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投稿者 : church 投稿日時: 2012-11-11 07:14:06 (1660 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書11章20節

「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。」

宣教題 「悔い改めない町を叱る」   牧師 新保雅雄

今朝の聖書個所は、主イエスが悔い改めを求めて、たいへん厳しく町々を叱り付けています。叱り付けている町は、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムというガリラヤ湖の北にある町々です。

これらの町は、度々聖書に出てくる町です。ここで主イエスは沢山の奇跡を行い、悪霊を追い出し、病気の人々を癒されました。 

ところが、これらの町々に住む人々は、奇跡を目の当たりにしても、主イエスをキリストとして、悔い改めて神に立ち帰ることがありませんでした。そこで主イエスは、強く叱り付けたのです。

「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」。この「不幸だ」という言葉は、ユダヤ教の会堂への出入り禁止を宣告する時にも用いられる、大変厳しい言葉です。

これらのガリラヤの町々を批判するために、悪名高きティルスやシドン、それにソドムを喩えに出された程、これらの町々は、不道徳に満ちた町なのです。不道徳な町ソドムを、神は滅ぼそうとしました。そこでアブラハムは、神に滅ぼさないように繰り返し願いました。しかし願いも空しく滅ぼされました(創18)

主イエスは、ソドムを始めとする、不道徳で罪深い町々の方が、「まだ軽い罰で済む」と言われています。つまり神の奇跡が行われても、悔い改め神に立ち帰ろうとしない、ガリラヤの町々よりもソドムの方がまだましだと、厳しく警告しています。

果たして私達は、どうでしょうか。主イエスが私たちの罪を荷って十字架で死んで、三日目に復活し、今も生きておられる奇跡を知らされているのです。これほどの愛が、神から示されているにも拘わらず、悔い改めることも無く、神に立ち帰ることも無いならば、一体どんな言葉が、主イエスから語られるでしょうか。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-11-04 08:07:11 (2232 ヒット)

本日の聖書 使徒言行録10章9〜16節

「翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅にでつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」

宣教題「ペトロの見た幻」  牧師 黒瀬 博

ペテロの見た幻

ペテロはローマの百人隊長コルネリオに招かれてカイザリヤに上ってゆく前に幻を見ました。この幻の内容は、原始キリスト教会の方向性を決める重要なものでしたが、それだけでなく、今日のキリスト教会もまた再確認する内容を含んでいると考えられます。というのは、旧約律法を否定するというのが、この幻の直接のメッセージですが、今の時代に合わせた解釈するなら、律法的発想から自由になりなさいと言う神様のメッセージとして捉えることができるからです。イエス・キリスト以来、キリスト教は律法を乗り越える方向へと発展してきましたが、長い歴史の中で、いつのまにか再度律法的発想が教会に忍び込んできている面はないでしょうか。その点を反省するためにも、このペテロ見た幻の物語は重要であると思われます。

ペテロがヨッパという町で活動していたときのことです。丁度、昼の12時頃、祈りの中でペテロは幻を見ました。「夢ごごち」と書かれているので、日本語の「白日夢」のようなものだったのでしょう。天の窓が開けて大きな敷布のような布が降ろされてきました。よく見ると、その中には動物の肉が並べられていました。もちろん、料理されていて、もうすぐに食べられる状態になっていたのでしょう。ペテロはおなかが空いていたので、食べたいと思ったのですが、よく見ると、それは律法で食べてはならないと命じられている肉ばかりでした。

天からの声は「さあ、食べなさい」というものでしたが、ペテロは答えました。「私はまだ清くない動物の肉を食べたことはありません。」非常にえん曲な言い方ですが、神の声に対するお断りの言葉になっています。ところが、再び神の声がしました。「神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない。」

この神の声はたいへん説得力ある内容となっています。一体誰が神の清めたものを「清くない」などと言う権威を持っているでしょうか。人間である限り、誰も神に逆らうことはできません。

人間の目には綺麗と思うものでも、実は汚かったということはよくあります。しかし、その逆に、人間の目には汚いと思えるものが実は綺麗である。そういうことがあるのでしょうか。めったにあることではないと思えるのですが、こうやって、聖書の中で「神の清めたものを清くないなどと言ってはいけない」という御言葉があるということは、そういうこともあるのかと思わなければなりません。

この御言葉は人間の常識を根底からひっくり返す驚くべき、そして、考えようによっては恐るべき内容を含んでいます。私たちは、いつも自分の判断を頼りに生活しています。これは綺麗、これは汚い。これは食べられる、これは食べられない。これは正しい、これは間違っている。・・・といろいろな状況の中で、誰かに相談するわけではなく、自分で考えて判断しています。この能力は「理性」とも、「良心」とも言われることもありますが、神様が与えてくださった能力ですから、大切にしなければなりません。

しかし、このペテロの幻のメッセージにもありますように、私たちの理性による判断がいつも正しいわけではありません。これは、少々困った現実ですが、振り返って見ると、たしかにそういうことが多々ありました。自分かってな思いこみや、間違った判断をして失敗したことを挙げてゆくとキリがありません。人間は理性を持っていますが、それにも係わらず、間違うこともしばしばです。ですから、神が清めたものに対しては、自分の信念を曲げてでも、それを率直に認め、受け入れる素直さを持ちたいものです。

ペテロは、原始キリスト教会の指導者のひとりでしたが、この頃、まだ旧約律法を守ることが必要だと考えていました。旧約律法を守るべきかどうかという問題は、今日では問題になりませんが、原始キリスト教会では解決の難しい大問題でした。原始エルサレム教会では、クリスチャンは律法を守るのが当然とされていました。一方、異邦人教会では律法を守らなくて良いという考えがすでに確立していました。なぜなら、イエス・キリストの十字架により、律法がすでに廃棄されているからです。この深刻な理論的対立の中で、パウロは反律法派の旗頭でした。ペテロは、12弟子の代表として全キリスト教会を代表する人物でしたが、彼がどう考えるかはキリスト教の将来を左右するほどの重要性があったのです。

そのような状況の中で、ペテロは幻を見たのです。神は「私が清めたものを清くないとは言ってはならない。」と教えて、律法の限界をペテロに教えたのです。ペテロは穏健な人物だったので、ユダヤ人クリスチャンに対して、律法を止めましょうとは勧めなかったようですが、アンテオケなどでは、異邦人クリスチャンと仲良く生活し、パウロとも交わりを持っています。ところが、エルサレムから厳格派のクリスチャンがやってくると、彼らへの配慮からだと思いますが、しばらく異邦人との交わりを控えるという行動に出ました。これをパウロに見とがめられて、パウロがペテロを叱責するという大事件が起こりました。

ペテロは12弟子の中でも一番弟子です。そのペテロをパウロが叱責するのですから、パウロの勇気はたいしたものです。ペテロは、それに腹を立てたかというと、聖書には何も書かれていないところを見ると、おそらく、パウロを赦したのではないでしょうか。ペテロはそれほど太っ腹の大人物だったとも考えらます。

とにかく、ペテロが律法について寛容な考え方をするようになったことが、初期キリスト教の発展を助けたことは確かであって、その前提にこの幻があるのですから、やはり、キリスト教会は、この方向に発展しなければなりませんし、これからも、律法的考え方を排除し、律法ではなく、倫理を中心とした生活態度を確立し、神様に喜ばれる人生を歩みたいと思います。




 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-10-28 06:29:58 (2069 ヒット)

本日の聖書 イザヤ書40章29〜31節

「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

宣教題 「主に望みをおく人」   北村紀一 

このイザヤ40章を書き記した時代は、希望を持つことが困難な時代でした。バビロンとの戦いに敗れ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。この時の預言者も同じように捕囚の身でした。バビロンにおける捕囚生活が50年も続いたので、神様は自分たちのことを忘れたのではないか、神様の目には自分たちの苦しみが見えていないのではないか、と、絶望的になっていました。どこを見ても捕囚から解放されるという保証が見当たらなかったからです。先が見えない、希望を持てないということはとてもつらいことです。

しかし、主に望みをおく人は、その厳しい現実の中で、聖書を通して静かな神の御声を聴き取りました。私たちの人生にもまた厳しい時があります。しかし、それでも神様を信じて下さい。さまざまな雑音が、絶望的に鳴り響く中にいるときは、本当に聞き取りにくいかもしれません。それでも、その時こそ、あなたに語りかける静かなみ言葉に耳を傾けて下さい。求め続けて下さい。

大事なことは、人間により頼まないこと。主にだけより頼むこと。主に期待し続けることです。その祈りが、直ぐに効果を生まなかったとしても、目の前のことだけに惑わされないで、静かに主の最善を信じ、待ち続けることが大切です。

つまり、委ねきることです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」と言います。この御言葉にある“新たな力”を与えられるのは主である神様です。主に望みをおく人には、疲れている時、弱っている時、苦しい時、悩んでいる時、必ず必要な力が与えられることを教えられるのです。

「鷲のように翼を張って上る」のは、鷲は翼を伸ばすと2〜3メートルになりますが、大きな羽(自分の力)でばたばたしたら、すぐに疲れてしまいます。自分では羽を動かさないで羽を広げて、上って来る風を掴んで上昇します。私たちも、どんなに現実が困難であっても、疲れきったような状態でも、主にこそより頼み、すべてをお任せして、その現実に立ち向かうのです。惑わされやすい弱い私たちですから、信仰による翼を思いっきり広げられるよう、いつも、主に望みをおくことができるように祈り求めていきましょう。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2012-10-14 06:51:17 (1609 ヒット)

本日の聖書 ヨシュア記6:1〜2節 

「エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。そのとき、主はヨシュアに言われた。『見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」

宣教題 「信仰の戦い」  北村 紀一

 イスラエルがエリコの町を占領するときのことです。ここで注目すべきは、イスラエルに力があったから占領できたのではなく、先立って共におられた主が戦われていたから、約束の地であるエリコを陥落できたということです。

ヨシュアは2人の偵察隊をエリコに送りました。40年前、モーセ率いるイスラエルがこの地に入ろうとしたときは12人の偵察隊を送りましたが、その時は、10人が「エリコに勝てない。住民は強く、町は城壁に囲まれ、しかも彼らは我々よりも強い」と報告したのです。見た目に惑わされて、主を見なかったイスラエルは神さまにそむいて約束の地に背を向けてしまったのでした。そのためにイスラエルは40年も荒野を彷徨ことになったのです。

何を頼りにして生きるのか。どこに目を向けて生きるのかで、私たちは約束の地に入るのか、それとも荒野を彷徨のかに分かれてしまいます。

偵察隊の2人は、エリコで遊女ラハブに助けられて、無事に戻り、ヨシュアに報告しました。「強そうに見えるエリコの人々は、恐怖に襲われ、すっかりおじけづいていました。」これはイスラエルが強い国だからではなく、先立って導いておられる主に対してです。それで、エリコはイスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしていました。つまり、エリコは神さまに対して壁をつくっていたのです。私たちが神様を知らなかったとき、神様に心を閉ざして、頼りにならないものを頼りにして生きていた姿がここにあります。互いに不信感を持ち、心を硬く閉ざして、隣人との関係を持つことに対して恐れを持っている姿です。

どんなに強固な壁を造っても、神さまにとっては全く意味がありません。なぜならば神さまは私たちのすべてをご存じであり、私たちが本来あるべき姿に戻るために内側から働かれるからです。神さまは、私たちを滅ぼすためではなく、生かすために先立って戦われるのです。ですから、目の前にどんなに大きな壁があっても惑わされないように、私たちは神さまにこそ目を向けるべきなのです。

ただ、神さまに信頼して従うとき、私たちは約束の地へと導かれます。


投稿者 : church 投稿日時: 2012-10-07 07:26:34 (1632 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書11:3、4

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。イエスはお答えになった。行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」

宣教題 「キリストの御言葉を下さい」  牧師 新保雅雄

バプテスマのヨハネは、今、牢に囚われています。牢の中で主イエスの噂を聞きました。そこで自分の弟子を主イエスに尋ねさせました「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」「来るべき方」とは、キリストのことです

これに対して主イエスは、ヨハネの弟子たちの質問には、直接的には、お答えにならずに、こう言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」でした。

それではヨハネの弟子たちは、何を見聞きしたのでしょうか。主イエスは貧しい者たち、人に見下されている者たち、無価値な者たちに語っておられた福音の言葉なのです。

ヨハネは、その主イエスの福音の言葉、救いの奇跡を一度も見聞きできなかったのです。自分が捕らえられるまで、主イエスは福音伝道を行われなかったからです。だから今、牢の中で苦しみ、叫んでいるのです。救い主イエスが語る、神の言葉を求めているのです。

そして主イエスは、ご自身が行った奇跡、癒し、語られた福音の数々を語られました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」この祝福の福音を、死に直面しているヨハネに送られたのです。

私たちの人生にも、苦難が押し寄せるときがあります。そんな時に心から信頼できているでしょうか。信仰が揺らぐ時がないでしょうか。時として自身の信仰の弱さを思いやられる時があります。そのようなときこそ、キリスト・イエスの御言葉が必要なのです。


 


 


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