴びること、恥ずかしさでしょうか。確かに宗教というだけで、嫌な目で見られることがあります。
心では愛する父なる神のお話をしたい。本当の心の安らぎや癒しを、多くの人にも味わってほしい。そう願うのです。しかし肉体的な思い、社会的な思いが、不安や恐れを覚えるのです。
そんな不安でいっぱいな弟子たちに、主イエスは「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」と言われるのです。
続けて主イエスは、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(26節)と言われます。神は、肉体の思いも心の想いも、全てをご存じなのです。だから勇気を持って、愛する父なる神を語り続けたい。
本日の聖書 マタイによる福音書10章16節
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように、賢く、鳩のように素直になりなさい。」
本日の聖書 マタイによる福音書10章16節
宣教題 「鳩のように、時には蛇のように」 牧師 新保雅雄
主イエスは、ご自分が選ばれた12弟子を、福音伝道に遣わすに当たり、様々な注意を与えられました。福音伝道は、決して簡単ではありません。弟子達を待ち受けているのは「狼の群れに羊を送り込むようなもの」なのです。では何故そのような中に、弟子たちを遣わすのでしょうか。
弟子たちを派遣するきっかけとなったのは、「群衆が飼う者のいない羊のようであった」からです。飼う者がいない羊は、狼や猛獣の餌食になっているのです。そこから一人でも多くの羊を救うためです。
だから、そこへ遣わされる弟子達も、狼や猛獣の群れの中に入っていくのです。しかも、彼ら自身も弱い羊なのです。それゆえ主イエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われるのです。
では蛇のように賢くとは何か。このあと主イエスは「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と語ります。ここに蛇の賢さがあります。蛇が危険を察知して逃げていくように、逃げることも賢さなのです。相手が嫌がり敵対しているのに、何とかねじ伏せようとする。自分の行っていることは正義、真理なのだ。それではダメなのです。
キリストの教えは本当に素晴らしい。だから誰もが喜んでそれを受け入れてくれるはずだ。それはとても素直な考えかたです。しかし、実際に福音伝道を行うとき、そう簡単ではないことに気づきます。
当時、キリストに対する熱狂的な信仰が群衆にはありました。しかし、それを上回るくらいに、キリストに対する反感もあるのです。信仰が熱すぎるあまり、福音伝道が行き過ぎてしまう、余計に反感を高めてしまう。だからこそ弟子たちには、「蛇のように賢く、鳩のように素直になる」ことが求められているのです。
本日の聖書 マタイによる福音書10章1節
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。」
宣教題 「十二人を選ぶ」 牧師 新保雅雄
ここには、12使徒の名前が記されています。最初の4人、ペトロと、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ、彼らはもと漁師です。マタイは、ローマに仕える徴税人でした。シモンは、ローマ帝国からの独立をねらう過激な政治団体、熱心党の党員です。本来一緒に行動することが出来ないような人たちです。
主イエスによる12使徒の選び方には、ただ一点重要な意味があります。それは自分ではなく主を誇る者であるということです。この世の地位や肩書き、能力に選ばれる基準があるのではありません。むしろ、何もない救いを求める飢え渇きにこそ、選びの基準があるようです。
つまり自らの能力や実績や成果を誇ることの出来ない者であること、ただ神の恵みによって自分が生かされ、用いられていることを知っていること、このことが弟子には欠かせないのです。
主イエスは、こうして選んだ12人を福音宣教の旅へと派遣されました。そして金銭も下着も、履物も杖も一切持たずに行くようにと指示されたのです。使徒たちは不安だったことでしょう。しかし、派遣された現場で使徒たちは、不思議にも必要なものを備えてくださる主の導きを経験するのです。
何も持ち得ない時、不安がつのります。しかし、それだからこそ神に心から真剣に依り頼むことができるのです。逆に沢山のものを持ち得ているとき、少なからず自分の力、能力に過信してしまいます。その時、神に何を願うのでしょうか。
私たちも12使徒のように、たとえ身支度が十分で無いと感じる中にあっても備えて下さる主に依り頼みながら証し人でありたい。